第三章

 小日向が天井の片隅にある通気口をあまりにもずっと見つめ続けていたので、塩月が気になって話しかけてきた。


「大丈夫?」


 小日向は慌てて意識を目の前の人物に集中させた。塩月は小日向の目を真正面から見つめていた。その視線に茶化すようなところはまったくなく、むしろ完全に純粋な好奇の目なのだが、見つめられている側はどぎまぎとしてしまう。


「あ、あの、はい。でも、容疑者を取り逃がしてしまったのは本当に申し訳ありませんでした」


 小日向は頭を下げた。塩月は視線を落ち着けると、大したことではないといった口調で言った。


「一人じゃ危険だったんだから仕方ない。犯人の使っていた解体場は見つけられたから、成果もなかったわけではないよ」


 塩月がさらりと放った言葉に小日向は胸が大いに胸を撫でおろした。とともに、小日向の追跡が失敗だったのは明らかなのにも関わらず、塩月が自分のことまで心配してくれたことが嬉しくもあった。感情がないと言われることの多い塩月だが、そんなことはないのだ。


 塩月のふいの優しさが垣間見えて、小日向は妙に感情的になってしまいそうだったが、気を取り直した。女性警官が仕事中に感情的になることは許されない。周りの男たちから馬鹿にされてしまうのがオチなのだから。


 男の警官だったら死体を見て吐こうが何をしようが「仕方ない奴だ」と冗談交じりに言われるだけだが、女の警官が同じ状態になったら「これだから女警官は使い物にならない」と後ろ指を指される。そういう世界なのだ。


 小日向は話題を元に戻した。


「容疑者はあの通気口から逃げ出したんですかね?」


 右手の人差し指は天井の片隅を指していた。塩月は腕を組んで考えながら答えた。


「表と裏の金属扉は閂まで掛かっていたから外から閉めるのは難しそうだよね。だから、確かに通気口から逃げた可能性の方が高い。でも、通気口のある場所は高すぎて通ることができない。部屋の中には脚立も何もないから無理そうだ。確かに疑問は残るな」


「通気口は手で押せば開けられるんですかね。それともネジとかで留められているタイプなんでしょうか」


「鑑識に訊いてみるか」


 塩月はてきぱきと鑑識に指示を出した。鑑識課の職員は大きな脚立を外から持ち込んでくると、バラバラになった遺体の合間を縫って何とか通気口の下に置いた。長身の男性職員が脚立を登るとようやく天井に手が届くようになった。通気口を手で強く押し上げると屋上に向かって開いた。


 その作業を見ていた塩月が言った。


「特に固定はされていないようだ。脚立さえあれば蓋を開けて屋上に出ることができる。容疑者は外に出てからまた蓋を閉めたのだろう。だが、問題なのは肝心の脚立がないという点だ」


 塩月の額には小さな皺が寄っている。小日向はある解決策を思いついた。


「脚立は元々冷凍室の中にあったんじゃないですかね。それを通気口から出た後に持ち上げて逃げるときに持って行ったとか」


「そんな面倒なことをする意味はないんじゃないか。これほど大型の脚立だとかなり重いから、上に持ち上げるのは簡単じゃない。しかも、屋上を人間一人が這って移動するならともかく、大きな脚立を持って移動するとなると目立ってしまう。容疑者としても目撃される確率が低い方が良いはずだ」


「じゃあ縄梯子だったらどうでしょう。端っこにフックが付いていて、蓋の格子に引っ掛けたとか」


「蓋に引っ掛けたら蓋を開けることができない」


「じゃあ、蓋だけは事前に開けておいたんです。長い棒とかを使って押し開けておいて、開いたところに縄梯子を引っかけた。これなら良いんじゃないですか」


「そんな長い棒はこの部屋の中にはないし、もし持ち出したとしても、脚立のときと同じようになぜ持ち出したのかがわからない。そもそも蓋は固く閉まっているようだから、棒で叩いたくらいでは開かなさそうだ」


 立て続けに考えが否定されて、小日向のアイデアは出尽くしてしまった。すべてもっともな理由で否定されてしまったので、もう降参するしかなかった。


 すると、塩月は大きく首を回し始めた。何かを集中して考えるときにいつもする仕草である。肩が凝っている人がよくする行動に似ているが、塩月の場合は脳の回転に合わせて首を高速回転させるので、むしろ肩を壊しそうである。


 十周ほど首を回してから何かを思いついたのか、塩月は跪いて床に転がっていた腕の断片を見つめた。ポケットから手袋を取り出すと、今度は遺体を突つき出した。


 小日向には奇行に次ぐ奇行にしか見えなかったが、しばらくして塩月はすっくと立ちあがるとあっさりと告げた。


「わかった」

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