ログインボーナス

*

 モニターを一目も見ることなく、柚希はとある場所に辿り着いた。


「またまたよく来たねえ。皆勤賞じゃないかい。カード拝見っと……さあさ、行ってらっしゃい!」

「どうも」


 いつもの通り受け付けの女性と短く話し、さながら遊園地に入場するかのようなバーを腹で押して広場の中に入る。すると、目当ての場所が目の前に現れた。

 洞窟、あるいはトンネルのようであった。向こう側に通り抜けられそうな部分は不可思議な色の金属らしき扉が封じている。周りはごつごつとした岩のようなものでできていて、かと思えばその表面は鍾乳洞のようにつるりと滑らか。そしてそれらは現代日本のアスファルトから突然せり出したようにして鎮座しており、未知の物質とコンクリートとの境目には、燐光を纏った明らかに不自然な鉱物が繁茂している。とにかく異質な場所である。

 迷宮ダンジョン。それは、世界中に突如として現れた超常的な建造物である。そこは扉をひとたび押してしまえば、即座に迷路のような場所に瞬間移動させられ、その場にあるクリスタル状の何か──一般に“帰還石”と呼ばれる──に触れない限り地上に戻ることの叶わない、非現実的な場所だ。しかも、転移させられたその洞穴ほらあなのような空間には、ファンタジー世界だけで生きられるであろう自然の摂理に反するモンスターが跳梁跋扈ちょうりょうばっこしている。

 当然、まともな神経を持っていれば、そんな人外魔境に行きたいなど思うはずもないのだけれど──


「新人迷宮配信者のナルサワでーす!今日はここ、怪物ダンジョンに来ていまーす!」

「鉱物! 植物! なんでも高額買い取りー、こちらでやってますー!」

「斥候いませんかー? パーティの補欠探してまーす、よろしくおねがいしますー!」


 寄り道感覚でやってきた柚希同様、この場にはたくさんの人間が集まっている。迷宮の前方は大きく開けた広場になっており、そこで人々は思い思いのことをし、更にはその両脇には屋台のような簡素な建物がずらりとみっちり並んで、この場にいるすべての人間が文明的な活動をしていることを明らかにしている。

 柚希はこの光景を見るたび、なんて商魂たくましいのだろうと感心していた。前述した異常な鉱物などを売買するだけならまだしも、自らそれらを採集しに行こうとするのは命知らずが過ぎる──。

 とどのつまり柚希は彼らとは違う行動原理でこの場に来ているのだ。見ての通り、浮遊するカメラに向かって喋り倒す男、手を振って人員を募る命知らず達は皆、特殊なつなぎや革の鎧などを着込んで、腰のバッグは薬草などでぱんぱんだ。しかし柚希はというと、学校を特定されかねないブレザーこそ脱いでいるものの、それを無防備に小脇に抱えた、シャツアンドスラックス・スタイルである。どう見てもやる気がない。しかしそんな熱意のない柚希が惰性ながらも迷宮に通いつめているのには、もちろん理由があった。


 柚希は迷宮の前に立つと、重い扉を両手で押した。足を内側に入れた瞬間、すとんと両足の革靴の底が硬質な地面に着地する音がした。

 そこは既に別の空間だった。薄暗く、星のない夜空を切り出して貼り付けたような場所。その中で柚希だけが光苔のようにぼんやりとした光を放っている。それは、転移と同時に柚希の顔の前にポップアップしたウィンドウが原因だった。


“『ログインボーナス』を受け取りました。”


 そう簡潔に書かれた光の板。柚希はその右上に小さく配置されたボタンを指先で押した。すると強烈な光が消え失せ、目がちかちかとした。しかし闇に慣れない視界でも自分が未だにエフェクトを纏っているのが見える。耳を澄ませ、向こう側から足音がしないか確認し、それでも安心せずに回れ右して、外に出るために背後にある水晶の原石のような容貌の“帰還石”に手を伸ばす。

 柚希が迷宮に来た理由は、他でもない、レア過ぎるユニークスキルを持っているからである。スキルとは、迷宮で活動する中で自然と獲得していく技能のことだ。その中でもユニークスキルは、人間が迷宮に入ったときに与えられる、その人固有のたったひとつのスキルだ。その重要性から才能などとも呼ばれる。中には、“鑑定”なんていう個人情報保護法も裸足で逃げ出すユニークすぎるスキルもあるらしいが、真偽の程は不明だ。

