聖者の秘密

「只今届いた情報によると、スタンピードの影響により“怪物の迷宮ダンジョン”周辺エリアに避難勧告が出され──」


 サイレンが耳を劈く。迷宮監視者はラジオを止め、無線に切り替えた。

 窓の外は阿鼻叫喚。巨人・サイクロプスは大きな一つ眼をぎょろぎょろと動かし、その丸太ほどもある腕で探索者を捕まえた。玩具で遊ぶ稚児のように探索者を振り回すと、ゴッ……ゴッ……と鈍い音がして、アスファルトに血飛沫が走った。脅威はそれだけではない。スライム、ダークバット、サラマンダーなどの小型の魔獣モンスターがあちこちを駆け回り、今しがたホブゴブリンは女の肩をゴキッと言わせながら無理やり掴んで引っ張り、その隣でふらふらと歩くゾンビは若者の柔らかな首筋の肉に食らいついていた。

 迷宮監視員はしばし無線で指示を出していたが、突然、ガガッと連続で通信が乱れたかと思うと、しん……と耳元の機械が一言も発さなくなる。それが意味するところは考えなくてもわかった。拳を壁に叩きつける。一人残った監視員は数秒だけスマートフォンを操作し、防護服を着て外へ出た。拡声器に叫ぶ。


「国家探索者を呼びました! あと少しの辛抱です! とにかく、外……へ……」


 その声もまた、途切れた。ガツンと音を立てて拡声器が壊れる。


 空を裂く音が繰り返し響く。最後に迷宮監視員と連絡を取り合っていた男は、政府の返答を待ちつつ、上空のヘリコプターから地上を見下ろしている。

 魔獣の黒い影が広場を埋め尽くしていた。緊急時に自動で迫り上がる分厚いゲートによって外への脱出は防がれているものの、探索者や買取業者を逃がすために作られた小さな出入り口を小型の魔獣が見つけるのは時間の問題であり、深い階層から現れるビルのように大きい魔獣が出てこないとも限らない。そうなってしまえば、民家や飲食店などはひとたまりもないだろう。

 そのとき、また、男は息を呑む。現れたのはドラゴンだった。ゲートの高さよりは小さいが、翼がある。あれではゲートが何の抑止力にもならない。

 男がもう一度政府へ連絡をつけようとしたとき、はっとした。ゲートの前に子供がいる。子供は、ひょいと軽々広場の中に入ると、腰の剣を抜いた。キンと音がしたと思ったら、彼に群がるゾンビは袈裟斬りにされ、ホブゴブリンも熱したナイフを入れられたバターのようになって倒れ臥す。誰かが叫んだ。


「ワズキだ!」


 ワズキはサイクロプスの巨眼を一突きにする。広場に取り残された人々が彼に気がつくと、誰もがそこに希望を見る。

 いつの間にか千を超えるほど跋扈していた魔獣は。残るはドラゴンのみ。ドラゴンは意気込むように鼻から火を噴き、ワズキを睨む。ワズキも剣を構えた。

 そして一閃。

 ドウッ……と地響きを立ててドラゴンが地に沈む。ワズキは剣に付いたを振り払い、鞘に収める。カチン、と小気味好い音が聞こえ、そこで人々は我に返った。


「……う、うおおおおお!!!!」

「勝った! 勝ったんだ!」

「叩いてごめんな!」

「お前大したやつだよ」

「ありがとう、ワズキ!!」


 ワズキは歓声に包まれる──




「……充電しなきゃ」


 ゴムの靴底が焼き付くようなアスファルトからじりじりと立ち上る陽炎から逃げるみたいに、柚希が家に駆け込む。その手に握られたスマートフォンは、バッテリーが膨らみ始めているのではと不安になるほど熱い。画面には、右上に赤い線が一本だけ入った電池マーク、そして美少女ゲームの新しいシナリオの情報がComingSoonの文字と共に映し出されていた。

 もしこの世界がフィクションならば、ここで前代未聞のイレギュラー──迷宮から魔獣が溢れて人々を襲うスタンピードみたいな都合の良いトラブルが発生して、それを解決することで名声だったりお金だったりを得てドラマティックにハッピーエンドを迎えるのかもしれない。けれど、現実は違う。本当に辛いとき、そこにあるのは平坦な日常だけなのだ。


 柚希は靴を脱がず、スマホと鍵を玄関脇の棚の上に一旦置いて、棚の戸を開ける。すると屈んだ柚希の青白い顔が壁掛け鏡に映った。柚希は片方の手に持っている大きめのトングを棚の一段目に収納し、戸を閉める。それから足元にどさりと置かれたパンパンのゴミ袋の口を結んだ。


「ごみ捨て行ってくる!」


 家の奥に叫ぶと、既に帰宅している母から「私も行こうかー?」と少し疲れた声が飛んできた。


「家のじゃなくて拾ったやつだから!」

「ならいってらっしゃーい!」


 柚希は仄かに顔を綻ばせる。しかし、居間のテレビからドッと笑う声が聞こえてきてギクリとし、笑みを消してゴミ袋を手に家を出た。

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