目もくらむほど
生成り色のパラソルの下は程よく薄暗いけれど、そこから見える景色はばかみたいに明るい。
みどりいろのガラスみたいにきらきら透けた海のずっと向こうに、ちぎれた綿雲がふらふらと浮かんでいる。輝く日光が空と砂浜とそのあいだの空気とをいっぱいに光らせていて、走っていく子どもや追いかける大人の水着の色が真っ黒く目に残る。フラッシュを焚かれたような明るい痛みに、ザカリーは眉をしかめてサングラスをかけなおした。
「いかにもってお天気だねえ」
ひょいと覗き込んできたエイデンは淡いピンクのハート型のサングラスをかけていて、その程度のふざけた遮光性でへいきな顔をしていられるのは、かれの瞳孔が横長で、丸い瞳孔とくらべるとあんまり光を吸収しないから、くわえて、そういう性格だから。エイデンは顔をくしゃくしゃにして笑いながら、仏頂面のザカリーの眉間に人差し指を突っ込んだ。
「いて」
「嫌じゃなかったらあとで海入ろうね! せっかくこれ借りたし。これすごいよねえ、車輪がぽいんぽいん弾むんだもんな」
「な」
入り口のところでレンタルしてそのまま乗ってきた水陸両用の車椅子は、ベーグルサンドみたいなぶあついバルーンの車輪がついていて、ひじかけのところもバルーンになっている。しかもその両方が真っ黄色で、背もたれのところにはいかにもマリン風みたいな明るい青と白の縦縞があしらわれていた。というわけで、乗っているザカリーは若干恥ずかしい。今更ではあるんだけれど。しかし、このまま乗っていれば安全に浅瀬にも突っ込んでいけるというから、純粋にすごいとは思う。自分がそこに乗っかってはしゃぎたいかどうかとは別として。ちなみにエイデンはスタッフさんが車椅子を出してきた瞬間から既にはしゃいでいて、あらゆるパーツを矯めつ眇めつ観察していた。
「できたら、おまえも乗せてやりたかったんだけど。好きだろこういうの」
黒いサングラスの奥からまじめな目で見上げてくるザカリーを見下ろして、エイデンは優しくかれの頬っぺたを撫でた。高い頬骨を指先でたどるのが好きで、癖のように触ってしまう。
「そんなのいいよ、また乗り降りするのも大変だろ。自分の脚で歩けるんだし、わざわざきみを引きずり下ろしてまで乗らんよ、うふふ」
それに、実際に自分が乗らなくても、仕組みとかつくりとか、何よりきみが乗ってるとこを見るだけで面白いから! とエイデンは大声で言い、それからいきなり踵を返して遠くを見つめた。
「……どうした」
エイデンはまっすぐに腕を伸ばし、遠くを指さして「バナナチップス売ってる」と説明した。
「あー」
「えー! モフォンゴも売ってるじゃん! エンパナーダも! 種類が書いてある……お肉入りだけじゃなくてブラックビーンズとかのもあるってさ、よっしゃ」
「おまえ、目いいな」
エイデンはうれしそうな笑顔で振り返った。歯がいつもより白く、歯と歯の隙間はいつもより黒く見える。パラソルの日陰で暗く見えるせいなのか、もうすでに日焼けしているんじゃないかとザカリーは思った。
「買ってこようか。ありったけ」
エイデンが湾曲したビーチのはるか遠く先まで意気揚々と歩いていくのをやるせなく見届けてから──ちょっと離れたところに屋台がある程度だと思っていたらそうではなかったらしく、エイデンの後ろ姿がどんどん小さくなっていって、ザカリーは飲み物も持たせずに行かせたことを後悔した──軽く目をつぶった。日陰にいても気温の高さは伝わってきて、じりじりとまぶたが熱い。
……ゆっくりと、大きく、豊かに揺れているみどりいろの海の音のうえに、しゃらしゃらと軽い泡の音が乗っている。子どものわめき声や若い人たちのしゃべり声が、アクセントみたいに刺さる。風はすました音を立てながらほのかに吹いていて、ぎしぎしと砂を踏む熱い音もする。遠い音、近い音。
