第4話 月白風清
小さいながらも、その庭には、荒れ狂う海があり、波間に頭を覗かせる岩礁があり、一枚の静寂な絵画となっていました。
時が止まったように感じました。
自分でも、おかしなことを言っていると思います。庭に海はありませんでしょう。しかも、山の上にある場所です。はい。もちろん銀嶺山に海がないことも、アルディラが海に面していないことも、存じ上げています。
ただ、月光に照らされ銀色に輝くその庭で、私は、波間に佇む岩礁を見たのです。
寄せては返す波。その波に洗われる岩礁。
その波に呑まれまいとする小さな小さな小舟まで、私には見えたのです。
私は慌てて、その窓を閉じました。
幻覚の魔法をかけられたかもしれないと。事前に読み込んだ報告書には、魔法陣に詳しいとあります。知らぬ間に、幻覚の魔法陣を掛けられていたのかさえ思いました。
アルディラどころか、周辺国のどこにもない造りの庭に思います。今までに見たことも無いにも関わらず、私はその庭に、感動を覚えました。
落ち着いて考えればわかります。
それはただの岩と白い砂で作られた庭なのです。海を感じるだけで、そこにはただの静寂、本当に砂と岩があるだけでした。
これがどれほどすごいことか、お判りいただけますか? なんという高い文化度なのかと、戦慄すら覚え、一体、どうしてこのような発想をしたのか、知りたくなりました。
それが全ての誤りでした。
どこの暗殺者が、標的に敬意と好奇心を抱くというのでしょう。
私への指令が、単純な殺害でなかったことを感謝しました。
その時です。
やはり、注意散漫になっていたのでしょう。この東屋に誰かが近づいてくる音を感じ、私は慌ててそこを抜けようとしましたが、道を引き返すわけには行きません。鉢合わせになります。
致し方がなく、庭側に出て、この美しい庭に再び対峙しました。
窓枠の中から見た美しさも素晴らしかったのですが、天に満月を抱き、その下に輝くその庭には、また得も言えぬ美がありました。
再び私の心は囚われました。
しかし、足音が近づいてきます。
庭は、これまた粗末な味のある土塀に囲まれていることに気付きました。
逃げるには、あの土塀の裏に抜けるしかない。
それには、この美しい白砂の海を渡る必要があります。
岩の上を踏む勇気はありません。この芸術を荒らすことを不謹慎だと思いました。
しかし、それは白砂とて同様です。その躊躇。
「誰?」
すぐ背後から声がしました。
私は心臓が高鳴るのを感じながら白砂を音もなく走り、音をさせずに土塀を超え、身を隠しました。
「あれ? 誰かいると思ったのにな……」
男はしばらくそこに留まりました。
その声こそ、かの方、シドさまに違いありません。私は息すら止めて、様子を窺いました。
「鹿かな? あ……庭を荒らしたか」
何をしているのかまでは分かりませんが、白砂を撫でる音がし始めました。私の足跡を消しているのでしょう。私のことを鹿と思ってくれたようですが……
「そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな」
と、かの方は呟いたのです。
大事にしている庭を踏み荒らした鹿を嘆いたのか、それとも芸術を知らぬ一人の蒙昧なる暗殺者を嘆いたのか……。
私は、名乗れないことを、これほど悔しく思ったことは、この先の生涯にもないでしょう。私ほどに、この庭を理解できている者は、この大陸のどこにもいないかもしれません。
それほどの孤高の芸術を、かの方はこの誰も訪れることのない山荘で、一人、作ってらっしゃるのかと思うと、その孤独と絶望がいかに深いのかと……。
その方が山小屋に戻ると、私もそこを離れました。
◇
私は翌日から、山荘から離れた木の上から、監視を続けました。
ただ、昨晩の感動は頭から消えませんでした。それ故でしょうか。昼頃にその木のすぐ近くまで、シドともう一人の少女がいることに気付けませんでした。
気付いた時には、もう木の下にシドがいました。
「ああ、ここ。この根をすりおろして飲むんだ」
「へぇ、これがショウガですか」
「これを見つけるのは大変だったんだよ。あと、これも掘っていこう」
「こちらは?」
「これはね、まあ、芋の一種なんだけど」
「ああ、芋ですか。よく食べています。砕いて潰して」
「そうじゃないんだよ。石で焼くんだ。あ。そうだ、今作っている小屋に石を入れているんだけど、あそこで焼こう」
「石で焼くんですか?」
「うん。石焼き芋。めちゃくちゃ甘いんだ」
「甘い? 芋がですか?」
「うんうん。やったことないだろ? 微妙な温度で焼くと、物凄く甘くなるんだ」
そんなことを話しながら、二人は離れていきました。
この木に登った時間は、まだ暗かったせいもありましたが、かの方の畑が、この木のすぐ下にあったようです。
柔らかい土だとは思いましたが……。
恐らくは、この時に、かの方は、どうやってか、私を認識したのでしょう。
夜にまた山荘に近づきましたが、まだエルフのいびきがうるさく、かの方の声は聞こえませんでした。
その代わり、夜に別の集団に出くわしました。
どこの国の手の者か分かりませんが、同業者です。全部で四名。
一晩中、その者らと戦い続けました。武器の形態から、恐らくは……いえ、いう訳にはいきません。消去法でも私の依頼主につながることは言えないのです。
強敵でした。
はい。死体は川に流しました。
不思議と、ここらの川は冷たすぎるということはないのですが、きっと冬になれば、死蝋となり、春の川の生物のご馳走になるかもしれません。
ですが、私は元の木の元に戻ってきたとき、愕然としました。
その木の下に壺があったのです。
『どうぞ』
と私にもわかる共通語で書かれてあります。
はっとして、小屋を振り返りましたが、シドも少女も見えません。
私はやはり気付かれていたのです。
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