第8話 君にまた会えてよかった
「また一年後、絶対戻って来るからね」
「………ん……」
「そしたら一緒に暮らして、毎日えっちしようね」
「…………ん……ぅ……?」
「ふふ、寝顔かわい。それじゃあ…バイバイ、菜由」
まだ空がほの暗い時間帯、薄暗い寝室に、小さなリップ音が響いた。
「………ん………光……ちゃん…?」
ぼんやりとした頭で、一番最初に思いついた名前が口から漏れた。
何となく手を伸ばしてみるが、そこにはシーツのヒラヒラとした感触があるだけで、人の質感は存在しない。
ゆっくりと体を起こして、辺りを見渡してみる。
「………いない」
寝室を出てリビングに到着し、ソファに座ってみるが、昨日のように寄りかからせてくれる肩は存在しない。
「歯……磨こ……」
洗面所に向かい、歯を磨く。
口を濯いでから何とはなしに舌を伸ばしてみると、昨日のキスを思い出して少し体が熱くなる。
トイレで用を足して、意味もなく浴室を覗き、いるはずもない影を探してしまう。
玄関のドアノブを引いてみると鍵がかかっていて、開錠してから扉を開く。ふとドアの内側の郵便受箱の中を覗いて見ると、玄関の扉の鍵が入っていた。
左右を見渡してみるが、当たり前のように外廊下には誰もいない。手摺りに手を付いて外を見下ろしてみても、それらしい人影は見当たらない。
「………いない……」
鼻の奥がツンと疼いて、視界がボヤける。
また隣からドアの開く音が聞こえてきて、泣き顔を見られたくなかったからすぐに家の中に入り、虚ろな顔で廊下を歩く。
リビングに辿り着く前に膝から崩れ落ちるようにヘタレ込んで、両手で零れ落ちる涙を拭いながら号泣した。
「う゛わ゛あああああああああぁぁぁぁぁ!!!やだ!!い゛やだ!!もっどいっじょにいだがっだ!!びがりぢゃんともっどキスじてっ………ごはん゛たべでっ…ぞふぁに゛ずわっでてれびみで……ずっどずっと…い゛っしょに゛………ん゛ぅ………」
思い切り声を出して、咽て、咳を出すと少しだけ落ち着いた。しかし、心にぽっかりと空いてしまった穴は大きすぎて、その穴を埋めるためにAriNaのCDを聞こうと、縋るように顔を上げた。
滲んだ視界の先にはリビングの部屋。昨日、光ちゃんとご飯を食べた食卓が見える。
「………ぁれ…」
よろつきながら立ち上がって、フラフラと転びそうになりながらリビングに入り、机の方へと近付く。
机の目の前で立ち止まると、やっぱり、そこには見慣れないものが置かれていた。
「………置き手紙……と、ケースに入った……サイン入りのディスク…?」
誰がこんなものを?なんて、答えはひとりしかいない。
でも、だったら、だとしたら……このディスクはなに……?
「白無地のディスクに……『アリナ』の直筆サインだけとか……こんなの見たことない………」
大体のグッズは『AriNa』の公式ロゴがあったり、何かしらお洒落なデザインが為されているはずで、ここまでシンプル、悪く言えば雑なデザインをした商品は見たことがない……というか、これは商品じゃない。
AriNaファンの第一線……は、ちょっと言いすぎかもだけど第二線くらいを走るこの私が明言するのだから間違いないだろう。多分。
グッズじゃないとしたら、これは光ちゃんがアリナの真似をしてサインを書いたもの……?
現実的な考えとしては、それ以外に思いつかない。
けど、何のために……?
