第十羽 飛び立つことはできないから、

 小鳥の囀りで目覚め、微睡んだ眼を擦りながら、二枚重ねの食パンを頬張ってる姉と食卓を囲んで、淡々と過ぎゆく時の流れを惜しむように通学路へと忙しなく駆け出していき、正門にまで一人で着く。


 周囲の喧騒賑わせる生徒たちを隈なく見渡して、天の輪が仄かに色褪せた女子の元へと歩み寄った。


 その隣には、昨日までの張り詰めた頬を綻ばせ、矢継ぎ早に乱雑に言葉を投げているであろう相川の姿があった。


 開いた口が塞がる事なく、嬉々として話すように、水瀬は心なしか困り顔で苦笑を浮かべていた。


「おはよう」


 そんな二人の間に、背後から割って入った。


 一人は乳飲子が母の帰宅を喜ぶかのようにホッと胸を撫で下ろしながら、緩やかに振り返っていき、もう一方はその姿に静かに安堵して、口を閉じた。


「あぁ、遅えぞ」


「おはよう、えぇと……ごめんなさい。もしかしたら、まだ名前を聞いてなかったかも」


「あぁ、そうだった」


「おいおい。マジかよ」


「あ……」


 突き刺すような鋭い視線が首筋を襲った。


 その眼差しの先に徐に一瞥すれば、それは以前の暴君集団の一人の女子であった。


「どうした?」


「いや、別に……」


 逆恨みでもされたのだろうか、将又俺以外の人間に向けたものなのだろうか。


 朦朧とした真相は迷宮入りのまま、俺たちはそれぞれの教室へと足を運んでいった。


 皆の響動めきが教室に収束しつつある頃、

俺は廊下のど真ん中で逡巡し、佇んでいた。


 どうすっかなぁ。


「……ん?」


 そんな最中、身嗜みを整えられぬ者たちが、不思議と廊下を横に塞いで進んできた。


 わざわざ壁の端に身を寄せると、当たり屋さながらに矮躯な体を傾げて、寄せてきた。


「チッ、痛ぇなぁ」


 赤錆を帯びた刃こぼれの酷いナイフを振り回すかのように、汚濁なる眼を恥ずかしげもなく周囲に見せびらかし、視界から消えた。


「……?」


 その一群の中の一人の握りしめた指の隙間から、炯々と輝く金属の何かを垣間見せた。


 念のため、相川にも相談しておこうかな。


 水瀬と同じ教室に乗り込んでいく不逞の輩を尻目に、相川の元に歩みを進めていった。


 教室手前で能天気な顔の相川を手招きし、双肩に担っていた周囲の視線や喧騒やらを、頭を深々と下げながら下ろし、問い掛ける。


「どうした?」


「昨日の諸々を大野先生に伝えに行くけど、お前も来るか?」


「あぁ、分かった。ちょっと待っててくれ」


 颯と背中を翻し、言葉を投げかけた。


「悪いけど、用事できたわ! また後でな」


 教室中に明らかに澱んだ空気が漂い始め、自然と猜疑心を含んだ視線が集まっていく。


 それに耳さえも傾ける事なく、早々に職員室への大きな一歩を、共に踏み出していた。


「もっと早く言えよな」


「一つのことに集中すると、つい他の問題を忘れちゃうんだよな」


「まぁ、分かるけどよ」


「偉そうな相川君を見習って、次からは僕も予定表でも作っておくよ」


「ったく、口が減らないなぁ……お前って」


 ふと窓の外に目を向ければ、清々しい程に澄んだ晴天に鈍色模様の雲が棚引いていた。


「……一雨、来そうだな」


「あぁ、そうだな」


 今日も今日とて、二人仲良く職員室に淡々とした足取りで、特に言葉を交わす事なく、あっという間に門前にまで着いてしまった。


「失礼します」


 相も変わらず、コーヒー臭を漂わせ、妙に澱んだ空気を突き抜けていき、整理整頓が行き届いた大野先生の机へと辿り着いたが……。


「居ないな」


「あぁ、みたいだな」


「あぁ、すみません。大野先生って」


 相川は偶然、扉の前の一人の教師に、慌ただしく声を掛けるとともに掌を差し伸べた。


「あぁ、相川か。どうしたんだ?」


 教室の顰め面がふわりと突風が吹き荒れたかのように、刹那に跡形もなく消え去った。


 そんな中、俺は頭の片隅に留まった、妙に嫌な感覚を払拭せんと周囲を見回していた。


 ぐるぐると目が回るほどに、幾度となく。


 そして、その違和感に気付く。


 視界の端に捉えていた、教員室に立て掛けてられた看板に不意に目を向ける。


 詰まりが取れたような爽快感と、冷気が服の内側から吹き込むが如く、悪寒が走った。


 それは鍵掛け用の立板であった。


 そして、そこには……。


「ん? どうした?」


「屋上の鍵が……無い」


「あ?まぁ多分、誰かが返し忘れたんだろ」


 ……。


 あの時にちゃんと全てを片付けていれば、瑣末なことと目を背けずにさえいれば、俺はこんな風に、こんな真似せずに済んだのに。


 その跡を相川が追っていく。


「どうしたんだよ‼︎」


「お前は屋上だ!」


「はぁ⁉︎」


「いいから、行けよ!」


「何で……」


 ただ限りなく力を込めた眼差しを向ける。


 その所作に静かに踵を廻らせ、階段への道のりに駆け出していった。


「電話、繋いどけ‼︎」


「あぁ‼︎」


 スマホを片手に窓から飛び出て、壁際の空に只管に目を向けながら、進んでいく。


「で、どうすればいい⁉︎」


「屋上に人がいるかの確認だけでいいんだ!居なければ俺の勘違い。誰かが居たら……」


「考えたくねぇなぁ」


「壁に遮られてるから……注ぃ」


 静寂。


 己の荒々しい息遣いも、心臓が早鐘を打ってうるさく全身に響き渡るのも、相川の声さえも、ほんの一瞬、ほんの一瞬だけ。


 僅か数秒だけ、時が止まったかのように、その見覚えのある影が柵の先に立ち尽くし、まるで人形のような面差しで身を傾ぐ姿に、目を釘付けにしてしまった。


「……は?」


 その落下地点へ、言葉を発するとともに、大地を蹴り上げて、低空に飛んだ。


 そして、それぞれの体が触れ合う。いや…ぶつかり合った。


 抱きしめるには余りにも早すぎて、受け止め切るにはあまりにも己が貧弱すぎた。


 まるで時が止まったかのように、時間が緩やかに進んでいく。


 視界の端にチラつく人影に、一瞥する余裕さえもあった。


 ……誰だ?


 幾人かの女子たちが群がり、スマホを眼前に翳し、薄っぺらな頬でほくそ笑んでいた。


 淡々と、けれど、着実に堕ちていく。


 頭を庇うことも、受け身を取る体勢を取る間もなく、体は仰け反っていく。


 でも、脳裏によぎる言葉は……良かった。


 彼女が落ちなくて良かった。


 ただ、それだけだった。


 それに、どうしてか、もう水瀬の頭には、天使の輪が綺麗さっぱり無くなっていた。


 あぁ、俺って案外、幸せなのかもな。


 鈍い音が地面に響き渡るとともに、緩やかに視界が暗闇で覆い尽くされていく。


 けれど、音が、音だけが、悲鳴にも等しい甲高い誰かの叫び声が、鮮明に聞こえていた。


 そして、まるで眠りに落ちるかのように、誕生日に立てた蝋燭の火が消えるかのように、フッと…パッと、視界は闇に途絶えた。

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