第10話 齧りかけのせんべい

 今から大体12年前のこと。


 私と菜由が知り合ったきっかけは、単に家と年が近いから、だった。


「はっ、はじめましれっ!!星上光れふっ!!」


 開口一番、自己紹介は噛み噛みだった。


 最初に菜由と出会ったのは菜由ん家の玄関。


 どこで知り合ったのかうちのお母さんと菜由のお母さんは既に仲がよかった。話していく内に来月から小学校の私たちが同じ小学校だと言うことに気付き、せっかくだから学校が始まる前にお友達になりましょうと言う流れになったらしく、私はその日、笠織家、つまりは菜由の家に招かれた。


 元々引っ込み思案で人見知りだった私は、知らない子の家に行くのが死ぬほど嫌だった。


 それなら余計に今の内に友達作っときなさいと、嫌がる私の手を引いて、無理矢理笠織家に連れて行かれた。


 お母さんの背中に隠れながら、玄関框に立っている、自分と同じ歳の女の子に精一杯の勇気を振り絞った自己紹介が、噛み噛みも噛み噛み。


 もうホントに灰になって消えたいくらい恥ずかしくて泣きそう……と言うか、多分ちょっと泣いた。

 目の前の女の子はボーっとした表情でせんべいをバリボリ食べていた。「なに食ってんだっ」と彼女のお母さんにドつかれても食べていた。


 それを見てたら恥ずかしさよりもこの子は何なんだろうって気持ちになってきて、いつの間にかお母さんの背中から出て女の子に近付いていた。


「……あ、あなたのお名前は?」


 女の子はじーっと、何を考えてるのか分からない表情のまま私を見詰めて、やがてごくんと噛み終えたせんべいを飲み込んでから、手に持っていた齧りかけのせんべいを私の方に差し出した。


「食べる?美味しーよ?」


「い……いらない」


 秒で拒否った。


 初対面の人の食べかけとか嫌だったし。


 すると女の子は不思議そうな顔をしながら、「そっか」と言い、本当に美味しいと思ってるのか分からない表情で再びせんべいを食べ始めた。


 「ちゃんと挨拶しなさいっ!」とその子のお母さんにまたドつかれ、ようやくその子の名前を聞いた。


 初印象は『なんか変な子』だった。




 結局その後の一ヶ月間、『菜由ちゃん』とロクに話さないまま小学校は始まった。


 そして、一瞬で私は出遅れた。


 周りが自然とグループを作って輪に入って行く中、私はあぶれた。


 いや、正確にはグループに誘ってくれた子も何人かいた。

 「一緒にあそぼーよ!」とか「鬼ごっこしない?」とか。でも私は初対面の人が怖くて、逃げてしまっていた。


 逃げて逃げて、どこか分からない校舎の隅っこまで辿り着く。


 今にして思えば普通に人気のない廊下に空き教室が続いてただけなんだけど、小学一年の私にはそこがすごく恐ろしい所に思えて、私は半泣きになりながら「ここ……どこ…?」と帰り道を探していた。


 涙で視界はぼやけてて、知らない所で視野が狭くなってたから、足元に寝そべっている物体に私は気付かなかった。


「あ゛だっっ!?!?」


 顔面からすっころんだ。


「……ぐすっ……痛い……」


 鼻を擦りながら立ち上がろうとすると、私の下から「ぐええぇぇぇ」と蛙の潰れたような音が聞こえてきて、慌てて飛び離れる。


 その物体はむくりと起き上がり、見覚えのある何を考えてるのか分からない表情を私に向けた。


「なっ……菜由……ちゃんっ!?な、なんで……ここに……?」


「せんべい」


 菜由ちゃんは腰にぶら下げている巾着袋からせんべいの個包装を取り出して切り口を開き、取り出したものをバリッと齧る。


「美味い」


「美味い……じゃなくてっ!学校でそんなもの食べたら怒られちゃうよ!?」


「大丈夫。ここバレないよ」


 こともなげにそう言い切る彼女に、私は躓いた上に下敷きにした後、膝で押し潰してしまったことに対する謝罪も忘れ、ただただ悪いことを正さないといけないと言う気になっていた。


「でも、いつかはバレちゃうかもしれないよ!?」


「でも私、せんべい好き」


 バリッ


「怒られるのは嫌いだけど、せんべいは食べたいから、大丈夫」


「で、でもっ、家なら食べていいけど、学校はお勉強する所で……!」


「せんべい……食べる?」


 菜由ちゃんはそう言って、また初対面のあの日みたいに齧りかけのせんべいを差し出して来た。


 謎だ。


 この子の全ての行動と言動が謎で、絶対に悪いことをしてるはずなのに、正そうとしてる私の方が変なんじゃないのか――幼い頭で、当時の私はそんな感じのことを考えた気がする。


 せんべい自体は別に、好きでも嫌いでもなかった。


 嫌いなのは、大人に怒られること。


 好きなものは……あんまりわからない。


 怖いものは、分かる。


 だって私、さっきまで、すっごく怖かったから。


 一人は……怖い。


 そう思ったら、私は自然と口を開いていた。


「それ食べたら……菜由ちゃんと一緒にいても……いい…?わ、私……その……一人、嫌だから……んぅっ!?」


 ズイッと口元にせんべいを押し付けられる。


「おいしーよ?」


 否定でも肯定でもない言葉に私は困惑しながら、押し付けられたものを齧った。


 固い感触と、甘辛い味が口の中に広がっていく。

 学校で先生や親に内緒でお菓子を食べる背徳感と、お昼前でお腹が空いていたこともあって、その時のせんべいは今までで一番おいしかったような気がする。


「………おいしい」


 私がそう言えば、菜由ちゃんはによりと口角を上げた。


「んふふ…ふふ………ふふふ」


 初めて見せてくれた、彼女の笑顔だった……笑い方は変だったけど。


 そして自分ももう一つ包装から出したせんべいを齧り、「んふ……んふふ」と笑い、私の顔を見ながら言った。


「おいしーね」


 その無邪気な笑顔を見ていたら、ああ、私はこの子の隣にいてもいいんだなと思えた。


 それ以来、私はいつどこへ行くにも菜由ちゃんに付いていくようになっていた。

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