こうしていくつもの音の中で静かに休んでいたザカリーは、いきなり近距離から、フゥン……みたいな知らない人間のうなり声がしたので飛び上がりそうになった。声のした左側に首を曲げると、小さな子どもが下を向き、上半身を揺らしながら車椅子のひじかけをつっついている。ブレイズの先端に連なる透明のビーズが互いにぶつかって軽い音を立てた(どうしてさっきまで気づかなかったんだろう、音を聞いていたのに)。オレンジ色のラッシュガードに明るい褐色の肌。
ほどなくして子どもはのろのろ顔を上げ、ぱっちりした黒い目をザカリーに向けた。ザカリーはまだ状況の処理に時間がかかっている。喉ががっちり閉まった状態のまま、子どもを見下ろしていた。
子どものほうも、無言のままじっとザカリーを見上げた。
「……あの」
年長者の責務をまっとうし、ザカリーが先に重い口を開いた。「……どうかしたのかな」
子どもは答えず、またさっとうつむき、黄色いひじかけを指で押しはじめる。しゃべらない子か、とザカリーは思う。バルーンだから弾力があるのが気になるのだろうか。そもそも車椅子自体に見慣れていないのか。どっちにせよわからない。無口な人間と無口な人間が集まったところで、都合よく心が通じ合ったりはしない。すくなくともザカリーの見解では、生まれるのは謎と沈黙である。
……この子を探している親とかきょうだいとかはいないだろうかと目をすがめてみたが、きらきら光るビーチではなにもかもが遠く、みんな楽しそうで、これといって目に留まる人がいない。
「……保護者の人は近くにいるか? 親とか、きょうだいとか、親戚とか、友達とか、先生とか……ひとりで来たわけじゃないんだろ」
答えは期待せずに訊いてみた。子どもはザカリーの顔をじっと見上げて、2回まばたきをし、またからだを揺らしながら車椅子をいじりはじめた。ちょうど夜に台所からきこえてくる冷蔵庫のモーター音みたいな感じで、ふぅん、ふぅん、というハミングが漏れている。
困った。こちらには害はない──ものすごくぎこちなくて困ることを別とすれば──けれどこの子の身の安全が心配だ。こんな人だらけのビーチで迷子になれば、保護者が探すにも苦労するだろう。しかも発話が少ない子だ。今頃泡食っててんで見当はずれの方面を探し回っているかもしれない。
ザカリーは眉間と額をちり紙みたいにくちゃくちゃにした挙句、そっと訊ねた。
「……どっちの方向から来たか、指さして教えてくれるか?」
子どもはひじかけや車輪をいじくっているばかりだ。3回ほど繰り返し言ってみたが変わらなかった。もうどうしたらいいかわからない。暇なときに子どもの支援の勉強でもしてればよかった。ザカリーは震えるため息をつく。俺ひとりでこの子をスタッフのところに連れていこうにも、この子がひとりでどこかに走っていきでもしたらすぐには止められないし、……エイデン。エイデンが帰ってきてからにしよう。万物はエイデンが帰ってきてからのほうがうまくいく。そうしよう。エイデンがいないよりいたほうがずっといい。たぶん。
そういうわけで、ザカリーは焦れてエイデンを待ち……あいつ全然帰ってこねえな、売り子の人とおしゃべりでもしてるに違いない……その間子どもを凝視しつづけた。子どもは延々同じようなことをしていたが、ついに興味が車椅子だけでなくその利用者にもおよんだらしく、ザカリーの脛にてのひらをぺたりと当てた。
ザカリーは「ひっ」と音を立てた。