「……手紙に、答えが書かれてるのかな」
表面に『♡大好きな菜由へ♡』と書かれた、二枚折りになっている手紙を開く。
おはよ、菜由。
多分菜由がこの手紙を読んでる時、私はもう事務所に行ってると思う。
同じ時間に菜由も起きれたら一番いいんだけど、ちょっとがんばらせすぎちゃったから起きれないと予想して、手紙を書くことにしました。
明日の朝早いって先に言っとけば良かったね。
って言うかごめん。カギ探す時、菜由のカバンの中勝手に漁っちゃった。
朝、奇跡的に菜由が起きれたら返すけど、起きてなかったらポストの受け口に入れとくので、あとで確認してみてください。
それともう一個謝りたいことがありまして。
ホントはもっと早く言うつもりだったんだけど、もうホントびっくりするくらい菜由がAriNaにお熱だったからさ。
あそこで打ち明けちゃったら、真っすぐ私のこと『星上光』として見てくれないんじゃって思っちゃって言えなかったんだけど。
私、AriNaのアリナなんだ。
結局こんな形で伝えることになっちゃったけど、菜由がAriNaのことも私のことも好きって言ってくれて、ほんっとーにうれしかった。
AriNaが解散するまで私、アリナとして全力で活動するから、最後までちゃんと見ててね。
これからもずっと大好きだよ。
私だけのお嫁さん。
ブルーレイの映像、見終わったらこの手紙の裏を見て。
待ってるからね。
♡菜由の愛する婚約者の光ちゃんより♡
「…嘘………」
一度も考えなかった訳じゃない。
ただ、現実的じゃないと思って切り捨てていた。
光ちゃんが、AriNaのアリナであるという可能性を。
信じられないという思いでケースからブルーレイを取り出して、テレビのプレーヤーに入れる。
画面に映し出されたのは狭くて白い、いくつか機材が並んだ部屋。その真ん中で、ギターを持った光ちゃんがカーペットの上に置かれた椅子に座っている以外、ほとんど何もない殺風景な空間。
光ちゃんはギターを鳴らし「あーあー」と軽い調整を済ませてから、「それじゃあいくよ。聞いててね、菜由。AriNa最新アルバム収録曲で、『再会』。アリナ引き語りver」とこちらに向かって笑いかける。
それは録画されたもので、しかも画面に映っているのは紛れもなく光ちゃんなのに、まるで本物のアリナに笑いかけられたような感覚に陥る。
いや、実際には本物のアリナに笑いかけられたことなんてないんだけど……いや、ホントにアリナが光ちゃんだったならこれって実質アリナに笑いかけられたってことに……?
なんて余計な考えは、弦の弾かれた一音で全部吹き飛ばされた。
前奏を弾き終えれば、光ちゃん――アリナは淑やかに歌い出し、彼女特有の静かなAメロが始まる。
しかし曲が進むにつれて段々と情熱的に、サビはもう鳥肌が立つほどの迫力をギターとマイク一本で歌い切り、「今日という日だけはあなたに会いたかった」と歌いながら真っすぐに私の瞳を射貫いた。
歌っている時の彼女は、見た目は光ちゃんのはずなのに、もうアリナが歌っているようにしか見えない。光ちゃんが昨日、自分がアリナであることを打ち明けてくれなかった理由が分かった。
彼女がアリナである時、私はきっと彼女を光ちゃんとして見れない。
それくらい、光ちゃんとアリナは別人だった。
私の心臓は興奮と動揺に今にもはち切れそうで、曲の終わり、最後に「菜由、また再会できる日を、楽しみに待ってる。光より、愛を込めて」と言われ、ようやく現実に帰ってきたような気がした。
「しゅ……しゅごかったぁ………」
拍手も忘れて口を手で押さえたまま、余韻で全く動けなくて、ぽろぽろ涙を流しながら暗転してしまった画面を眺めていた。
しばらく経ってから手紙の内容を思い出し、手紙の裏側を捲るとそこにはRINEのIDが書き込まれていた。すぐにスマホを取り出して打ち込んでみると『アリナ』の名前が表示される。
ああ……本当に光ちゃんがアリナなんだと、改めて実感する。
「って、これ連絡先だよね!?れ、連絡取っていいってこと!?」
すぐに電話を掛けたい気持ちを何とか抑えながら、菜由はとりあえず『映像見ました!!めっちゃめちゃカッコ良かったです!!!!特に――――』と、長ったらしいファンメッセージを送信するのだった。
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