妖精のダンジョン②
柚希はもう正気だったので、顔色を赤や青に変えながら「あの……」とルチカに尋ねる。
「さっき僕が言った言葉、聞こえてましたか?」
柚希の人生でも屈指の緊張の瞬間だった。ルチカは耳栓を外して答える。
「ううん。耳栓してたし、セイレーンの歌声がすごくて……何か言った?」
「いえ、なんでも。行きましょうか」
セーーーフ。柚希はカメラの外でガッツポーズし、次の階層へ降りる。セイレーンの歌声は危険だからどっちみち音声はOFFされるし、大丈夫、大丈夫だ。…………マジ危なかったな……
下層は上と中の混合といったところだ。草原に小川が走り、所々の低木に花の蔓が絡んでいる。その中にはカニバルフラワーもあった。空から魔法で攻撃してくるハーピィにルチカが『虹を架け』て反撃し、柚希はスキュラの六つある頭部をそれぞれ落としては断面を火で焼くことを繰り返した。
二十九階層まで降りれば、“路”を記した地図もおおよそ完成だ。“路”は、どこの階層に何が出るのかといった魔獣情報とは違って攻略サイトに乗っていない。そのため、探索者の中での交渉材料になったり、フリマサイトで売りに出されていたりと、それ相応の価値がある。柚希は背中に迫るカニバルフラワーをノールックで斬り殺し、“路”のメモをポケットにしまう。
「落ち着いてきた?」
「え?」
「最初、集中し切れてなかったでしょ」
ルチカに指摘され、「あー……」と柚希は頭を掻いた。バレていたか。
衝撃的なことが重なってしまったので、最近はあまり攻略に身が入らない。せめて人を巻き込まないようにしようと思って誰のコラボの誘いも断り続けていたのだが、ルチカからの誘いに頷いたのは例のメールが来るより先だったので、これだけは行かざるを得なかったのだ。
「ま、アマチュアならそういう面もエンタメ的に映えるし、良いのかもね」
「……ルチカさんはどうしてそんなにプロ意識を持てるんですか?」
「え?」
「あ、その……すごいなと思って……」
これはもちろん嘘ではない。柚希はルチカを尊敬している。……例えばこういうところ。ルチカは柚希の質問に少し考えるように目を伏せてから、からりと笑った。
「私は企業に所属していないから、自分のことは自分でどうにかしなきゃいけない。マネジメントもコーチングも、なんでも自力。やっていることはアマチュア時代とそれほど変わらないんだ。だからこそ、意識を高く持つの。自分がプロなんだって忘れないようにね」
そう言ってルチカは扉を押した。待ち構えていたのはドラゴニュートだ。咆哮が響き、戦いが始まる。
程々に攻略したら、“路”の地図を頼りに地上へ戻った。
夏が近いのだろう。六時を過ぎても日は高く上っていて、アスファルトからの照り返しが眩しいほどに辺りが明るい。ルチカが額の汗を白いハンカチで拭う。そこにファンデーションの肌色が付いたのを見て、柚希は「どうします?」と尋ねる。
「電車に乗る前にどこか入りましょうか?」
「そうだね。涼しいところがいいな……あと、急にカロリー摂るとよくないから軽いものにしたい。知ってる店でいい?」
「もちろん」
迷宮広場周辺には探索者向け、あるいは探索者を推すファン向けの軽食屋が並んでいた。店主はもれなく命知らずか金の亡者なので、どこの店もこだわりの一品を出しており、テレビでもよく紹介されているのを見かける。
柚希はキャップを被って、ルチカは日傘をさして洒落た石畳を歩く。ルチカの日傘は機能性重視のこざっぱりとした印象だ。たぶん高いし、あれじゃなくてもいいけれど、あんなふうな美容関係の物を母に買ってあげたいなと柚希はぼんやり思う。柚希の母は肝っ玉母ちゃん風であるが、容貌の方は父が死んでから一気に老け込んでしまった。柚希は母が若々しくなくたって愛しているけれど、柚希が髪の毛をヘアアイロンで整えようとするように、彼女もたまにはお洒落したいのではないかと思うときがある。
そんなことで頭が占められていたからだろうか。通りかかったレストランのガラスケースの向こうに並ぶ食品サンプルの端っこ、オレンジのライトを当てられてプラスティックのきらめきを見せるオムライスに目が留まった。立ち止まりそうになるのを我慢して、ルチカの「次信号渡るね」の声に頷く。
そうしてルチカに連れられて訪れた店は、落ち着いたカラーのカフェだった。日替わりのミニホットサンドを二人分、メロンクリームソーダをルチカ、ジェラートを柚希が注文し、チェアというよりスツールといった感じのカウンター席に座って料理を待つ。
「どこか気になった店はあった?」
ルチカに何気なくそう訊かれて、柚希は口籠る。はっきり嘘をつくのも躊躇われた。
ルチカはそんな柚希を首を傾げて上目遣いに見つめてから、長い睫毛をふんわり細めて微笑った。
「……今度、そこ行こ!」
柚希は目を見開く。
「ワズキ君の好きなもの、私も知りたい。駄目かな?」
「まさか。もちろん、喜んでご一緒します」
こくこくと頷いたところで料理が来た。店員に軽く礼を言ってからジェラートを一舐めし、きんと冷たい甘さに頬を緩め、ルチカを見た。ルチカは氷の上に乗ったアイスクリームにそうっとスプーンを差し込んでいる。氷がカラカラと音を立てて涼しかった。
「ルチカさんは何がお好きなんですか?」
「えっ私?」
ルチカはちょっと面食らったようで、スプーンの上で溶けるクリームをじっと見つめてから、一度メロンソーダの方を飲む。紺のストローが唇から離れてグラスの口を転がった。
「……お母さんの作った料理、かな」
しん、とした。柚希は三口ほど齧ったホットサンドを黙々と咀嚼している。
「あっ、ごめん、そういうことじゃないよね……」
「ううん。……僕も、好きですよ、母の作った料理」
別に無視したわけではなかった。柚希はほとんどの人がそうであるように、口に物を入れているときに喋らないのだ。飲み込んでから頷くと、ぱあっとルチカが顔を輝かせた。
「だよね!? なんでだろう、外食じゃ得られない栄養がある気がしてさ」
「わかります」
ルチカはストローでメロンソーダを吸いながら嬉しそうに目を細める。窄めた唇の赤みが少し落ちていて、おそらく素顔なのだろう青みのあるくすみピンクの粘膜が見えていた。わあ、と思う。柚希は女慣れしているが彼女持ちではないので、そういう掠れた色気みたいなものに弱いのだった。
「……子供っぽいかな」
柚希は頭を切り替えた。
「それはそうですけど、でも、僕らは子供だし」
「確かに! ……最近、忘れてたなー」
そう言ってルチカはどこか歪に笑う。困ったような、自嘲的であるような、明るい彼女にしては珍しい表情だった。
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