第3話

 教室のドアが開く音に、俺は思わず顔を上げた。そこには雪乃の姿があった。朝のエレベーターでの出来事を思い出し、俺は慌てて視線を逸らす。


 雪乃は普段通りに教室に入ってきて、クラスメイトたちと挨拶を交わしている。その様子は、まるで朝の出来事など何もなかったかのようだ。俺は机に顔を伏せるようにして、教科書を取り出す動作に集中した。


 チラリと横目で見ると、雪乃は相変わらず皆の人気者だった。優しい笑顔で周囲の話を聞き、頷きながら応えている。俺には想像もつかない、雪乃の日常がそこにあった。


 クラスメイトたちの声が耳に入ってくる。昨日の宿題の話や、週末の予定など、いつもと変わらない会話が飛び交っている。しかし、俺の頭の中は朝の出来事でいっぱいだった。


 雪乃の机は俺の斜め飛んで前。この距離感が、今日に限って妙に近く感じる。彼女の後ろ姿が視界に入るたびに、緊張で体が硬直しそうになる。パジャマ姿の雪乃の記憶が、頭の中でちらつく。ホームルームが始まり、担任の先生が入ってきた。


「──では、文化祭の準備について話し合いましょう」


 先生の言葉に、クラス全体がざわめいた。文化祭。そういえば、もうそんな季節だったのか。俺は完全に忘れていた。


「係を決めますので、希望者は手を挙げてください」


 先生の声に、数人の生徒が手を挙げる。俺は当然のように、自分の存在感を消すことに専念した。目立たないこと。それが、俺の高校生活における鉄則だった。


「装飾係は……」


 先生が言いかけたところで、クラスの前の方から声が上がった。


「先生、佐藤くんはどうですか?」


 なんの脈絡もない提案に、クラス全体が静まり返った。俺は驚いて顔を上げた。声の主は、クラス委員の山田だった。


「そうだね、佐藤くんはいい選択かもしれないね」


 先生が意外にも同意する。俺は混乱した。なぜ突然、自分の名前が挙がったのか理解できない。


「佐藤くん、美術の成績もいいし、センスがあると思うんだ。みんなで協力して、素敵な教室にしてくれると信じているよ」


 先生の言葉に、俺は言葉を失った。確かに美術の成績はそこそこ良かった。でも、それは昔、アニメのキャラクターを描く練習をしていて、そこで人体や服飾について詳しくなっただけだ。


「あの、でも……」


 断ろうとする俺の言葉を遮るように、クラスメイトたちから声が上がる。


「佐藤、頼むよ!」

「君のセンスなら、きっと素敵な装飾になるよ!」


 予想外の反応に、俺は戸惑った。しかし、クラスの反応は二分されているようだった。熱心に俺を推す声がある一方で、困惑した表情で黙っている生徒も多い。この不自然な空気に、俺は違和感を覚えた。


 そんな俺の混乱を見透かしたかのように、先生が優しく微笑んだ。


「じゃあ、決まりだね。佐藤くん、よろしく頼むよ」


 もはや断る余地はなかった。俺は小さく頷くしかなかった。


「では、他の係も決めていきましょう」


 先生の声に、再びクラスがざわめく。俺はぼんやりと、自分の置かれた状況を把握しようとしていた。


 装飾係。それは、否が応でも目立つ立場だ。俺のような影の薄い存在が、突如としてスポットライトを浴びることになる。不安と戸惑いが押し寄せてくる。


 ふと、雪乃の方を見ると、彼女もこちらを見ていた。目が合った瞬間、俺は慌てて視線を逸らそうとしたが、その目端に映っていた雪乃の視線が想像以上に長くこちらに向いていたことに気がついた。その瞬間、俺の頭に閃きが走った。


(ヤツか……雪乃が何か教室に仕込みやがった……!?)


 そう直感した。なぜかはわからない。ただ、俺が雪乃の住居とパジャマ姿を知ってしまったことが、この件と無関係とも思えなかった。


「雪乃さんは、今後の司会と進行をお願いできますか?」


 先生の声に、クラス全体が沸いた。さすがは雪乃。誰もが納得の人選だ。


「はい、頑張ります」


 雪乃の声が聞こえる。相変わらず、澄んだ声だ。彼女の口から発せられる空気振動に鼓膜が心地よく揺らされるのがわかる。催眠術とかやられたら即落ちしそうだ。


 他の係も次々と決まっていく。俺は自分の役割のことで頭がいっぱいで、他の人たちの担当にはほとんど注意を払えなかった。


 ホームルームが終わり、授業が始まる。なぜ雪乃は俺が推薦されるように仕組んだのか。いや、まずは、それが事実なのか。確かめなくては。


 いつかまた、マンションで偶然にも顔を合わせたときに。

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