第5話


 教室の窓から差し込む日差しが、机の上に長い影を落としている。九月になって朝晩は冷え込む日も出てきた。俺は早めに登校し、装飾のアイデアをノートに描いていた。


「おはよう、佐藤くん」


 突然の声に、俺は飛び上がりそうになった。振り返ると、そこには雪乃が立っていた。今朝は俺の方が早く来ていたはずなのに、いつの間に教室に入ってきたんだ。


「お、おはよぅ……」


 俺は慌ててノートを閉じようとしたが、雪乃の視線がそれを止めた。


「装飾のアイデア? 見せて」


 俺のノートを手に取るその一瞬に、雪乃の香りが漂ってくる。甘くて清潔な香り。マンションで嗅いだときのほうがもっと芳醇ではあったけど。……ああいや、こういうのは、良くないな。口にしなくとも、すぐ近くに居る人に不純な思考を向けるのは良くない。


「佐藤くんすごいね。面白いアイデアだよ」


 雪乃の言葉に、俺は驚いて彼女を見た。雪乃は真剣な表情でスケッチを見つめている。


「本当に?」

「うん。季節感もあるし、みんなが参加できそうな感じがいいと思う」


 雪乃の言葉に、俺は少し自信を持てた気がした。いつも俺以外の人間に向けられていた新雪のように柔らかい声と表情。これは、癒やされるな。好きになってしまいそうだ。


「ところで、佐藤くん」


 無節操な俺の思考を遮断するような言葉と共に、雪乃が俺を見つめてくる。その眼差しに、俺は思わず息を呑んだ。なぜそんな真剣に俺のことを見ているのか。他の奴らにも、同じような目を向けるんだろうか。


「みんなにはこれからお願いするつもりなんだけど。今日の放課後、文化祭の打ち合わせをするから。会議室に来て」


 お願いとかいう体を取っているくせになぜ断定的。というかちょっと声が冷たくなった気がする。


「それは、また、急だな。他の人は、来れそう? 俺は、平気だけど」

「そうだよね。佐藤くんは大丈夫だよね。じゃあ、よろしくね」


 なぜか最後はトゲのある言い方だった雪乃は、スッと俺の机に一枚の紙を置くと、教室に入ってきた三人目の生徒と入れ替わるようにしてその場を去っていった。俺は呆然と彼女の後ろ姿を見つめ、それから机に置かれた紙を見た。そこには緻密に書かれた会議のアジェンダが記されていた。


 何か俺に対してのメッセージが込められているのではないかと縦読みなど試みてみたが、そんなものは一切なかった。


 放課後になり、会議室に入ると、すでに数人のクラスメイトが集まっていた。雪乃を含め、文化祭の各係の代表が揃っている。


「それじゃあ始めよっか」


 雪乃が全員に向かって言い、資料を広げる。文化祭のスケジュール、必要な材料のリスト、予算……。雪乃の準備の周到さに、俺は圧倒された。


「佐藤くんのアイデアを中心に、こんな感じでまとめてみたんだけど、みんなはどう思う?」


 雪乃が示した企画書を見て、俺は驚いた。朝のラフなスケッチが、見事に具体化されている。


「すごいですね、雪乃さん。佐藤のアイデアをこんなに上手くまとめてくれて」


 クラス委員の山田が感心したように言った。


「当然だよ。私たちの仕事だもの」


 雪乃の言葉に、俺は妙な感覚を覚えた。「私たちの」という言葉が、心地よく響く。他の生徒もいる中で、雪乃が俺の方を向いてそれを口にしていた。……気がしただけだが。


 夕陽が落ち始めた頃、ようやく打ち合わせが終わった。時間は掛かったが、ほぼすべての議題を雪乃がまとめてくれていたので、この一日でほとんどの決定事項が揃う形になった。俺も準備に早く取り掛かれるのはありがたい。うちのクラスには家庭科部や演劇部が数人いるので、そいつらに指示書を提出したら俺の仕事は終わりだ。ベースは考えるけれども、後のことは作る側に任せるスタンスでいる。


