怪物のダンジョン 前編③
「異状なしです」
五十階層はボス部屋だ。中にいたのは柚希の三倍以上の大きさをしたミノタウロスで、その巨体を構成する緻密な筋肉により、猛攻を仕掛けてきた。ミノタウロスを倒すまでにかかった時間は、柚希がソロで片付けたときより、半分近く短縮され、それほどの消耗を負わずにドロップ品を拾うことが出来た。
そしてまた転移の扉を押す。ルチカより先に柚希が転移して周囲の気配を探り、軽く見回りをしたくらいで、ルチカも転移してくる。柚希は普段通りに報告して先に進もうとしたが、ルチカが変な顔をしていたので立ち止まった。
「さっきから思ってたけど、私も気配察知スキル持ってるよ?」
「そうだったんですか? でも僕の方がいざというときに逃げられますし──」
「あ、いや、ルチカさんを侮っているわけではなく」と慌てて付け加えると、ルチカは柚希を落ち着かせるよう肩を軽くぶつける。
「わかってるわかってる。体重的には女性の方が身軽とはいっても、瞬間的な筋力となると男性に及ばないものね」
柚希は安堵の溜息を呑み込んだ。まだカメラは回っているのだ。あまり情けない反応をしてしまっては、ルチカにまで批判が上がるかもしれない。
ルチカが「でもそれは口実でしょう?」と続けたので、柚希は彼女に意識を戻す。やっぱり怒ってしまっただろうか。そう思ったが、ルチカは穏やかに微笑んでいた。先達としての表情だった。
「毎回キミだけが気を張って先導しなくてもいいんだよ」
「……そう、ですか?」
「うん。一緒に降りて、一緒に危ない目に遭って、一緒に地上に還ろう?」
柚希は沈黙した。青い鉱石がちろちろと光って、柚希の白い頬を照らしている。
ルチカは仕方なさそうに肩をすくめた。
「難しいか」
「はい……」
[こいつ病的に優しいからな]
[主人公とかヒロインみたいに誰かのために犠牲になって死にそうっつーか]
[いやただのイキリだろ。レディーファーストって、今時ねーわ]
[レディーファーストは別にいいけど、ワズキのアレはちょっと違くね? こいつルチカたんが女だから優しくしてるって感じじゃないし]
[まだ青いが、この私が見込んだだけのことはあるね]
[誰?]
[後方腕組みパイセンチーッス]
カメラの横でコメントが書きつけられていくのを眺めていると、柚希の肩から柔らかい温度が離れていって、思わず振り返る。それから、あっ、と思って内心赤面した。まるで寂しがっているみたいだ。そっとコメント欄を見ると、ちょうどそのときは背後からのカメラワークだったようで、柚希の表情の微細な変化を見つけてしまった者はいなかった。
改めてルチカの方を見る。ルチカはマジックバッグから水筒を出して、洗練された動作でそれを口にしていた。薄い皮に覆われた喉の奥がごくりごくりと動く。柚希は礼儀として目を逸らしていたが、不意にルチカが何気ない調子で話し始めたので、また彼女に視線を戻すことになった。
「ワズキ君はどうしてそんなにも優しいの?」
柚希はきょとんとした。それから、優しいかはわからないが、と心の中で前置きしながら答える。
「…………妹がいたんです」
「……いた?」
「事故で亡くなりました」
ルチカが息を呑んだのが空気の振動でわかった。柚希は、その当時のことを細かく思い出さないように努めて短く話す。
「学校で、迷宮に行く行事みたいなの、あるじゃないですか。それで迷子になったのかな……とにかく、気がついたときには妹は襲われていて……」
ルチカの顔が青褪めていくのを見つめた。でもルチカの表情は、怖がっているとか踏み込み過ぎたことを後悔しているとか、そういう単純なものではない。話をするだけに意識の半分以上を費やしている柚希が彼女から読み取れたのは、真摯さだけだった。
「僕は必死に助けようとしたんですけど、全然駄目で……父も、そのときに」
柚希の父は、お世辞にも運動のできる人ではなかった。柚希の運動神経が間違いなく母からの遺伝以外にありえないと言えば伝わるだろうか。どこにでもいるような社会の歯車で、家庭の中で笑顔は見せるけれど、辛い顔も見せる、けして強くなんてない人。でも柚希の父は偉大だった。でも柚希は、偉大になんてならなくてよかったのにと、思わずにはいられない。
