第4話
翌日、俺は夕方のマンションのエレベーターで雪乃と再び鉢合わせた。彼女は買い物帰りらしく、両手に荷物を抱えていた。エレベーターに乗り込む瞬間、俺たちの目が合い、一瞬の戸惑いが空気を満たす。
雪乃は少し困ったような表情を浮かべたが、すぐに微かな笑みを浮かべた。俺は動揺を隠しきれず、視線を泳がせる。
エレベーターが上昇する間、沈黙が続く。雪乃が手に下げている箱の中から甘い香りが漂ってきた。ケーキを買ってきたのだろうか。俺は言葉を探していたが、結局何も言えないまま、目的の階に到着してしまった。
ケーキのことについて触れてしまったら、雪乃のプライベートのことに足を踏み込んでしまう気がした。「なんだか甘い匂いがするね」なんて、女の子の髪の匂いを嗅いで感想を述べるのと何も変わらない。
というか、何のケーキなんだ? 箱の大きさ的に、二人分はあるのな? ……誰と食べるんだ?
……ああ、そうか。よかった。触れなくてよかった。触れていたら、致命傷だった。すでに心は死にかけているが。
エレベーターのドアが開き、俺たちは同時に一歩を踏み出す。廊下に出た瞬間、雪乃が立ち止まり、俺の方を向いた。
「いつからここに住んでるんですか」
またいつぞやの睨み顔……ではなかった。あえて言うなら感情のこもっていない顔だった。そして、敬語だ。それが誰よりも近くに住んでいる俺と雪乃との心の距離だった。
てか、それ今ここで聞くの? こんな流れで? 「早く引っ越せよ」っていう……意訳でいい? 俺はキミが俺のことを服飾係に推した理由を聞きたいのだが。
「だいたい、一年前ぐらいかな」
「そうですか」
そう言って、雪乃は自分の部屋のドアを開けると「では、また」と言って部屋に入ってしまった。お前学校と人格が違いすぎるな?
しかし、この、「また」というのは、『いずれまた偶然顔を合わせる日まで』という意味の「また」とは違っていたのだった。
その日の夜。インターホンが鳴った。
インターホンの音に驚いた俺は、慌てて玄関に向かう。少し緊張しながらドアを開けると、そこには予想外の人物が立っていた。雪乃だ。この時間にあって制服である。風呂も済ませてるぐらいの時間のはずなのだが。
彼女は小さな紙袋を手に持ち、少し気まずそうな表情を浮かべている。学校での完璧な笑顔とも、先ほどの冷たい態度とも違う、どこか素の表情だった。
俺は言葉を失い、ただ彼女を見つめるしかなかった。雪乃は少し咳払いをして、俺の視線から目を逸らしながら話し始めた。
「これは、挨拶と、お願いとを兼ねた…………で……」
小っさ。声小っっさ。可愛いな、くっそ。好きになるぞいい加減に。この二日で。
「そ、そうか」
話の半分も聞こえてなかったが、聞き返すと失礼な気がして、確認を取ることができなかった。コミュ障のあるあるである。
そして、雪乃は俺にケーキを渡してきて、また数秒の間。部屋に上げていいのなら、一緒に食べようかとか誘えるんだが。俺には、そんな、資格はない。男らしさなど、彼女にはまだ一度も見せていないからだ。きっとそうやって俺は言い訳を続けて、この後もチャンスを逃していく。
会話がなかったので、挨拶は終わった、という判断だったのだろう。パタンとドアは閉じて、雪乃は、俺の目の前からいなくなっていた。ほぼ無言でケーキだけ渡して帰っていったのだ。多分なんか言ってたんだけど、もうほとんど覚えていない。
「ん……?」
一人になって、ようやく思考回路が元に戻り、頭が冴えていく。よくよく考えると、告白待ちの女に、彼氏などいるはずもなかったのだ。条件反射で絶望してしまったが、あのケーキが彼氏と二人で食べるためのものであることなどありえなかった。そして、嫉妬の象徴だったそいつは、いま、こうして俺の手元にある。
「えっ……なんで……!?」
手が震えて、袋が落ちそうになって、死ぬ気になってキャッチした。食べる前に崩したら死んでも死にきれない。
俺は震える手でケーキの入った袋を抱えたまま、ゆっくりと部屋の中に戻った。ドアを閉める音が、異様に大きく感じられる。心臓の鼓動が耳に響く中、俺はテーブルに向かい、慎重に袋を置いた。
中身を確認しようとしたとき、ようやく重大な過失に気づいてしまった。雪乃の言葉を聞き逃すべきではなかったことに。「挨拶と、お願いを兼ねた...」という断片的な言葉が頭の中でリピートする。
俺は袋を開け、中からケーキの箱を取り出した。そっと蓋を開けると、小さな一人用のケーキが姿を現した。その横には、小さな紙切れが添えられている。手が震えるのを抑えながら、俺はそれを取り上げた。
『これからよろしくお願いします』
ふっっつーーーに、隣人としての挨拶だった。それは『よろしくしないと殺す』という脅しにも見えるし、『これから仲良くしましょうね』という告白の文章にも読める。ケーキは、お洒落な円形のチョコレートコーティングで、いくらするものなのか怖くなるぐらい美味かった。俺はこれより美味いスイーツを返すまで、一生の恩を雪乃に負い続ける。
「うっま……」
涙が出そうだったけど、さすがに泣いたらダメだと思ったので、俺は感動に震える胸を抑えながらケーキを完食した。
「これ、雪乃から貰ったのか……」
俺はわかりきったことを、それでも夢ではないかと疑って醒めない脳に言ってわからせるよう、呟いた。テーブルの上に立てて置いてあるたった一つきりの紙袋が、どうしてだか特別なものに見えてしかたがなかった。
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