 会議室のドアが開いて、疲れた表情を浮かべた生徒たちが次々と廊下に出ていく。俺も荷物をまとめ、立ち上がった。


「佐藤くん」


 振り返ると、雪乃が俺を見ていた。長い髪が夕日に照らされ、微かに輝いている。


「一緒に帰りましょう」


 かつて毎日のように夢想したギャルゲの一幕みたいなその言葉に、俺は現実ではこんなにも戸惑うものなんだなとギャップを覚えながら頷いた。


 校舎を出ると、秋の冷たい風が頬をなでる。街路樹の葉が風に揺れ、カサカサと音を立てている。俺たちは無言で歩き始めた。ときおり、雪乃が俺の方をチラリと見ては、なぜか睨むような目つきをする。その度に俺は身体が硬直し、視線を逸らした。


 通り過ぎる人々の話し声や車の音が、この奇妙な沈黙を際立たせる。俺は何度か口を開きかけては、言葉を飲み込んだ。しかし、この状況をこのまま続けるわけにはいかない。深呼吸をして、勇気を振り絞る。


「あの、沙英さん」


 俺の声に、雪乃は立ち止まった。街灯の明かりが彼女の横顔を照らしている。


「雪乃でいいです。みんなそう呼んでくれているので」


 予想外の返答に、俺は面食らった。脳内でシミュレーションした通りに喋ってくれないと、会話ができない。特に、こういう緊張状態のときには。


「わ、わかった」


 そう言って、また黙ってしまう。質問しようとしていた言葉は、喉元まで出かかっていたのに、また飲み下してしまった。


 マンションに着き、エレベーターに乗り込む。自分の部屋がある階に着くと、ドアの前までやって来て、廊下で立ち止まった雪乃がそのまま行ってしまいそうな気がしたので、俺は「あ、あの、ゆっ、雪乃さん」と再度の勇気を振り絞って声をかけた。すると、雪乃は表情を変えないままに俺に向き直った。蛍光灯の冷たい光の下、彼女の表情が一層引き締まって見える。


「雪乃さんは、どうして俺の前でだけ、態度が変わるの?」


 俺からの質問に、雪乃はじっと俺を見つめ、そして、数秒の間の後に口を開いた。


「佐藤くんのことを、石川くんに聞きました」


 突然の言葉に、俺は同様を隠せない。雪乃は続ける。


「佐藤くんは、オタクなんですよね」

「あ、ああ……まあ」


 俺が曖昧に同意すると、雪乃は一歩近づいてきた。


「オタクの男性って、主にアニメとかゲームが好きで、引っ込みじあんで女性に免疫がない……童貞、なんですよね」


 その言葉に、俺は思わず顔を赤らめた。心の中で石川を呪いながら、俺は何と答えていいか分からず、ただ黙っていた。


 雪乃はさらに一歩近づき、俺を見上げた。大きな瞳に自分の姿が映っているのが分かる。


「私みたいな女の子に対して、お付き合いしたいと思うような感情は湧かないのでしょうか?」


 その質問に、俺の頭の中が真っ白になった。心臓の鼓動が耳元で鳴り響く。答えなければ。でも、何て言えばいい?


「いやまったく」


 言葉が口から勝手に出てきた。本当は違う。でも、自分みたいな男が雪乃のようなカースト上位と付き合うなんて、おこがましいにも程がある。そう思っていた。


 雪乃の表情が一瞬凍りついた。ただでさえ大きな目を1.3倍ぐらいに見開いて、彼女は一歩後ずさりした。


「そうですか」


 そう言って、雪乃は自分の部屋のドアを開け、中に入っていった。ドアが閉まる音が、廊下に響き渡る。


 俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。頭の中で様々な思いが渦を巻いている。ゆっくりと自分の部屋に向かい、鍵を開ける。


 部屋に入ると、俺はベッドに倒れ込んだ。天井を見つめながら、ここ数日の出来事を思い返す。疲れが一気に押し寄せてくる。


「もう考えるのも嫌だ……」


 呟きながら、俺はリモコンを手に取った。テレビの画面が明るく灯り、アニメの主題歌が流れ始める。


(明日、学校でどんな顔をして雪乃と会えばいいんだろう……)


 そんな不安を抱えたまま、俺はアニメの世界に逃避するのだった。

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