子どもはまじめな顔をして、ザカリーの顔と脛を交互に眺める。ザカリーはしばらく凍りついた後、急にびくっと解凍し、訊かれてもいないのにしゃべりだした。「……脚の関節、わかるかな、膝とか……膝とかが悪くなってて、あんまり歩けないから、これに……いや、いつもはこれじゃなくてもっとふつうの、ふつうっつってもわからんか、もっと地味な感じの……車椅子に、乗ってて、でも、平気だ。大丈夫」
子どもがちょっと目を丸くしたような気がした。気のせいかもしれない。
「それで、この車椅子は……このまま、海にも入れる」
子どもはしばらくザカリーの顔をじっと見ていたが、やがて濡れた犬のように顔を左右に激しく振りはじめた。透明のビーズがはじけるように揺れて、ちゃりちゃりちゃりとかろやかな音を立てた。
ザカリーは呆然と光の残像を見つめていた。
物語を一気に進めるが、結論から述べると、万事なんとかなったのである。
おどろくべきことに、エイデンが両腕にエンパナーダの包みを8つ、モフォンゴの紙皿を2枚、バナナチップスの入った特大のビニール袋2つ、どろどろに溶けたアイスクリームのカップを3つ抱えてよろよろと戻ってきたのとまったく同時に、その反対の方向から、子どもの保護者ふたりがダッシュでパラソルの下に突っ込んできたのだった。ビキニを着た、年若い黒人のふたりで、ザカリーが慌ててあれこれ説明するまでもなく状況を察したのか、子どもを車椅子から引き離して抱き寄せた。
くちぐちに謝ったり礼を言ったりしている親ふたりと、謝らなくていいし困っていないと5回ほど繰り返すザカリーと、状況を理解してにやにやしはじめたエイデンとのあいだで子どもは砂のきらめきや車椅子の車輪を見つめ、やがてエイデンが口を開いた。
「この子、アイスクリームって苦手ですか? アレルギーとかはどうですか? バニラと、マンゴーと、ベリーがあるんですけど」
親ふたりがくちぐちにないと言い、エイデンは子どもの前にしゃがみこんで、にっこりと笑った。子どもはピンクのハートにふちどられたエイデンの大きな目をじっと見つめた。
「きみの好きなやつひとつ、ほしかったら取って食べていいよ。ほしくなかったら取らなくてもいいからね」
子どもは鮮やかなオレンジ色のマンゴー味を選んだ。ラッシュガードに似た色だ。
やがて、親に手を繋がれて海へ走っていく子の後ろ姿を見送り、エイデンはにまにましてザカリーの脇腹をこづいた。意味はよくわからなかったが、ザカリーもエイデンの脇腹をこづいておいた。
それにしても、なぜふたりでいるのにアイスクリームを奇数個買ってきたんだろうと思ったが、なるほど、こういうふうに偶然がうまくはたらくこともあるのだ。やっぱりエイデンはすごい。エイデンがいたほうがうまくいく、とザカリーは思いながら、よたよた走るオレンジ色の後ろ姿を眺めた。
あの子に幸福がありますように、と口の中でつぶやいた。
ここで物語の速度を戻す。けれど同時に、場面は少し飛ぶ。
ふたりは潮風に煽られながらどろどろのアイスクリーム2種類、バニラとベリーを分けっこして、それぞれの顎をべたべたにした。それからスパイシーなブラックビーンズのエンパナーダも全部食べたし、もちもちしたモフォンゴもスプーンで掬って食べた。バナナチップスは1袋を持ち帰って家でおやつに食べることにし、べつの1袋はここで少しずつ平らげることに決めた。運動部の高校生みたいな食べっぷりで、自分たちでもちょっとびっくりしたぐらいだった。
「モフォンゴさあ、むかしアレハンドロがつくってくれたことあったよな」
ザカリーの長い腕に丁寧に日焼け止めを塗りながら、エイデンはうっとりと言う。「あの頃はまだお肉もちょくちょく食べてたから、豚肉入れてつくってもらったのを食べたね」
「うまかったな」
「おいしかったあ」
「……アレハンドロ、元気かな」
