第1話

 太平洋上に一隻のフェリーが浮かんでいた。


「本日はご乗船いただきありがとうございました。残り約10分でこの船は目的地である、海上都市第4セクターに到着します。」


 港への到着を知らせるアナウンスが響く中、一人の青年が眠そうな目をこすりながら甲板に出てくる。照り付ける日差しを浴びて思わず顔をしかめた青年は、額に浮かんだべたつく汗を首からかけたタオルで拭きとり呟いた。

 どうやら、彼は目的地を一目見ようと船上に出てきたようだ。


「やっと海上都市に着いたか…」


 青年は昨晩のことを思い出して溜息をつく。

 昨晩のフェリー船内での一泊はひどいものだった。元々、一番安い乗船券だったこともあり、雑魚寝部屋なのも仕方がないと青年も理解はしていた。しかし、理解していることと耐えられるかはまた別だ。隣で寝ていた中年男性のイビキは夜中にずっと爆音を鳴らし続け、彼の睡眠時間はしっかりと削られていた。その結果、彼は目的地に着く前にも関わらず、既に疲労困憊だった。


「はぁ、早く家に帰りたい。一週間は長すぎるだろ…」


 甲板には青年と同じように少しでも早く海上都市を見ようと考えていたのだろう。船内の全員が出てきたのかと思うほどの人がひしめき合っていた。青年の身長では目の前の人の上から覗き見ることも難しそうだ。


 青年も何とか海上都市を見ようとその場で飛んでみたり、人の隙間に体を通そうとしたりするがどれも上手くいかない。


「だめだ、諦めるか。どうせ、船の上からの景色なんてネットで既に見ているし。」


 青年は自分に言い聞かせるように呟くとそのまま船内に引っ込んでいってしまった。


 このなんとも情けない青年の名は佐藤太平という。

 大学受験を嫌い、実家の近所だった高専に進学。"普通"の高校とは違う高専という環境に期待をしていたが、気が付けば卒業を控える5年生になっていた。その間、恋愛をしたり、何かに本気で打ち込んで一喜一憂したりというような青春的なイベントはなく、波風のない普通以上に平坦な学生時代を過ごしていた。

