約束
*
『いいんだな?』
「はい」
『……ま、そんなに重い覚悟は決めなくていい。我輩達に出来ることはまだ少ないんだ。世界を変えるなんて戯言──』
「いいじゃないですか、少なくたって」
画面の向こうの美丈夫が首を傾げる。柚希はデスクの上に畳んだ制服を手で撫でて確かめながら、ゆっくりと話した。
「僕は凡人です。貴方みたいな凄い人が全力で挑んでやっと成し遂げられるようなことを、僕が数年ぽっちで簡単に出来るなんて思っていません。
でも僕はそれでいいんです。やれることをやって、あとは貴方や貴方が選んだ凄い人に任せます。いまこの世界を生きている一般人代表としてできる限りのことをして、できなかったことを誰かにやってもらって、その誰かがまた違う誰かに託したなら、貴方の言うとおり、百年後には実現しているかもしれないじゃないですか。そしたらもう世界は変わってます。
僕は、あなたの信じる未来を信じます」
これが柚希の考えに考えた答えだ。やっぱり抽象的すぎただろうか、張り切りすぎたかも、それとも人任せすぎたかな……と柚希は不安げに眉を下げる。
氏は呆気にとられたように眉を上げ、それからふっと脱力した。
『……そうだね。うん、そうだよ、そうなんだ』
噛みしめるように頷く。その口元は、微かに綻んでいた。
『やっぱり君を選んで良かった。……ふふ、妹の目は確かみたいだ』
「……シスコン」
『な、なんだとう?!』
そんな締まりのない会話でビデオ通話を終わらせ、柚希は息をついた。マウスの横に広げている赤い印鑑の捺された契約書をそっと手に取り、クリアファイルに入れて机の奥深くにしまい、ネクタイに手を伸ばす。
三十分後、柚希は革靴を履いて家を出ていた。駅で東京行きの切符を買い、新幹線に乗り込む。シートに座ったときには既に疲労感があったが、柚希はスマートフォンで事務所の位置を入念に確かめ、果てには検索エンジンに「面接 緊張」の文字を打ち込みさえした。でも途中でやめる。こういうのは考えれば考えるほど駄目になるものだ。気分を変えようと鞄からイヤホンを取り出し、見慣れたアプリアイコンをタップ。切り替わった画面で既に和洋折衷コーデの長乳黒髪眼鏡少女が楽しそうに笑っている。柚希はそれに微笑み返して、デイリーをこなし始めた。
自分が聖人なんかじゃないことがバレてしまったら、プロジェクトごと共倒れになるかもしれない。でも柚希は決めた。いつかこの秘密が白日の下に晒されるまで、聖人というキャラクターを貫き通す。今更ではあるが、その覚悟を持ち続けようと、決意したのだ。
しかし──それが無駄になるのはそれほど先のことではないと、このときの柚希はまだ、知らない。
*
「あいつはいつになったら連絡を寄越すんだ!」
ガッ、と両足をデスクに乗り上げさせると、空のエナジードリンクの缶達が揺れて床に落ちた。そのうちのいくつかは飲み残しがあったようで、床に甘い匂いのする液体が広がり、使い捨ての丸めたティッシュに染み込んでいく。
「ハァーー、ったく。……ん?」
デスクトップの画面が変だ。さっきまで映し出されていたアンチスレが、一般オタクも目にすることがある普通のスレッド──【迷宮配信者/ストリーマー/探索者/攻略者】迷配総合part1784に変わっている。どうやら足の指が当たってマウスが動いてしまったようだ。
男は舌打ちし、デスクに拳を打ち付ける。また缶が転がった。しかしふと画面に視線を巡らせると、たちまち意識はそちらに映っていく。
444:おい、あれ見たか?
445:どれ?
446:最近ネタ切れだった鑑定持ち暴露系いるだろ あいつ、ワズキの話出してんだけど、なんかヤバそうでさ
447:あーね
448:どうせ大した暴露じゃないだろ それかでっち上げ
449:だよなぁ……って思ったけど、これマジの暴露だ
450:は?
451:待ってくれ ユニスキが? 嘘だろ、どういうことだよ……
名無しのリスナーの会話に、にま……と男は口端を吊り上げた。
「あいつ、最高だ! 依頼して正解だった!」
男は大急ぎで別窓に当該暴露系の生配信を開く。同時視聴者数は十万近く、予想通りコメント欄は大荒れ。男はこれ以上ないほど口角を上げて目をぎらつかせた。画面の中の暴露系は、顎マスクをぱこぱこと動かしながらリップノイズ混じりに早口で喋る。
『あー、そうなんですよ。あの隠し撮り動画の投稿主が聖人を逆恨みしたらしくて、何か裏があるンゴ〜って大金払ってくれちゃってですねえ。そんじゃま、しょうがないにゃあと。へへ』
かんに障る言い草だったが、男は満足だった。だって男の予想は大当たりだった。聖人は、聖人じゃなかった。
最初に見ていたスレッドに視線を戻す。
852:特定した 三沢柚希(17)
これ小学校の集合写真だけど、全然普通に笑ってんじゃん 妹死なせといてさ http://.com/.jpg
853:いやいや……聖人(笑)の妹はともかくとして、今までチーターなの隠してルチカたんのこと誑かしてたってわけ? 火炙りだろこんなん
854:聖人(笑)でワロタ
855:レベ99壁は超えられなさそうだけど、逆に言えば99まではほぼ確で上り詰められるってことだろ よくここまで隠し通したよ むしろ感心まである
856:レアユニスキ持ちはスキル使うだけでガッポガッポで羨ましい限りですわ
857:うーん、この格差社会
858:聖人もオワコンか 短い祭りだったな
男は興奮で赤黒くなった顔に汗を滲ませ、開けっ放しで虫の浮いたエナジードリンクを口にする。口元が緩みすぎていたせいで、黄ばんだシャツの襟元に零したが、男の笑いは止まらない。
「『ログインボーナス』か……こりゃ荒れるぞ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。