先輩①
「……本当にここ……?」
高台に広がる緑豊かな高級住宅街。その端、大きな入道雲を遮るように建つマンションが、今日の柚希の目的地……のはずだ。太陽の光を鏡のように反射してきらめくたくさんの大窓を見上げ、溜息をついた。せめて、と襟や釦、前髪などをチェックしてからエントランスホールへ入る。
フロントに常駐しているらしいコンシェルジュの案内に従い、景色の見えるエレベーターに乗って上階へ、そして彼らの部屋に着いた。コンシェルジュが立ち去る。
「よく来たな! 上がれ上がれー」
「お茶、淹れ直すね。そこ座ってて」
まんまるの水色と桃色の瞳が細められ、柚希を歓迎した。柚希はウミとハナの言う通り、リビングのテーブルに着席する。
側の壁はほぼ全面がガラスになっていて、あの汚れひとつない外壁が驚くほど長かった住宅街が小さく見えた。それ以外の壁紙は黒色で統一され、床はグレイの絨毯、柚希の座っている椅子などの家具は青色と、モダンな印象だ。このマンション自体、どちらかというと人工的な雰囲気だったから、それに合わせているのかもしれない。だが、この部屋はそれだけではなくて、ニッチ収納には赤い花の咲いた掌サイズの観葉植物や小さな絵本などの雑貨が置かれていて、住人達の遊び心が伺えた。何にしろセンスが良い。
まるでモデルハウスにいるような気分だったが、ふと柚希の対面に広げられたテキストが目に入った。柚希の学校で使っているものと同じだ。違うのは教科の進度を表す記号と、主張強めのマジックで書かれた名前──
「本名なんだー」
柚希は、“鈴原雨観”、“鈴原花鳴”と書かれた似通った筆跡から慌てて目を逸らした。
「すみません、目に入って……」
「いいよ。隠してないもん」
ウミはティーポットとティーカップ、ソーサーを並べた。ハナは柚希と対角線の位置に着席する。
「……年上、だったんですね」
「気が付かなかった?」
「うん。でも、なんとなくそうなんじゃないかと思ってました」
そう言うと、ウミは意外そうに、ハナはそれほど驚かずに「いつも通りでいいからね」と笑った。ハナは迷宮で会うときよりも幾分落ち着いて見える。もちろん、ルチカと手を繋いで魔獣に立ち向かったときなど、その片鱗はあったけれど。
ハナによって注がれるブルーベリーティーを見つめながら、ウミから話を聞く。親は海外で仕事をしていて、彼らは二人だけでここに住んで、迷宮配信者としての稼ぎで生活しているらしい。親からはそれなりの額が仕送りされるが、手を付けていないのだそう。
お茶に行儀良く口を付けた後、ウミは「放任主義ってやつ」と雑にまとめた。
「だ、大丈夫なんですか? 子供だけで……」
「あいつのとこと比べたらな。ガチガチに管理されるより、こっちのが断然マシ」
「──ウミ!!」
ハナの鋭い声に、ウミがびくっとして口を噤んだ。
「ッ、……悪かったよ。デリカシーなかった。ワズキもごめん」
「いえ、僕は全然……」
しゅんとしたウミの頭をさっと撫で、ハナも座る。彼女に「話はプロ転向のことでいいんだよね?」と柔和な微笑みを向けられ、柚希はこっくり頷いた。切り替えの早さにおいて探索者は誰にも負けない。
「わからねえな」と同様に、ウミは眉を寄せる。
「キャラも立ってる。実力も十分。何に迷ってんだ?」
彼の言う通りだ。事務所の人と軽く話した感触としては、彼らは柚希の実力と、聖人キャラに目をつけたようだった。そしてその事務所自体も、小規模ではあるが、箱に所属するストリーマーには有名な人もちらほらいる。客観的に見ても断る理由は見当たらない。それなのにこうして相談しているのは、それ以外の部分に不安があるためだった。
柚希は視線を彷徨かせ、深刻そうに口を開いた。
「……自分なんかがプロになってもやっていけるのか、自信がなくて……」
「嘘だね」
ハナがきっぱり否定する。続いてウミも、透き通った水色の瞳で柚希の弱さを見透かした。
「プロになってもやっていけるか、じゃない。プロになってもいいのか、だろ?」
「ワズキくんは自信がないんじゃない。覚悟がないんだよ、きっと」
図星を突かれた気がした。柚希のティーカップを持つ手が微かに震える。乾いた唇を芳しい紅茶で癒やし、柚希はぽつりと零した。
「……覚悟って、どうしたら決められるんだろう」
それは独り言だったが、二人は「知らないよそんなの」と声を重ねて切り捨てた。柚希は叱られた子供のように紅茶の水面をじっと見つめた。そのとき、くすっと軽い笑い声が聞こえた。ちらりと顔を上げると、ウミもハナも大人っぽく微笑んでいる。年下を嗜めるのは一年早く生まれた子供だけの特権だ。
「でも、そう考えられるようになったってことは、少しは近づいたってことだよ、“覚悟”に」
「ボクらも本当に覚悟を決めてやっていられてるのか、わかんないんだ」
