妖精のダンジョン③

 “忘れてた”。それはどちらのことだろうか。母の料理の美味しさと、子供であることと。ルチカはまるで大人のように成熟したプロとして仕事をこなしている。だから忘れてしまってもそれは仕方がないのかもしれない。……前者は柚希の預かり知らないところだけれども。

 プシュー、と電車が停まる。また乗り換えだ。柚希とルチカは駅のホームに降り、次に乗るべき電車を探した。それはすぐに見つかったが、問題はそこではない。


「あちゃー……」


 めちゃくちゃ混んでいた。ぞろぞろと中から人が出てきて尚、車内の吊り革はほとんど埋め尽くされている。席は言わずもがなだ。ちら、と隣にいるルチカを見る。すらりと細い体躯。これでは潰されてしまう。それどころか……

 苦笑いするルチカに、柚希はさらりと尋ねた。


「ルチカさんて、男性は苦手ですか?」

「え? ……苦手ではないけど」

「じゃあ僕のことはどうですか?」

「えっ……に、苦手じゃないよ、もちろん」


 「じゃあ」と柚希は戸惑うルチカの手を取り、奥の扉まで自分を壁にして押し込んで、ルチカの身体が他の人に触れないよう自分の腕で囲んだ。所謂壁ドンだ。

 柚希は背中にかかる圧迫感に息を詰めつつ、全身に力を入れて変な息が漏れないよう──それはもはや痴漢なので──、努めて普段通りの声を出した。


「ッすみません、少しだけ我慢してください」

「ううん……あり、がと……」


 心なしか赤く染まったように見える顔を隠すように、ルチカは俯いた。じっと手元を見ている。でもその手に持つスマートフォンは逆さまだった。柚希はちょっと笑いそうになったが、ルチカのメイク直しのときに自分も汗シート使ったけどあれ本当に意味あるのか……? などと頭の片隅で苦悩しているので他人のことを言えない身である。

 ルチカはいつの間にかスマホを普通に持ち直していた。……いや、待てよ。柚希は頭の中で襟を正した。そもそも身体的接触が苦手なタイプだったかもしれない。でも、ウミとハナとの関わり方から見ても、そこは大丈夫そうに思えたのだ。では何故こんなに動揺されているのだろうか。……でも確かに近すぎる、よな。柚希は今更ながらにこの少女漫画でも今時やらないぞというシチュエーションに気がついた。で、でも、心配だし──


「あっ」


 そのときルチカがふと小さく声を上げた。柚希は思考を切り上げ、「どうしましたか?」と穏やかに尋ねる。


「この前の人、逮捕されたみたい。ほら、ええと、私達が初めて会ったときの……」


 ルチカはスマートフォンの画面を明るくして、柚希の方に向ける。

 映っているのはネットニュースだった。サムネイルになっている写真にはあのストーカーの男が映っている。

 罪状としてはルチカのルの字もなく、食品に異物を混入したとかなんとか、そういった内容が記載されていた。そこに添えられた社名は、柚希のスーパーに来ていたあのキッチンカーに書かれていたロゴマークと一致している。柚希はたこ焼きの奇妙なねちょねちょ感と翌日の腹痛を思い出し、胃の辺りを摩りたくなったが、手が塞がっていたので無理だった。


「というか、自称ストリーマー……? 同業だったんですね」


 これ以上あまり考えたくないので、柚希は本名の横に書いている括弧の中について指摘する。


「うん。結構あるんだ、こういうこと。仕事仲間だと思ってた人が実はファンだったり、アンチだったり、その両方だったり……」


 ルチカは目を伏せる。


「警察は……無理、なんですよね」

「うん……」


 “役立たず”という言葉を選ばなかったのは猫をかぶっているからであって、柚希はこの点において司法に関係する人達の力不足を「仕方ない」と割り切ってはいない。けれどルチカはそうではないようだった。

 ルチカは、難解な文章題を解くときの子供のような、あるいは取引先の困ったおじさんをどう相手してやればいいのか苦悩するOLのような、そういう眼差しをしている。けれど唇には快活な笑みを絶やさず、柚希を安心させる先輩みたいな顔で「色々と手はあるんだよ?」と脱力させる声音を作った。トーンが低いのは盗み聞きを心配してのことだろう。


「ウミやハナみたいに企業と契約してると、色々しがらみもあって、そう簡単に逃げられもしないの。あらゆる理不尽にさらされることもあるわ。でもその分、守ってくれる仕組みもある」


 ルチカさんは誰が守ってくれるんですか? と、柚希は思った。ルチカはそれを見透かしているのか「私は……」と苦笑した。


「二人と違って無所属だから、いざとなったら辞めるって選択肢もすぐに採れるよ。けど、戦うとなったらどうしても自力だし、そもそもプロとしてやるからには迷惑な人にいちいち構ってちゃ商売上がったりだから……どちらの道も難しいわね」


 柚希にはこちらの言葉こそが本音により近いものに感じた。ルチカは声のトーンを戻し、「でもこれでしばらくは安心だね」と笑った。それだけで空気が弛緩する。

 強い。そう柚希は感じた。そして、それでもプロで居続けられるのはどうしてなんだろうと思う。

 ルチカやウミ、ハナは、もう何年も配信者をやっている。上り坂の楽しさだけでなく、頂点の停滞、谷の下降さえ経験したかもしれない。その先に柚希がいた。柚希はたまたま彼らと同じところを歩いているだけで、扉を押した回数は数えるまでもなく及ばないだろう。


「ルチカさんは」

「うん?」

「ルチカさんは、どうして迷宮配信者になったんですか?」


 率直な、そして不躾な疑問。


「…………なんでかしらね」


 ルチカはそれに大人っぽく微笑むだけだった。赤いリップが弧を描き、柚希の目を惹きつける。

 そこで電車が停まった。終点だ。肩に何度か人がぶつかり、人口密度が一気に減る。ルチカはスマートフォンをしまい、彼女を囲う柚希の腕の中からゆっくりと出た。

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