お兄さんは真面目なんだから

 日は跨ぎ、今日も傘を差してあの繁華街の通りを歩く。


 これは僕が彼女に会いたい訳ではない。

 普通にこの道は家までの最短ルートで、これまでの数年間ずっと通っている。


 だからもちろんあのメイドカフェもずっと昔から知っている。

 それでもこの前思わず止まったのは、やはりあの紫色の髪だろう。


 雨に打たれたアスファルトの匂いはやけにむさ苦しくて、いつの間にか非常口のようなネオンの光を探している。

 僕は実際は気弱で臆病なのに、どうしても惹かれてしまうあの色の輝きは美しいとさえ思ってしまう。


 ビターが好きな僕にとって、甘美な蜜は甘すぎる。


 それこそこの道を歩く途中。

 この前も思わず目に留まってしまったあのメイドカフェ。


 彼女は今日もいるのだろうか。

 淡い期待は微塵も考えていない。

 …何と言えばいいんだろう、彼女が生きているというその実感、その事実が欲しいのだ。


 人だかりの中で、あのメイドカフェのファンシーな雰囲気は異様だ。

 呼び込み役のメイドの女の子たちは、この前と変わっているらしい。


 僕が見つめるその先には名前の知らない彼女の姿はなかった。


 途端にさまざまな可能性を考える脳を自らシャットダウンしては、絶え間なく降る雨をふと見上げる。

 この雨が降り止む事はない。



 僕の足元を、一匹の子猫が足早に通り過ぎていった。

 急な猫に僕は思わず足を止め、その猫が向かった方向に視線を送る。

 この繁華街から分岐した狭い路地の内の一本。


 人と人の隙間から見える、猫の後ろ姿と、ダンボールと、メイド服と、紫の髪と。


 僕は人の合間を縫って少しずつその路地に近づく。

 同時に分かる、ここは猫たちの住処。


 そして一人のメイド服を着た紫髪の女の子。


 名前も知らない彼女は僕に気付くと、にかっと笑顔を向けてきた。



「やっほー久しぶり」


「こんにちは」



 しゃがんだ体勢の彼女に視線を合わせるべく、僕もしゃがむ。

 彼女の隣には子猫が四匹入ったダンボールが、そして雨除けとしてビニール傘が立て掛けられている。


「ピーと、グーと、ペタと、トト」


 僕の視線に気付いたのか、一匹一匹を指差しながら名前を教えてくれる。

 落ち着きながらもどこか楽しそうな声に、少し安心している僕がいる。


 僕は雨に打たれている彼女に向けて傘を差し出す。

 多分、このビニール傘は彼女のものなんだろう。



「トトが最近入ってきたの」


「…この子たちは前からここに居たんですか?」


「うん。一ヶ月くらい前からって聞いた」



 メイド服の端が濡れる事も気にせずに話している。


 どうやら、彼女がこのメイドカフェでアルバイトを始めた時から子猫たちはここに巣を作っていたらしい。

 最初は一匹から、そこから二匹、三匹とどんどん集まってきて、今に至ると。


「ずっとここで世話を?」


 狭い路地で人通りがほぼないとはいえ、こんな環境でしかも子猫だけだ。

 決して安全とは言えない。


「丁度一週間前に見つけたの。それまで店長しかここに猫がいるなんて知らなかったって」


 自由に動き回る猫をあやしながら、彼女はそう話す。



「私もここのメイドカフェのバイト始めてからまだ一ヶ月とかだし、というかむしろそれまでなんで他の人は気付いてなかったんだって感じ」


「…」


「それで、私がこの子たちを見つけたんだから私が看る事にしたの。一気にペットが四匹だよ? かわいい〜」


「…水を差すようで申し訳ないですけど」


「?」


「この前、勝手に帰ってしまってすみません。その、ちゃんとお礼を言えてないと思って。君を探してたんです」


「この前…? …あー、あれから全然連絡……、違った。…そうじゃん。思い出したよ」


「ん?」


「おじさんが酔っ払って私に泣きじゃくってきたんだ。そうそう。絶賛傷心中の私にめっちゃ話しかけてきたの。私がウザいなって思っててもなりふり構わず」



 僕、そんな事してたのか…。

 この歳になってもお酒って怖い。



「それは悪いことをしました……」


「ていうか、私より年上でしょ? 敬語要らないよ」


「……。そう言うなら、そうさせてもらおうかな。ところで君はいくつ?」


「二十」



 雨が弱まり、僕は彼女に向けて差していた傘を閉じる。

 彼女は猫たちの世話を終えたようで、メイド服のシックで可憐なスカートをふわりと持ち上げながら立ち上がる。


「大学三回生」


 淡々と事実を述べるように話す。

 ふと目が合うと、彼女はあの時みたいににかっと笑った。


「おじさん、かわいい顔してるね」


 その透き通るような声の中に芯もあるように感じてか、彼女の事を勝手に強い人間であると認識する。


 バイトをして、おそらく大学に通って、途方に暮れている猫の世話をして。

