妖精のダンジョン①
「『妖精の』、ちょっと足が遠のいてたんだよね。だから今日行けて嬉しいな。ワズキくんは初めてなんだっけ?」
「……」
「ワズキくん?」
「…………えっ? あ、はい。初めてです」
がたん、と車内が揺れる。柚希が吊り革に捕まりながら頷くと、ルチカはスタンションポールに両手を添えて「じゃあ色々見て回ろうね」と笑った。その可愛い顔を瞳に映しながらも、柚希の頭の中にあるのは氏の言葉だった。世界を変える。そんなこと、柚希に出来るのだろうか。
カメラがふわりと浮かんで、二人をじっと見つめている。ルチカはスマートフォンで映りを確認した。その視線は、柚希の横顔を追っている。
今回足を伸ばす迷宮は、『妖精の迷宮』だ。一時間かけて何度か電車を乗り換えると着く距離にある。そのため、行きと帰りの様子も含めて撮影し、後で録画を編集してVlogとして投稿する予定だ。「たまには変わり種がないと飽きちゃうかもしれないから」というルチカの提案で決まった。
寄り道をしつつ駅を出て、地方都市ならではのほどほどに忙しない通りを抜け、クレープ片手に迷宮広場に到着する。「ついてますよ」と柚希がルチカの顎を指先で拭ったり、「じゃあこれあげる!」とルチカが柚希のティラミスの上に苺を乗せてくれたり、それなりに撮れ高はあった。ごみをトラッシュボックスに捨て、いざ迷宮へ。
扉を押すと、さくっとした感触を足の裏に感じた。草原だ。見上げれば、プラネタリウムのような青空が広がっていて、薄い雲がその少し下を流れていた。春風が頬を撫でる。一つ一つの階層が広々としている代わりに、深さはあまりないとは聞いていたが……
「……気持ちいいですね」
「でしょ?」
遠くの方で何かが動く。低木の影から出てきたのは、真っ白なホーンラビットだった。ぴょこぴょこと跳ねてどこかに行こうとして──キメラビートルから腹を抉られた。ポリゴンとなって消え、残ったのはピンク色の肉塊だった。
「え?」
「ここの
中型犬ほどのカブトムシとクワガタを足して割ったような虫はブウゥンと嫌な音を出しながら中空を旋回し、やがてこちらに気づいた。翅が広がる。一瞬のうち、あっと思ったときには目の前で角を突き刺そうとしていた。柚希は剣の腹で防御し、炎を纏わせた。キメラビートルは真っ黒になって足元にぽとりと落ちる。そして魔石になった。
心臓がバクバクいっている。ふっと息を吐いたとき、「まだだよ!」と鋭いルチカの声が聞こえた。同時に柚希の意識に複数の気配が引っかかる。ルチカの視線の先には、真っ黒な絨毯のように広がった蟻の隊列があった。柚希は思わずぶるりと震え上がり、ルチカが光の魔法を撃ち出すより先に炎で前方を焼き払った。ギーと鳴いてノイズになるアント達。柚希は涙目になった。柚希は虫が得意ではない。母が大の虫嫌いなので三沢家での虫退治はもっぱら柚希であり、小さい頃から虫を殺してきたのだが、どんなに小さくても虫は生き物だ。柚希は虫が最期の瞬間にギュウと鳴いたり、死んだはずなのに足が動いたり、そういうのを見ると気が遠くなるのである。もし迷宮での魔獣の死がゲーム的なものでなかったら、柚希はあの扉に近寄ることすらしなかっただろう。
その後もキラービーやデスヴァイン、ロッテンワーム──腐った芋虫──などが襲いかかり、柚希は内心半狂乱になって切っ先から火を噴かせた。ルチカは苦笑いで「やる気だね〜」と言った。そうして上層のボスを倒した二人は扉を押し、新たな地へ降り立つ。ずちゅっと怪しげな音が二人分鳴ったが、これは中層が沼地だからだ。柚希はあまり澄んでいるとはいえない水辺と、そこでゲコゲコ跳んだり跳ねたりしているフロッグを見て、ほっと息をついた。三沢家の家屋には蛙ほど大きな生き物は入り込まないので。
気を取り直して六層の攻略だ。ずるると泥の上に巨体を滑らせて牙を剥いたサーペントを横っ跳びでやり過ごし、そのまま
二人は魔導具の方位磁針を手に十四階層を歩いた。顔の前にはみ出た蔓を払い、食虫植物としか思えない五メートルほどの毒々しい花から逃げ、十数分。中層は膝から上の空間に草花が絡み合って視界が悪い。真面目に“路”を探さなければいつまで経っても扉に辿り着かず、“路”探しに専念すると魔獣に喰われて死ぬ。陽だまりのような上層も特徴らしい特徴がなかったのでそれはそれで難儀したが、中層もなかなか危険な場所だった。
ようやく見つけた扉を押そうとして、「待って」とルチカから腕を掴まれる。柚希はそこで次がボスの部屋だと思いだした。慌てて扉から離れ、両耳にきつく耳栓をはめる。ルチカがカメラにくすっと笑いかけ、自分も耳栓をした。そして扉が開く。
「……は……」
花々に遮られた微かな日光が、なめらかな白い肌を映し出す。腕は白魚のようで、首もほっそりとして、なにより、重そうなほどに大きくて柔らかな曲線を描いた乳房が柚希の脳髄を揺らした。美しい女性だ──上半身は。
女の腰から鶏のような羽根が生えている。そしてその下は、魚だ。ぎらぎらとした大ぶりの鱗の反射に、柚希の息を呑んだ青白い顔が映った。ルチカが柚希の肩に触れる。柚希は剣を握り、目を瞑る。瞼の裏にカッと強い光が透けた。ルチカの十八番だ。柚希は駆け出そうとする。しかしセイレーンが尾鰭をありえない速さで動かし、側頭部を殴りつけてきた。耳栓が微かにずれる。その隙間に、歌声が届いた。
妹がいた。妹は十六歳くらいで、制服を着ている。真っ青な空の下で入学式の看板の前でピースサインをしていて、柚希の父がそれをカメラで撮っている。柚希のその横でスマートフォンを構えていた。もちろん連写だ。それから妹は、瑞希は、柚希に駆け寄って「お兄ちゃん大好き」と──そこで正気に戻った。
「あいつは暴力系ヒロインだからそんなこと言わない!!!」
魂の叫びだった。おそらくトリップは一瞬だったのだろう、セイレーンの尾鰭はすぐそこにあった。柚希はそれを剣で滅茶苦茶に切り裂いて、ギャオオ! と悲鳴を上げたその口にルチカの光弾がぶち込まれる。怯んだ隙に、柚希が頸を落とした。ポリゴンの真っ赤なシャワーが柚希に降り注いだ。そしてセイレーンは倒れた。
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