「考え続けることが、覚悟という行為の第一歩だと思う。そうして近づいていくんだ、理想に」
「どんな仕事も、趣味を超えたら色んなものが付き纏ってくる。責任も何もかも」
「それを放り出して諦めたらおしまいなんだよ。全部抱きしめて、考え続けなければいけない」
双子は交互に話し、最後は示し合わせもせず声を重ねた。
「──それがプロだから」
普段は末っ子みたいに振る舞う彼らの達観した厳しい表情に、ルチカの凛とした横顔を思い出す。
「どう? 覚悟、できそう?」
柚希はブルーベリーティーの赤色に目を落とした。
ブルーベリーの青色は構造色といって、果実の皮が微細な立体として存在するために青色が拡散してそう見えるだけで、本物の青色ではないのだという。それでも柚希達はブルーベリーと言われて青色を想像する。そこに付随したイメージは、確かに本物だ。
「……はい!」
考え続けよう。苦しいときもあるかもしれないけど、そうして大事な仲間に一歩ずつ近づけるのなら、きっとそれだけの価値があることだと信じられるから。
ウミとハナは顔を見合わせて笑い、「お茶のお代わり持ってくるね」と二人で席を立つ。戻ってきた彼らは台車のようなものを押していて、そこにはアフタヌーンティーセットとでも言えばいいのか、柚希には名前どころか用途も覚束ないもの───が乗せられている。「あのっ」とハナに助けを求めたが、ハナは「今日はお手伝いさんがいないから上手くできなかったかも……」と目を回したくなるようなことを独り言ちたので、柚希は大人しく椅子に座り直した。ぴんと背筋を正して。
ウミは、マドレーヌやクッキー、チョコレートなど、たくさんの茶菓子と重なった真っ白いカトラリーを並べた。その隣で、ハナが透明なティーポットから紅茶を注いでゆく。今回もブルーベリーティーらしい。作法を知らない柚希はやや腰が引けたが、今度は熱いうちに口を付けた。甘酸っぱくて香り高い味が口に広がる。喉を通って胃に落ちてなお、かんばしかった。これは高いやつだ。柚希は内心震えた。
「いっぱい飲んでね。目に良いらしいからさ」
「オレ達にぴったりだろ?」
「ね。探索者は身体が資本だもん」
意識が高いのはルチカだけではなかったようだ。柚希は感心して、「頂きます」と茶菓子に手を付ける。クッキーの甘さを紅茶で流し、柚希は曖昧に笑う。真正面に座っているウミが、スコーンにお上品な仕草でクリームを塗っているのはみなかったことにして。
「でも、自分なんかがって思ってたのは本当なんです。僕は人として当然のことをしていただけだし……」
コミカルな状況ではあったが、柚希の不安は本物である。特に“聖人”に関しては未だに困惑しきりだ。しかし、ウミは柚希がフォークを置く前に切り込んだ。
「“人として当然のこと”を普通にやってのけられる人間が、この
冷凍庫のナイフで斬りつけてくるような残酷に冷え冷えとした声だった。柚希は息を呑む。ルチカに理想と欲望を押し付けるストーカー、相手を選んで値段を下げる買取業者──一年足らずで目撃した数々の冷たい現実。それらを突きつけられたような気がした。
「ボクも、ただそれだけのことを出来るのは十分な美点だと思うな」
そうハナも付け足し、それから「ねえ」と話を変える。少し艶めかしい声だったので、柚希はこの場を設けた理由さえ忘れてどぎまぎした。
「どうしてルチカちゃんに相談しなかったの?」
「え? そ、それは……」
言い淀みながら柚希は現実を思い出した。
「まさかこんな初歩的なところでうじうじしてるなんて、格好悪くて言えるわけないです……」
しゅん……。柚希は自分の意識の低さに恥じ入って、まごまごとつっかえながら目を逸らした。そんな柚希を双子がおんなじ顔でにまにまと見つめた。
「なるほどなあ〜」
「ルチカちゃんにも春が来たんだね〜」
ほのぼの。そんな雰囲気を漂わせてくるウミとハナに、柚希の顔がにわかに赤くなる。
「そ、そんなんじゃないっ……ですけど!?」
危うく素で返しそうになって寸前で我慢し、柚希はむっつりと口を閉じる。「ガキだなぁ」とウミが肩を叩いてきた。ハナもくすくす肩を揺らしている。柚希はブルーベリーティーを飲み干し、ソーサーにカップを置いた。
迷宮配信者になった発端こそ不純だが、迷宮に毎日潜り続けたのは、けして『ログインボーナス』だけが理由ではない。妹のことがあって、迷宮の中でも外でも誰かを取り零したくないと痛切に願う、そんな張り詰めた気持ちが柚希を迷宮へ駆り立てるのだ。それをチートなんて言葉で飾り立てて飲み込んで──柚希は今、その延長線上にいる。それでも。
彼らと出会えて良かったと思うのは、罪だろうか。
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