「……全然、本当に全然駄目だったなぁ」
つい繰り返してしまって、柚希はばつの悪そうに口を噤んだ。子供のような顔でルチカを盗み見ると、ルチカはまだ話を聞くつもりのようだった。
柚希はコミニュケーション能力こそ平均値くらいだが、面白く話したり、感動的に話したり、そういうのは苦手だ。カンニングするみたいにコメント欄を見る。柚希のカメラのコメントは概ね静かで、たまにちらほらと「そっか」と相槌を打ってくれていた。
少し迷ったが、続きを──独り言じみた短い言葉で最後にする。
「僕はあのときのことを引き摺ってるんだと思います。だから他人に優しく振る舞って、誰かを助けようとする。……そんなところです」
柚希は意味もなくリュックサックのベルトを握った。ルチカの方のコメント欄をちらりと見て、そこにある「自分語り乙」に失笑する。
その通りだ。人助けさえ、自分のため。柚希が誰かを助けようとするのが、あのとき妹を救けられなかった自分を救うための代償行為でないと言い切るのは不可能だった。最初からそうだ。不気味な視線、常識の通用しない迷宮──そんな理不尽が苦手な柚希がダンジョンに潜り続ける理由。それは、ログインボーナスだけなんかじゃない。迷宮の理不尽さを叩きのめして、理解出来るところまで引き摺り下ろしてやろうとする、
「辛気臭くしてしまってすみません」
「ううん。私が訊いたんだもの、謝らないでよ」
柚希もルチカも意識して気楽な声音を出したが、そこに横たわる重力を無視することは出来なかった。
数秒、コメントだけが流れる時間が過ぎて、最初にルチカが気を取り直そうとする。それはプロ意識によるもので、ルチカの脳味噌はまだ柚希の吐露に浸されていた。そのため普段の軽快なトークとはいかず、この重たい時間をより一層引き立てるだけに終わった。ワズキもこの段階になるとヤバいと気がついて「あー、ええと……天気……」と苦し紛れのデッキを組んだが、生憎と迷宮に空はなく、二人は沈黙した。
どちらからともなく、とぼとぼと歩き出す。魔獣と戦ううちに気持ちが紛れるだろうと思ってのことだ。ここはメンタルコンディションで死ぬほどの階層ではない。しかし──諦めの醸し出した生温い空気を吹き飛ばす存在が、向こうからやってきた。
「あっ、ルチカちゃん! 奇遇だねっ」
「どうしたんだよ、そんなところで立ち止まってー……ん? そいつは……もしかしてワズキか?」
闇の中から顔を出したのは、おんなじ顔の少年少女だ。
少年の方は髪を所々跳ねさせていて、細身の小さな体躯では到底持てないような巨大な杖を持ち、とことことこちらに歩いてきている。もう片方の少女が少女であるとわかったのは、その溢れんばかりの胸のせいだ。こちらも少年と同じくらい──ルチカの肩に頭の天辺が来るくらい──背が小さくて、無手に魔導具らしき繊維の包帯を巻いている。
どちらも茶髪で、少年は水色の、少女は桃色の瞳をしている。これはおそらくユニークスキルの効果だろう。生まれたときは黒髪黒眼の子供も、ひとたび迷宮に潜ってユニークスキルを手にしてしまうと、体質などに大なり小なりの変化があるのだ。ルチカも『虹を架ける』の効果で髪の色が鮮やかな金と青になっている。柚希も見た目ではわからないが、スキルを手に入れたときからずっと筋力や肺活量などが物理的に増強されている。迷宮に入っているとき以外にその効果が現れないのは、脳の機能で無意識に制御するようスキルが命令しているのではないかと考えられるが──実際のところは謎だ。迷宮とはそういう存在なのである。
それで、彼らは何者なのだろう。柚希がそう思ったときには、もうそこにはさっきの重苦しい空気は消え去っていた。柚希とルチカは顔を見合わせる。
「……紹介してくれますか?」
「ええ、もちろん」
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