炎上①
それから数分後、カーテンの外が幾分か青白く日を落とした頃。柚希は洗った手をハンカチで拭きもせず自室のドアノブをひねると、ぼふっ……とマットレスに飛び込むようにして沈んだ。
ややあって真っ暗な世界に光が灯る。柚希は手だけ伸ばして、ベッド横の充電タップにスマートフォンを繋げたのだ。静かな部屋で、スマートフォンは時を刻むようにピッピッピッピッと通知音を鳴らした。柚希は片目だけ開けて画面を見る。ポップアップされているのは、ワズキアカウントのリプライや引用リポストだ。内容は見ないうちに画面を消した。この調子ではいつか充電されるスピードよりも消費されるスピードの方が勝ってしまって、ゲームさえ出来なくなりそうだ。
「引き継ぎパスワード……」
柚希はつぶやく。妹の誕生日は、今も覚えている。のろのろと身体を動かしてベッド下の引き出しを開けた。中に入っているのは、ジェルネイルと、ちょっとオトナっぽい手帳、万年筆、イヤリングなど。どれも妹の好きな青色だ。
柚希は半ば現実逃避的に、「今年は十六だから……」と花の綻ぶような年頃の妹を想像した。妹は柚希に似て垂れ目だ。ナメられがちだなんて、よく愚痴っていた。すると父は「母さんに似てマセてるなぁ」とオッサン臭いことを言って、妹を怒らせるのだ。小学生にも色々ある。妹はその年相応の荒波に揉まれ、成長していくはずだった。そのはずだった。
柚希は這い上がるみたいにベッドに戻って、未だにピコピコ言うスマートフォンの電源を落とした。それからまた鈍い動作でベッドを降り、十年近く世話になっている学習デスクに近づいて鞄を開く。タブレットを出したら、一時間ほどそのまま、座っていた。
課題の最初の一問を解き終え、二問目──。眼球を動かしたとき、クラッときた。ここのところよくある目眩だ。洗濯機の中でぐちゃぐちゃに洗われているような気分を味わいながら、額を押さえる。
……ちょっと休憩しよう。柚希はそう思い、鞄の中の教科書類を時間割順に入れ替えた。それから見たくもないスマートフォンの電源を入れて、アラームの時間を少しだけ遅くする。少しでも学校にいる時間を短くするためだ。そのとき、また通知が来た。未読が百件近く溜まったそのグループチャットは柚希の所属するクラスのものだ。時間割の変更の知らせや委員会の提出物の締切だったりすると、困るのは柚希である。そうっと、怖いものを見るようにタップする。実際、中身は怖いものしか無かった。
[ちやほやして損したよな]
[まだこれ見てんのかな?]
[えー。キモw]
[そろそろ退会させたいんだけど]
[それやったらイジメじゃん]
[それはそう]
──何が“それはそう”だ。もう既に、いじめだ。そうじゃなかったら僕のこの気持ちは、何ていう名前をつければいいんだよ。
スマートフォンのブルーライトが柚希の顔に強い影を落とす。柚希はログをざっと見て、見るべきものがないことを悟ると、すぐにまた画面を落とした。
[そこまで言わなくていいじゃん……]
最後にチラリとヲタク系生徒のメッセージが顔を出したが、柚希は新規の悪口をわざわざ見ようとはしなかったから、それが目に入ることはない。
長期休み明けの学校は最初、柚希にとって唯一の平穏な逃げ場だった。でも九月一日の時点でそんなことはないとわかった。柚希はいつものメンバーで弁当を食べられなかったし、放課後に声を掛けてくる人は誰もいなかった。しばらくしたら学校もネットと変わらない状態になった。柚希は、そういう扱いをして良い相手だと認識されたのだ。一軍女子のあの子も、真ん中で頬をへこませるあいつも、掌を返してしまえばこれまで築き上げた盤面ごと崩れる。学校はそういう場所だ。だからこそ柚希はこれまで、神経質なまでにキョロキョロしてリア充のふりをしていた。
柚希は傷つきはしているものの、口では彼らを責めなかった。それは柚希が臆病者だからではない。というか、ここまで来たら何をしたって嫌われ者だから、いっそ「何でこんなことをするんだ!」と叫んだって良かった。柚希がそれをしなかったのは、ひとえに、“返ってきた”と思ったからだ。返ってきた。返ってきたのだ。彼らに本音で歩み寄らなかったから、仲良しのふりをしていたから、柚希は簡単に見捨てられたのだ。自業自得。柚希の臆病が、クラスメイトから見た柚希を他人にしたのだ──。そんなふうに言い聞かせないと、聖人でも何でもない柚希は彼らに唾を吐きつけてしまいそうだった。
柚希はPC前にドカリと腰掛けた。椅子の軋む音が響く。しばらく、つまらなそうな顔で新作ネトゲについてのネットサーフィンをしていたが、結局、柚希は自分の律儀な性格に音を上げた。メールボックスを開く。
柚希は自罰的ではあったが、Wi−Fiの届く中で産まれた子供だけあって、最低限の自衛は行っている。明らかにビジネスとは関係のないアドレスからの誹謗中傷をブロックしつつ──邪魔なので──、全てに目を通す。
するとごみ貯めの中に見覚えのあるアドレスからのメールを見つけた。心を殺して作業しただけあったな、と柚希は自分を褒めながらそれをクリックする。そして愕然とした。
“大変申し訳ありませんが、契約は解消させていただきます。”
まずその文が目に飛び込んできて、柚希はそれ以上読みたくなくなった。上にも下にも五行以上ある。スクロールしないと全文は読めないくらい長い。嫌だ、と柚希は思った。色んな考えが一度に頭を過る。
一度は本社に出向いて挨拶をして──ああ、あのときの遠出はさながら冒険だった──でもこの会社さえ──契約したとき、握手したよな──顔も合わせて──それでも、それでもこのストリーマー事務所は、氏は柚希を見限ったというのか?
普通に考えて、おかしい。契約解除するならせめて一度は話し合いが必要だろう。そもそもどこの約定に抵触したのか。飛び火を恐れてこんなことをしたら、むしろその公平を欠いたこの動きこそが然るべき場で裁きを受けかねない。しかし柚希は考えが纏まらず、メールボックスを閉じた。一瞬だけウミとハナの顔が頭に浮かんで消えた。どの面下げて相談すればいいというのか。聖人ではないことを隠していた負い目もあった。
ただ、自分はただの男子高校生に戻ったのだということだけ理解して、それから、この事務所と氏は迷惑を被らずに済むのだという情けない安堵もあった。
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