よくある話②
数分後、夕焼けが青みを帯びた頃。
「いやぁ、すみませんでした。気が動転してしまって……」
ストーカーは濡れた蛙みたいな笑みを浮かべ、おやつたこ焼きを紙の箱に詰める。柚希はなるべく息をしないようにそれを受け取った。さっきまで食欲のそそる匂いだったソースは、もう胸を悪くするだけで、腹の虫も静まり返ってしまっている。
ストーカーが逮捕されていないことに驚きはなかった。痴漢や児童ポルノ所持などは男の人生が終わる例として挙げられがちだが、実際のところ、それは違う。柚希も、目の前のストーカーの一件ほど暴力的な事案は初めてではあったが、そうでない、夜中に尾行されるとかジュースに変なものを入れられるとか、そういう場面に出くわす・相談を受けることは片手で数えられないほどだ。そしてそのほとんどは今も、お天道さまの下を当然のように歩いている。社会的地位が未だ低いところに置かれている女性や荒くれかつビッグマウスとして有名な探索者を相手にした犯罪は、立件されにくいのだ。瑠璃はその両方なのでこれ以上は言うまでもないことだろう。……まさか直接的な暴力があっても駄目だとまでは思わなかったが。
ストーカーは柚希から受け取った代金を掌で握ったり開いたりしている。柚希は今すぐにこの場を離れたくてスニーカーの底を地面から音もなく上げたが、その前にストーカーが口を開いた。
「申し訳ないことをしました」
柚希は足を止める。
「迷宮攻略、しているみたいですね。お疲れ様です。……進捗のほどは……?」
「……ぼちぼちです」
「そうですか。それは、よかった」
ストーカーはやけにゆっくり呼吸した。落胆と安堵の間くらいの溜息だったようにも、ただの深呼吸のようにも見えた。
「わたしは上手く行きませんでした。テレビの中で活躍する英雄を画面の外から応援するだけの輩にはなりたくなかった。自分はああいうのとは違う、自分はテレビの中に行けると……」
突然始まった吐露に、柚希は息を詰める。ストーカーはたこ焼きの汁を鉄板に広げる。
「挫折しました。全力投球した分、辛かったのをよく覚えています。そんなときに救ってくれたのがルチカちゃんでした」
柚希は、親と子ほども違う他人が異性の子供を「ちゃん」で呼ぶことに肌が粟立った。でも、ファンだったのかも、と思い直した。「ちゃん」と呼ぶからと言ってそういう目で見ているとは限らない。
あの日のことさえ忘れれば、目の前のストーカーは普通の中年男だ。仕事もちゃんとしていて、かなり年下である柚希のことも客とスタッフとして割り切り敬語を遣っている。思ったほど嫌なやつじゃない。
「ルチカちゃんとは少しずつ仲良くなっていきました」
さらりとした液は段々と固まって、焦げ付いてこびりついて、それをストーカーは棒状のもので剥いでいった。太くて四角い深爪の指先から蛸がぼとぼとっと落ちる。
「旅行に誘ってくれたりしたこともありました。“『妖精の迷宮』、ですか? 興味はあります”と。そのときは、“俺まだレベル足りないから無理す”なんて断ってしまいましたが……今思えばもったいないことをしたものです。
あとは胸当てを買ってやったこともありました。ぶ、ブラ、ブラジャッみたいな胸当て。はは。買ってやったら、“自分のものは自分で買いたいので”って。でもそう言いながらも、“私がもし買うなら”と好みを教えてくれたから、その通りに次の日に金属製の胸郭全体を守る胸当てを新しく買い直してやったり。ひ。ひひ。
それと、それとですね、俺が女性に優しくしているところを目撃しちゃったルチカちゃんが、嫉妬、してくれて。“そういうのやめた方がいいですよ”って、どういうのだよって! でもそのときにはもう付き合ってるみたいなものでしたから。寂しがってたのかな? あはは。未成年じゃなかったらホテルに連れて行ってあげられたんだけど……まあ、わたしはまともな大人なのでしませんでしたよ。それが悪かったのかなぁ」
柚希は耳の中に蜘蛛が入り込んだような異物感を抱いた。内側が苛立った。首筋に蚯蚓が這った気がして、ぱちんと手で押さえたが、そこにあるのは鳥肌でぶつぶつになった肌だけだ。
羨ましいだろう。そう言いたげに前歯を剥き出した凄まじい笑顔が、やや曇る。
「でもルチカは、他のイケメンに目が眩んで自分を見捨てたんです。コラボコラボって……。ああ、もし俺がイケメンだったらなぁあああ!!!」
がしゃんとお玉が流しに落ちた。柚希は身を竦め、顔を上げる。ストーカーは別に顔立ちが極めて崩れているわけでもない。でもその面は誰よりも醜悪だ。
ぶつかって倒れたボウルから卵色の液体がだらだらと流れ出ていった。鉄板から黒い煙が上がり、「わあー……困ったなぁ」とストーカーがボウルの中身に水を注ぎ足してそれで焦げ付いた生地をぐしょぐしょに濡らした。今度は白い煙が上がった。柚希は気持ち悪くて自分の胸元を掴み、激しく
柚希の足元に溜まる影と光の境目があやふやになる。どんどん宵が深まって、スニーカーの赤色がよくわからなくなった。代わりに青い靴紐がやけにはっきりと目に焼き付く。柚希は目を大きく開けて、泣くのを堪えていたから。ストーカーはまだ何か言っていた。でもいつの間にかこめかみが痛いほど鼓動し始めていて、そのどくりどくりとした音でストーカーの話が微かに遮られるほどだった。
陽が完全に落ちたとき、限界を迎えた。
「あなたはルチカさんのことを人間だと思っていないんですね」
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