 柚希の持つ『ログインボーナス』は、『一日に一度限り、ダンジョンに入ると、各スキルの威力を+1%の永続効果を与える』というもの。小学生の頃、親や学校の先生・生徒達と初めて迷宮に来たとき、さっきみたいにポップアップされたウィンドウにそう書かれていた。そしてそれは柚希にしか読むことができないので、その後の授業中に一人ずつ教室に入って政府に提出する用紙にひらがなで記入し、封筒に入れ、教師によって中身を見ずに全員分提出されている。意地の悪い見方をしなければ、柚希しか知らない情報だ。逆に言えば、ユニークスキルとは、そのくらい秘匿性が必要な代物なのである。つまり、毎日行っている作業だというのにも関わらず、いま柚希がありえないほど速く心臓を鼓動させているのは、ただ単に柚希が小心者であるためだけではないということだ。

 まだ若干の光を放ちながら転移する。地上に落ちてきたときには光は消えていた。スキルは迷宮の中でしか昨日しないのだ。柚希が心拍数を落ち着かせるためにしばらくそこで立っていると、その横の空間に亀裂が走り、次の瞬間、女性が立っていた。彼女も柚希と同じく迷宮から出てきたのだろう。なお、ダンジョンから出るタイミングが同じになることは珍しくない。なんせ出入り口はひとつだけだから。

 この段階になると柚希もだいぶ落ち着いてきたので、新たに迷宮入りする人の邪魔にならないよう、そっと歩き出した。問題はそこで起きた。

 進行方向へ視線を移動させようとしたとき、女性が不自然に体幹をブレさせる。はっとして柚希が振り返ったときには、女性は既にひょろりとした男性に腕を掴まれ、身動きが取れなくなっていた。そして男性は「このアマッ──」と声を張り上げた。


「よくも俺を見捨てやがって! この、この……! よくも……ッ!!」


 罵声だった。柚希は唖然として立ち竦む。暴言としてはあまり上手ではないな、と思った。現実逃避である。次に、男性の体格や表情を見た。あまり荒事に慣れていない感じが見て取れた。だから何だ、と柚希は自分の頬を張り倒して今すぐ彼女と男性を引き剥がしに行かなければとも思ったが、足が震えて動けない。

 柚希は助けを求めるように周りに視線を巡らせた。勇猛な装備を身に着けた群衆は、しかし、誰も女性を助けようとはしなかった。柚希は彼らを責められやしない。迷宮を出たらスキルも何もかもを一時的に失うのは常識だ。只人となった自分達をもし男性が突き飛ばして、アスファルトに頭を打ち、血を流したのなら、普通に死ぬだろう。でもそれはあの女性も同じだ。

 「ああッ」と男性が腕を振りかぶったとき、柚希の足がようやく動いた。悲鳴。がつんと脳みそが揺れる感覚があった。

 気がついたら柚希はアスファルトの上で寝そべっていて、腰を打ったのか、立ち上がるのもやっとな痛みが尾てい骨の辺りに響いていた。「ヤバ」と視界の隅で誰かがカメラを構える。顔を上げると、女性の絶句した青い表情が見えた。柚希は状況を思い出して無理やり立ち上がった。女性はむしろ柚希を庇おうと身を翻したが、男性の「そんなつもりは……」と言葉では悔やむようなのに裏腹な低い声音を聞くと、女性の薄い身体を男性と柚希との間に置くのは躊躇われた。


「大丈夫ですか!」


 そこで第三者の鋭い声が飛んできた。男性が一瞬そちらに気を取られた隙を見て、柚希は男性にタックルし、地面に押し付けた。男性は暴れている。柚希は声の主を探した。果たして迷宮監視員は、駆けつけた。

 迷宮監視員とは、迷宮具や魔導具などを身に着けることを許された、特別な警備員みたいなものだ。なお、迷宮具とは迷宮から産出される不思議な道具のことである。一定以上の国力のある国はどこも、国庫を湯水の如く注ぎ込んで迷宮具や迷宮から採れる植物や鉱物などの素材を研究し──これを迷宮工学と呼ぶ──、それぞれ必要に応じた魔導具を生み出した。探索者に義務付けられたカメラもそのひとつだ。

 柚希はほっとして思わず力を緩める。その刹那、男性が柚希を横に転がすようにして拘束を逃れてしまった。女性に節くれだった手を伸ばす。やばい。人間は魔獣モンスター相手とは勝手が違うのは知っていたが……。焦った柚希がアスファルトの上でのたうったとき、女性が身を翻した。一呼吸の間に振り上げられる長い脚。そこから放たれる、鮮やかな蹴り。その瞬間、誰もが女性に見惚れた。男性の顎をしたたかに打ってから片方の靴の横にそっと下ろされるまでを全員が息を止めて見つめていた。

 いち早く正気を取り戻したのは迷宮監視員だった。体格の良い彼らは男性を拘束し、連れて行く。ひょろりとした男性は両手に手錠をかけられて尚女性を何度も振り返っていた。


「やっぱりルチカはすごい……」


 赤く血走った目が瞬きもせず。連れて行かれながら、そう他人事のように笑っていたのが、痛みよりも何よりも、柚希を一番ぞっとさせた。

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