 でも───。


 僕はあの時の光景を忘れている訳ではない。



「その猫はどうするの? その段ボールのまま?」


「そう。私が店長にこの猫達のこと話してみたんだけど、誰もこの子達の世話とか、親探しとか手伝う気はないらしいの。だからどうしようもない。出来ない」


「そう……」



 雨は完全には降り止まず、時々ポツポツとアスファルトに落ちては音を鳴らす。

 僕の肩に被った生き物もどきの水たち、メイド服の端に宿った命、行き場のない子どもたち。

 周りの人混みもそう、僕たちには特段興味はないみたいだ。



「僕の家もペット禁止なんだ。飼ってあげようにも大分骨を折る必要がある」


「うん。だから、どうしようもないの。行く当てもない、フラフラ歩き回って疲れて、またここに戻ってくるの」


「…」


「…。それじゃあ私はもう帰るね」


「……ちょっと待って」


「?」


「まだちゃんとお礼ができてないんだ。僕を助けてくれたお礼が」


「……もー。おじさ…、お兄さんは真面目なんだから」



 店に戻ろうとする足を180度変えて、彼女は僕に一歩ずつ近付く。

 相変わらず距離感がバグってる、三十センチ程しかない距離でまた話し出す。



「この猫ちゃんたち、どうなると思う」


「…どうなるとは?」


「もしこのままここで生活していくとしたら、この子たちはどうなっちゃうんだろう」


「それは……、このまま誰かに見つからずに生きていけば、子猫たちは孤独に生きるだろうね」


「そうだね」


「…?」



 名前も知らない彼女はやや俯いたままで、黙っている。

 紫の髪に白色の清楚なカチューシャ、首の上まできっちりと留めているシャツ。

 スカートの裾を少しだけ気にしている様子が、まさしく猫の毛づくろいのよう。


 やがて顔を上げた彼女。

 そして僕の目を見て、すぐに映した顔はどこか申し訳なさそうな、にかっとした笑顔だった。



「にゃー」


「…?」


「あぁ違った。今の私はメイドだった。うん、……それでは、ご主人様───」


「ちょ、ちょっと待って欲しい。『にゃー』は百歩譲るとしても、ご主人様は…。僕は君のお客さんになってはないよ」


「あはは、そうかも」



 僕の言葉に彼女は軽く返し、またいつも通りの少しだけあっけらかんな笑顔に戻る。


 僕の先ほどの言葉の通り、「にゃー」はともかく、「ご主人様」はちょっと、ここは外だし周りの目がどうしても気になってしまう。

 いい年したおっさんが女子大生にご主人様呼びさせる構図は見事に耐え難い。



「で、何の話してたっけ」


「何か、僕に出来ることはある? この前のお礼として」


「あー」



 僕の言葉に彼女は元々の話を思い出したようだ。

 僕からしてみれば、彼女の突拍子もない会話の連続に振り回されただけだが。


 名前も知らない彼女は、お礼には存外興味がなさそうな感じでまたスカートの濡れた裾を気にし始めた。


 それを眺めていると、急に顔を上げて僕を見つめる彼女。

 その様子を何も考えずに見ていたせいで、彼女が何を考えているのかが分からなかった。


「んー、じゃあさ?」


 いや、これまでの数少ないけれどどこかツギハギだらけの彼女を鑑みれば、何となくでも僕は気が付いていたのかもしれない。



 「私の事連れてってよ」



 「……」


 いや、やっぱり分からない。


 突拍子もないその提案に、僕は動揺するしかなかった。

 それもそうだ。彼女を連れて行くなんて想像もできない。



「連れて行くって? 僕が君を家に連れていけばいい?」


「うん。そういうこと」


「…いや、それは……」


「お礼」


「うっ…」



 ……。


 出鼻を挫かれてしまい、僕は上手い言葉を返せなくなる。

 名前も知らない彼女は澄ました顔で、その瞳の奥を僕に向けている。


「いい? 今の私はメイドだから───」


 そう言ってスカートの裾をゆっくりと持ち上げる。


 多分メイドカフェではやらないんだろう、多少のぎこちなさ、拙さを孕みながらもその仕草は、この雨がポツポツと降る繁華街では一際輝いて見えた。


「私のご主人様になってよ。お兄さん」


 彼女は目を細めてにかっと笑って、どこか嬉しそうにそう言った。


 そしてスイッチが切れたようにスカートをつまんだ手をパッと離して、彼女はまた飄々とした雰囲気を身に包む。

 その様子はメイド服である点を除けば、とても彼女を表しているのではないかと感じた。


 ちゃんとした言葉として表すなら。



「よろしくね」



 それは猫だろう。



「……」


 着替えると言ってお店の方角へ歩いて行く彼女。

 段ボールの子猫たちが戯れている中、僕は渋々と頷くことしかできなかった。

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