第二羽 本音

「と、隣いいかな?」


 そっと声を掛ければ、彼女は慌ただしく振り返る。


 一瞬、仔猫のように怯え、震わせた目を大きく見開いて、頬を強張らせていたけれど、俺の顔を少しばかり見つめると、ホッと胸を撫で下ろして安堵し、小さく呟いた。


「えぇ、どうぞ」


 ふわふわとした毛布ような暖かいのに、どこか消え入りそうに儚い声色をしている。


 俺は、彼女から少し離れた、ごつごつとした冷然たる地べたに、腰を下ろした。


 静寂。


 彼女との一席分の妙な空白が、会話を切り出すのに自然と謎の間を生み出し、重苦しき沈黙が漂ってしまっていた。


 そんな最中にも、頻りに天の輪に目を泳がせた。


 まだ薄い。


 透明なカーテンのような色合いで、輪っか越しでも、かろうじて先が見えている。


 そして、悶々とする俺よりも僅かに早く、先に沈黙を破ったのは彼女であった。


「どうして、ここに?」


 喉から手が出るほどの不意な質問が飛ぶ。


「ちょっと! 寄り道を、ね」


 あまりの早さと脈絡の無さに、俺は思わず露骨なまでにあっさりと、大暴投たる答えを、食い気味に投げ付けてしまった。


「で、君は……」


 無闇に踏み入ってはいけない。

 矢鱈に心を探ってはいけない。

 慎重に、丁寧に、ゆっくりと。


 そんな思念が瞬く間に脳裏を駆け抜けていき、軽率に放った一言を、流れるように喉の奥へとグッと飲み込ませた。


 再び、俺たちの間に暗雲が立ち込める。


「あのさ……」


 黄昏色の空に大雲が揺蕩っている。

 もう時期、雨が降りそうだ。


「何?」


「今日は晴れていたね」


「えぇ、そうね」


「あまり浮かない顔だけど……もしかして、雨の方が好き?」


「好き。雨音が耳を包み込んでくれるの……嫌な雑音も、人の声も、全部掻き消して…」


 嬉々として饒舌に語り始めた。


 先程までの暗がりの彼女は跡形もなく消え去り、純粋無垢な微笑みを浮かべる姿に、俺までもがつい、頬を緩ませてしまった。


 それなのに、どうしてかそれが胸をギュッと締め付けられてしまう。


 まるで桜の花吹雪のように、散ることに、一切の惜しみが無いようにさえ見えて……。


「そっか」


 漠然とした恐怖が襲った。


「貴方は?」


「え?」


「雨は好き?」


 視界を遮るほどの大粒の雨が降り頻る日は、陰鬱とした靄が著しく減っていた。


 それはきっと、真っ黒な傘を差して、下向きに歩いているからに他ならないだろう。


「俺も好きだよ。特に土砂降りがね」


「そっか。じゃあ一緒だね」


「そう、だね」


 それなのに、彼女と俺は蜃気楼のように遥かに遠く、差し伸べる手が届きそうにない。


 いや、きっと違う。


 怖いんだ。


 救いと思った掌が、彼女の背中を突き飛ばしてしまうんじゃないかと思えてならない。


「もしかして、私が此処にいるって知ってた?」


 けれど、言わなければ、始まらない。


 終わりも始まりも、何もかも。


「そうかもしれない。変な話だけど、俺には変なものが見えるんだ」


「変なもの?」


「うん」


 黙れ。


「人に関わる大切なものでさ、良くないものなんだけど、もしかしたらその人にとって……」


 口を噤め。


「その人にとって……」


「ん?」


 脇腹に鋭い痛みが走る。


 徐に古傷に手を添えながら、途絶えた言葉の続きを口走らんとする。


 だが、


「い……」


 俄かに耐え難い激痛へと変貌していく。


「いいや、ごめん。何でもない」


 災いの元となりし口を緩慢に閉ざせば、その痛みはスッと嘘のように引いていった。


 不思議そうに小首を傾げながらも、次第に喧騒が粛々となっていく地へと目を向けた。


「大分、陽も落ちてきたね」


「えぇ」


「まだ、帰らないの?」


「もう少しだけ、ここにいたいの」


 彼女は床に張り付くかの如く、その場から一切、離れようとはしなかった。


 まるで、此処が居場所かのように。


「俺は……」


 邪魔なだけだよ。


 その一言が脳裏をよぎった瞬間、自然と体を立ち上がらせていた。


「帰るんだ。またね」


「っ。また、明日」


 自らでも想像に難くないほどの引き攣った歪な笑みを浮かべ、彼女を背にしていった。


 閑静な教室へと淡々と歩みを進めていく。


 眼下に俯いて、稚児のような小さな歩幅を重ねてゆく廊下は、静寂に包まれていた。


 そろそろ教師の見回りが始まる頃だろう。


 彼女は今、どうしているのだろうか。


 そんな時、視界に映り込む。


 一つの上履き。


「ん?」


 緩やかに顔を上げれば……。


「あっ」


「あ!」


 因果なものか、旧友の知人と出会した。


 開口邂逅一番に見せたのは、煙たさに覆われた歪でニヒルな笑みを浮かべんとしたが、郷愁に駆られたかのように、その表情を一瞬にして崩し去っていく様だった。


「傷の具合はもう良いのか?」


 嫌味口には遥かに遠く、憂慮らしさもないそんな一言に、俺は思わず笑ってしまった。


「あぁ、お陰様で大分良くなったよ」


 たまに刺すような鋭い痛みが走ることはあるけれど、現状に比べてしまえば、瑣末な事柄に過ぎないだろう。


 無論、彼の負った傷も……。


「そうか……」


「サッカー部は大変だな」


 そうだった。


「そうでもねえよ、もう帰るんだからな。

……お前も今から帰るのか?」


 俺の脇腹に、チラチラと幾度となく目を泳がせる。


 あぁ、思い出した。


 次第に会釈さえも久しい仲になっていったのは、彼の言動に嫌気が差していたからだ。


 気に掛けているようで、根底に全く心が篭っていない想いが、懺悔のようでならなくて……。


「じゃあな」


 それも、誰かのためじゃない。


「あぁ。じゃあな」


 自分を嫌いにならないために、必死に必死にあのことから目を背けて……。


 お前も、俺も。


 また……。


 すれ違う。


 相川を尻目に大きく踏み出した一歩を、踵を返すようにして振り返った。


「なぁ!」


 己の想いとは乖離して、無意識に。


「……。んだよ?」


 互いの視線がぶつかり合う。


「あ」


「あ?」


 ゆっくりと一呼吸置いて、口に出す。


「この学校って、いじめとか無いよな?」


「……は?」


 これは、俺とお前の物語かもしれない。

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