再会

 なんとか説得して雨宿りさせてから二人に傘を押し付けて帰した後、柚希は玄関ドアに背中で凭れ掛かりながら額の汗を拭う。ポケットの中のスマートフォンが複数回震えた。

 聖人。それは柚希の通り名みたいなものだ。掲示板から増殖し、コメント欄で孵化し、いつの間にか繁茂している。瑠璃を助けたことが露見してバズったとき、小心者故にマナーや行儀作法をいつも通り守っていたことや、ルチカに威張らなかったこと、普段の配信とルチカの前での姿に変化がなく裏表がなさそうに見えたことなどが、その通り名の由来であるらしい。そしてその通り名はかつてマニアの中でのみ定着していたが、今は“聖人であるワズキ”を求めて取材の依頼が来るほどで、もし柚希が律儀な性格でなければ迷宮内だけでなくプライベートでもスマートフォンの通知を切っていたに違いなかった。

 迷宮周りは物理的にも社会的にも治安が悪い。だのに、そんな迷宮の探索者になったガキが聖人だって? と笑いたくなる話だが、そもそも迷宮に潜ることは勉学と同様に公的に推奨されている行為だ。これを“迷宮の義務”という。例えば十五歳以上の学生は、毎学期に一度以上は迷宮を探索し、特別な単位を取得する必要がある。大多数の学生にとって迷宮とは観るものであって入るものではない。そのため誰も彼もやる気がないので、学期末の迷宮前広場はかなり混雑している。ちなみに社会人の迷宮ノルマは月一だ。こちらは単位どころか給料にもならないので、よく活動家によって政府叩きの材料として槍玉に挙げられている。

 つまり、そんな迷宮に毎日欠かさず通い詰め、配信までして、しかも素行が良い柚希は、その価値観からして優等生に値するのである。ここまで来るともはや「性欲で迷宮に潜ってます」とは言えない……言う気もないが。


「本当の僕は嘘つきの凡人なのに……」


 普段とは違い滑舌悪く口の中で呟く。そのとき、ピロンと個人用SNSの方の通知が届いた。柚希は指先をポケットに伸ばすかどうかしばらす葛藤する。ワズキは顔が割れている。最近は、一部のヲタクを極めたクラスメイトからもワズキとしての振る舞いを求められ、疲れていた。

 渋々画面を点す。するとポップアップされたのは見慣れた陰キャクラスメイトの名前ではなく、“三沢”という簡素な名前のメッセージ。母からだ。開けてみると、「オムライス無理になっちゃった! てきとうになんか作って食べて〜」とのことだった。柚希の母は一人で柚希を育てている。そのためパートをやめ、いくつもの会社を回って正規雇用を勝ち取り、朝から晩まで働いてくれているのだ。メッセージの文面から見るに、今日も残業なのだろう。


──「あんたの誕生日だからとっておきのオムライス作るね!」


 朝はああ言っていたのに。

 柚希は溜息をついて靴と靴下を脱ぎ、ぺたぺたと音を立てて冷蔵庫を覗いた。ジュースのペットボトルと酒の缶がいくつか。あと母のつまみのピクルスがダイニングテーブルに出しっぱなしにしてあって、炊飯器は空っぽで開けっぱ。柚希は釜を流しに置いて少し水を出し、カピカピの表面をうるがした。ちらりと米びつを振り返ったら、あとほんの少ししか残っていない。今日はパンにしよう。

 好物のオムライスは、父や妹が亡くなってから一人で作ることが増えてしまい、だからこそ他の人が作ったものをこそ食べたかっただけだ。子供みたいだけれども。

 またぺたぺたとフローリングを歩いて、脱衣所へ。洗面台の前で立ち止まり、鏡を見ながら髪の束を持ち上げて指の腹で擦った。生乾き。ナルサワ達をあったかくして帰すのに夢中になっていたから、柚希自身の面倒を見るのを忘れていた。柚希はワイシャツと特殊素材のインナー、スラックスを脱いで、浴室に入る。そしてシャワーを浴びた。人が入った後はお湯が温かい。母とは生活サイクルが微妙にずれているので、少し不思議な気分だ。妹がいた頃は父が一緒に風呂に入れてくれたっけ。アヒルを浮かべて、フェイスタオルで泡を作って。楽しかった。

 風呂から上がると、軽く身体を拭く。髪から転がり落ちてくる水滴に片目を瞑りながら腰のバスタオルを取ったとき、あ、と気がついた。腹筋が八つに割れている。前はずっと六だった。

 少し良い気分になりつつ、下着と私服を身に着ける。黒のワイドデニムパンツと灰色のサイドスリットカットソー。スニーカーはあの青いのでいいか、あとマスクも欲しい、知り合いに会いたくない……とぐずりながら頭の中でコーディネートし、髪の毛に取り掛かる。まず軽くブロー。それから母と兼用のヘアアイロンでセンターパートにし、ワックスで細かいところを整える。アホ毛もスティック糊みたいなやつで殺す。最後に高校に入るときに買ったコロンでミントを漂わせて完成だ。誰に会うとしても髪型や匂いくらいは整えていくのがマナーである……なんて主張するつもりはないが、柚希はそういうのを守りたい性格なのだった。


 米と食材、その他もうすぐ無くなりそうなトイレットペーパーやティッシュなどを買い込んで、柚希は両手首にマイバッグを提げながらスーパーを出る。自動ドアが開いた途端、ふわーっとしょっぱい匂いがした。見ればキッチンカーがある。このスーパーは曜日や週ごとに発見があるから好きだ。柚希は匂いに誘われ、車の向こう側にある出窓に近づく。するとそこから女性の嗄れて間延びした声が聞こえた。


「蛸無しって出来ますー?」

「い、いえ、その、メニューにないことは……」

「じゃあいらないわ」


 揉め事だろうか。今日は卵を買ったから十二分に気をつけて対応しよう、と勝手に覚悟を決めて裏手に回る。しかしそのときにはもう女性はいなかった。これ以上のことに発展しなくてよかった。柚希は安堵し、さて買い食いを……と店主の方を見る。目が合う。


「ギャーーー!!!」


 野太い悲鳴が上がった。柚希はびくっと身を縮め、「えっと……?」と眉を寄せて店主を見る。「ギャー!」──やはり彼は柚希を見て悲鳴を上げている。何かしてしまっただろうか。念の為スマートフォンを緊急通報モードにすることも視野に入れつつ店主をじっと見つめて、ふと気づいた。彼は以前、瑠璃を殴ろうとしたストーカーだった。

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