博士と聖人③


 柚希の切り込みに、くだけた雰囲気が一掃される。「ああ」と氏は頷いて画面を切り替えた。

 パッと表示された文言に、柚希は首を傾げる。ダンジョン初心者講座。その大文字の下に、ダンジョンの歩き方、ミミックと宝箱の見分け方、モンスターからの逃げ方、などの箇条書きが続く。


「政府のホームページにもありましたよね?」

『君のような良い子は閲覧するが、そうでない人の方が多いのだよ』


 「なるほど……」と柚希は唸る。確かに、鑑定スキルを獲得しているのに調べもせずミミックに食われかけたり、罠にかかったりする人もいたっけ。そういうことがあまりに度重なるためにパーティを組むのに消極的だった面もあるので、柚希としてもこの取り組みには賛成だ。


『次は、これだ』


 切り替わって表示されたのは、探索者組合ギルドの周知、というまた似たようなタイトルだった。

 探索者組合とは、近年に作られた労働組合のひとつだ。素材の買い手は国単位だったり会社ごとだったり様々だが、組合の用意した情報や窓口を通して売ることでトラブルを減らすことが出来るとされている。


「これも載ってますよね? 売った素材の価値と実際の月平均売却値も、マイナンバーカードの履歴から見られます。さすがにお金に関することならみんな気にして調べるんじゃ──」

『君のような良い子は閲覧するが……と言いたいところだが、ダンジョンに潜っているのはそういった基礎知識のない人間も多い。そもそも危険を度外視できる人間の集まりだ。IQは全体的に低いし、ホームページや制度のことを知っていても、理解が出来る者ばかりではない』


 柚希の頭に先日の浮浪者のような探索者が蘇った。静かに口を閉じ、自分の無知を恥じる。


「じ、じゃあ次のもそういう感じなんですか?」

『いや。こちらは少しばかり興味深いよ。君も驚くんじゃないかな?』

「へ?」


 探索者の資格・資質調査制度の実施。そんな堅苦しい言葉の斜め上に、吹き出しで“つまりランクってこと!”とゴシック体で補足されている。


「……本格的にラノベじみてきましたが……」

『ああ。わかりやすくていいだろう。それに、テンプレート化された設定は、それだけ洗練されているとは思わないか?』

「というと?」

『フィクションの中とはいえ、人々が繰り返し想像し、その度にリアリティや合理性を求めて改変、そしてそれを読者が批評し、それを踏まえてまた新しい作者が設定し直す──そんな膨大な思考の研鑽をされてなおもフィクションの王道最前線に立つのが、ランク制度だ。まだ草案の段階だが、根回しはしてある……』


 その人その人に適したダンジョンにのみ入ることを許すことで、単純な死傷を防ぐ。氏はそういった旨の仔細を話した。

 柚希は相槌を打ちながら、これが十年前にあったなら妹はまだ生きていたんだろうなと、どうしても過去を振り返ってしまう。意識が後ろに引っ張られそうになる息苦しさを掻き消すように頭を振っていると、氏が「──というわけだ」と話を切る。


『それと最後に……』

「まだあるんですか?」

『ああ。これが本命だよ、くん』


 カチッ。映し出されたのは、タイトルだけだった。それでも今日一番の驚きと……腰が引けるような不安感が湧き上がる。


『──“探索者の国際秘密保護法制定のための旗頭”になってほしい』


 「それは流石に……」と柚希と反射的な愛想笑いを浮かべたが、氏の声色は一気に真剣味を帯びて堅い。


『これは百年後にでも形になれば及第点の、実に将来的な話だ。気負わずともいい。……もちろん早ければ早いほど助かるんだが』

「助かる?」

『あらゆる命がね』


 柚希は口を噤む。


『疑っているな? まあいいさ。現実的な話をすると、これはかなり難しいと思う。現行の法律と個々人の倫理観だけで表面上はどうにかできているからね。だけど、それが続くとは限らない』


 不吉な予言に、柚希は指先が冷えていくのを感じた。脳裏にウミとハナの秘密がちらりと過る。汗の滲んで滑るマウスから手を離し、両手を固く組んだ。避けて通れない問題だった。それがわかっているから、それを成し遂げる難しさがより一層重みを増してのしかかってくる。


『大枠はこんなところだ。そうだ、あの会社からは既に連絡は届いているかな?』


 画面の向こうから手を叩く音がして、柚希の思考が切り替わる。

 一瞬何のことを言われたのかわからなかったから、数秒考える時間が必要だった。やがて「あ、もしかして……」と点と点が繋がる。


『そうだ。ソロでは守り手が少ないからな、既に協同している会社から手を回してもらった』

「なるほど……」


 柚希は頬を赤くした。自分ももうここまで来たか、なんてちょっと浮かれていたのが恥ずかしい。


『まあ、我輩に言われずともどこかしらから勧誘は行われていたはずだがな』


 ぱちりと瞬きする。氏は柚希の気分の乱高下にも気が付かず、あくまでビジネス的に話した。


『君は優秀だ。配信者としてもキャラが立っている。……ルックスこそ微妙だが、その垂れ目は愛嬌があるともいえよう』

「最後の必要ありました?」

『ああ。言ったろう、妹が君のファンだと』


 顔ファン……ってことか? 嬉しいような残念なような。というか、その人は美醜の感覚とか大丈夫なのだろうか。柚希には、自分を女体化した人を好きになることが仮にあるとしても顔ではなく性格から入るに違いないという自覚があった。というか柚希があまり三次元の人の容姿にこだわらない人間であるため、一般的なジャッジ基準がわからない。もしかして僕って意外とイケメ──などと柚希は血迷ったが、それはない。


『さて、目元に愛嬌のある聖人君』

「なんでしょうか」


 意識が違うところに行っていたのでビクッとなりつつ、それを隠そうとぶっきらぼうに返事をする。そして目の前に突きつけられた岐路を思い出した。


『──一緒に世界を変える気にはなったかね?』


 「……世界を?」と、意味を理解していながら尋ねる。


『ああ。今よりも少しだけ優しい世界を作ることが、我輩の目的だ。君はどうだ?』


 そんなの言われるまでもない。でも、柚希は沈黙した。


「……少し、考えさせてくれませんか」

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