 すでに就活も終え、就職先も決まり、今は特にするべきこともない暇を謳歌できる学生最後の夏休みだ。


 そんな夏休みのある日。

 だらだらとゲームやアニメ三昧で引きこもりのような自堕落な生活を過ごしている太平を見かねた彼の母親が太平に苦言を呈す。


「ちょっと、あんた。せっかく最後の夏休みなんだから、家でダラダラしてないで、買い物にでも行ってきてよ。」


 そう言った母親は、太平に二枚の紙きれを渡す。一枚は買うものが書かれたメモでもう一枚は、


「なにこれ?福引券?」


「そう、この間買い物したときにもらってきたのよ。確か、今日だったはずだから、買い物ついでに回してきなさい。」


「そもそも、買い物に行くなんてまだ了承してないけど。」


「うるさいわね。どうせ暇なんだからさっさと行ってきなさいよ。」


「へいへい、分かりましたよ。福引は気が向いたらね。」


「何よ、親に向かってその返事は。大体あんたはねぇ、来年には社会人になるのよ。もっとしっかりしなさいって、いっつも―――」


「分かったから、行ってくるよ。」


 これ以上、母親の小言を聞くのを嫌った太平は渋々といった様子でスーパーまで自転車を走らせた。


「えっーと、ジャガイモに人参に豚コマ、しめじと。今晩はカレーか?」


 スーパーで買い物を済ませた太平が帰ろうとする後ろから太平を呼ぶ声が聞こえてきた。


「お~い、もしかして太平じゃない?」


 そこにいたのは小柄な青年だった。太平も平均から見れば背は低い方だが、その青年はさらに頭半分くらい背が低かった。


「え?もしかしてミツルか?」


 その青年は、橘 ミツル。太平の小さいころからの幼馴染だった。


「お~、やっぱり太平だった。久しぶり!」


「あ、あぁ。久しぶりだな。どれくらいぶりだ?」


「僕の大学進学前に一度家族ぐるみで食事に行った時以来じゃないか?」


「そんなに前だったっけ?」


「そうだよ。その前だと中学時代だよ。高校が別になってからめっきり話さなくなったからね。ま、太平は高校じゃなくて高専だったけど。」


 実のところ、太平はミツルのことが苦手だった。

 現在、東大に行っていることからわかる通り、ミツルは勉強が非常に得意で小学生のころからテストは常に満点だった。だからと言ってガリ勉くんだったわけでもない。その小柄な体躯に似合わず、中学高校はバスケ部に所属しており、高校では全国大会でベスト8まで行ったらしい。まさに文武両道だ。当然、小さいころからクラスの人気者だった。

 一方、太平はというと、小さいころから常に親を含む周囲の人間から向かいの家に住んでいたミツルと比べられてきた。太平とて、決して学力も運動神経も平均から劣っていたわけではない。むしろ、学力は平均より少し上回っていたと思う。しかし、それもミツルと比べられると劣っている評価を受けていた。

 そして、太平は頑張ることをやめた。そうすれば、自分に言い訳することができた。他人と比べて自分が劣っているのは自分が本気を出していないからだ。そう思うことで自分の自尊心を守ってきたのだ。当然、頑張ることをやめた後、中学中盤には学力も平均以下に落ち、体力も衰えて休日は一歩も家からでない、小太りの半引きこもりになった。そうなってからでもミツルはよく太平を遊びに誘ってくれた。

 しかし、ミツルと話していると太平はどうしても自分の劣等感を意識してしまい、高専進学後にミツルを遠ざけたのも太平からだった。


「そういえば、そうだな。今は夏休みでこっちに帰ってきているのか?」


 自分は今、自然な笑顔ができているだろうか?そんなことを考えながらも太平はミツルと会話を続ける。


「そうそう。実はさ、別の大学に編入を考えているんだ。」


「編入?お前の通ってる大学って東大だろ? そこから編入っていうと、海外留学でもするのか?」


「いやぁ~、海外留学じゃないんだけど、まぁ、今はヒミツかな?もし、落ちちゃったら恥ずかしいし。」


「なんだよそれ、教えてくれてもいいのによ。」


「まぁまぁ。そういえば、それって福引券?」


 話をそらそうとしたのか。ミツルが指摘したのは、太平が買い物用のメモと重ねて持っていた福引券だった。


「あぁ、これ?母さんについでに回して来いって渡されたんだけど、完全に忘れてたな。」


「じゃあ、今から回しに行こうよ。」


「そうだな、せっかくだし回してからかえるか。そういえば、ミツルは時間は大丈夫なのか?」


「え?あ!まずい、次の予定があるんだった!本当はもっと太平と話したかったんだけど、ごめん。じゃあ、また!」


「おう、またな。」


 角を曲がって見えなくなるまで何度も振り向いては、手を振ってくるミツルに手を振り返す。


「はぁ、やっと行ったか。にしても、中学時代から変わらないな、あいつ。福引回して帰るか。」


 そう呟くと、太平は福引を回すための列に並ぶのだった。



 ガラン ガラン ガラン

 法被を着た店員が手に持った鐘を鳴らしながら大きな声で叫ぶ。


「おめでとうございます!一等、一等が出ました!」


 店員の目の前では抽選機のハンドルに手をかけたまま呆然としている太平が景品欄に目を向ける。しかし、太平が一等の文字を見つけるより店員の言葉の方が早かった。


「一等はなんと!あの!海上都市への一人旅チケットです!」


「こういう福引の景品って夫婦用にペアチケットじゃないのか?」


 まだ、現実味の湧いていない太平はよくわからない疑問を口にした。

 こうして、太平は西太平洋上のフェリーに乗ることになったのだ。

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