第一羽 天使の行方
己の在り方すら理解できぬ幼き頃、ふと、大空に疑問を抱いたことがあった。
全身からとめどなく汗が流れ出て、ふわふわと綿飴ような白雲が揺蕩う真昼時。
貪欲に渇きを満たさんとする乾いた大地に無数の汗が滴り落ちていき、触れた瞬間から、忽ちその潤沢さを失っていく。
空と天と地。
父が俺を抱きしめて、啜り泣きながら云った場所は、どの境目にあるのだろうか。
喉がカラカラになり、前髪の先端から指先に至るまで、ドライヤーにあたっているかのような熱風と暑さを帯びていた。
でも、そんなのは些末な事柄に過ぎないと言わんばかりに、ただ茫然と立ち尽くし、その際限なく続く大空を只管に見上げていた。
そんなどうでもいいことばかりが、頭の片隅に根深く留まっている。
大切な記憶はすぐに忘れてしまうのに……。
もう陽が落ち始め、皆が部活に勤しむ頃、俺は淡々と屋上への階段を登っていた。
仄暗さと静寂極まれり空間が、漠然とした虚無感を頻りに襲わせ、黒い靄のようのような陰鬱としたものが体を覆い尽くしていく。
その靄が自然と俺を回顧へと誘った。
昔から、あまり運には恵まれていなかった。
衣食住は常に供給され、父母は仲睦まじく暴力を振るような人たちでは無かったけれど、祖父祖母共に長寿では無かったし、母の記憶もアルバムに飾られるような断片的なものばかりで、声さえもまともに覚えてない。
それに比べて、自らの健康を疎ましく思えるほどに無病息災の名に相応しく、この方一度も死に際に立たされる病に侵されたことがない。
姉も同様ではあったけど、華奢という言葉が似合うくらいには体が弱々しかった。
次第に燦々とした光明の兆しが垣間見え、緩やかで小さな一歩が、次第に大きなものとなっていく。
けれど、そんな最中にも、嫌な思い出ばかりが、幾度となく脳裏をよぎっていく。
昔、いつまでも眠っている母さんの姿が、とても怖くて、寂しくて、俺を抱き抱える父に問いをぶつけてしまった。
それは、覚めることのない長きに渡る眠りについた者たちは、何処へ行くのかと。
「何でみんな行っちゃうの」
父は啜り泣いて、呻くようにこう云った。
「ママはね、天国に行ったんだ。暖かくてずーっと楽しい場所にね」
「どうして……。何で、僕たちを置いていくの?」
齡五つの俺には、遠く理解の及ばない話だった。まぁ、今でも全ては解っていないけれど……。
「ハァ……」
魂が抜け出してしまいそうな、深いため息を零しながらも、淡々と進んでゆく。
そして……。
淡い夢を抱いて駆け上っていく者たちを、容赦なく粉々に打ち砕き、何人たりとも通さない堅牢無比な扉に、関所へと辿り着いた。
徐にそのドアノブに手を掛ければ……。
「えっ……?」
一部の限られた人間にしか通れぬ筈の道なのに、今日はなぜだか、鍵が開いていた。
不用心な教師の不注意か?
いやむしろ、そうであってほしいと願い、音を忍ばせて、キイキイと小煩く軋む扉をそっと開け、その隙間から周囲を見回した。
灰色の地面と金網の柵に囲まれた屋上に、人影などは見当たらなかった。
単なる思い過ごしだろうか。
なのに、不思議と俺は歩み出していた。
いない。絶対に何処にも居るはずがない。
仮に居たとしても、淡い恋だとか、そんなものを夢見る者に違いないだろう。
部活動の怒号のぶつかり合いが響く中で、地面を見下ろす一人の少女を見つけた。
入り口付近の建物で自らの痩躯を隠すように、その場に膝を抱えて座り込み、茫然と静かに何かを見つめている。
それに気取られぬようにと、慎重に忍び寄っていく。
多くの者の終わりに立ち会っていても、結局することは変わらない。
ただ無様に泣き伏して、憂鬱とした日々を送り、時と共に風化し、また繰り返す。
けれど、たった一人の最期の言葉が、俺を、俺の想いを大きく覆した。
呻くように囁くように、近くで耳を欹てていた俺以外、他の誰にも届かぬ一言だった。
あれからだろうか。
俺は、俺がいつしか天の輪が見えるようになっていたのは……。
終わりが近付く者たちにだけ、それは生まれ、やがては色濃く鮮明に変化していく。
人はそれを死と呼ぶのかもしれない。
けれど、俺は違う。少しばかり違ったんだ。
俺は天の輪を頭上に浮かせ、それが色濃く鮮明に見える者たちを……。
彼女のような人たちを、総じて天使と呼んだ。
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