「え? 元気元気! ちょうどこないだ、2週間前ぐらいかな? 写真載せてたよ、いまミアと畑ででっかいシソ育ててるみたい」
「……シソ」
自分がSNSをやらないからあまり知らないだけで、なつかしむまでもなくエイデンとは結構日常的にやりとりをしていたらしい。ザカリーは微妙な気持ちになったが、とくに投稿を見たいとも感じず、元気でいるならよかったと思った。
「さいきんよく朝鮮料理つくるから、それでシソが要るらしい」
エイデンは微笑みながら、肘のまわりの白斑に注意深く日焼け止めを塗りこんだ。うっかり日焼け止めを塗るのを忘れて日なたに出ると、見る間に赤くなってかわいそうだからだ。ザカリーは自分で塗るからいいと言うけれど、だいたいいつもエイデンが塗っている。自分にできることはさせてほしいし、ぺたぺたした肌にクリームを塗りひろげるのがなんとなく楽しくて好きだった。
「ミアも、元気なんだな」
「うんうん。キムチ漬けるのにはまってるらしくて……ムルキムチ? っていうのをこないだ作ってた。ふつうのキムチより熟成に時間かかんないんだってさ……ああっ!!!」
エイデンが急に大声を上げたのでザカリーはびくっとした。今日はびくっとしてばかりいる。
「何」
「ここハート型じゃん! すげえかわいい!!」
エイデンが人差し指で猛々しく指し示したのは、二の腕に広がった白斑の端っこで、……いわれてみれば、有機的なもようが小さなハートにも似た形をしている気がする。
「……あー……ああ、……まあ……」
「かわいい! ぜんぜん気づかなかった、たぶんさいきんこの形になってきたんだよね? 教えてくれたらよかったのに!」
エイデンは目をきらきらさせているが、どういうタイミングで教えろというのか。朝起きてきて突然「俺の腕を見ろ」と言えばいいのか。そもそも自分の白斑をハート型か否かという観点から見たことがない。色々と思うところはあったが、わざわざしゃべるほどでもなかったので黙っている。
「きみはからだにこんなにかわいいハートを飼ってたんだねえ。僕のサングラスとおそろいだね」
エイデンは遮二無二愛おしくなり、ハートのところにキスをした。二の腕に鼻の先がくっつき、日焼け止めの、シトラスふうの嘘くさい香料のにおいがする。エイデンの温かい唇と鼻とがふれた感触にザカリーはちょっと身を縮めて、みどりいろの海のきらめきを睨むように見つめた。それからゆっくり息を吐いて、エイデンに向き直り、熱い角を軽く撫でてやる。
エイデンはピンク色のレンズを通してザカリーを見上げ、ふにゃふにゃと笑いをうかべた。
日焼け止めを顔からつま先まですっかり塗り終わったふたりは、みどりの海に向き合う。
いつまで経っても天気はぎらぎらしていて、網膜いっぱいに光が飛び込んでくる。
エイデンは熱くなった車椅子のハンドルをにぎりしめた。いつもはザカリーが自分で操作できる電動車椅子に乗っているから、エイデンが押してやることはほとんどない。今日は特別だ。ちなみに、エイデン自身が溺れたりしてはどうしようもないので、ちゃんと腕に浮き輪をつけている。
「重いだろうけど、海まで押させて大丈夫か」
心配そうに首をひねって見つめてきたザカリーの頬をつつく。かれはむかしからそうで、ものごとを実行するまさに直前という時になってから、あれこれとよくないシナリオを提示する癖がある。
「大丈夫だよ、僕けっこう足腰強いし……ほら、バルーンの車輪だから砂に沈まないで軽く進めるんだって、スタッフさんも説明してたでしょう」
「車輪が軽く進めたって、乗ってる俺が重かったら、結局重いだろ」
「ビーチの入り口からここまでだって押してこられたんだから、大丈夫だよ。あと、海に突っ込んじゃえばすぐに浮かぶんだから、きみの体重は関係ないの」
白髪混じりの黒髪を優しく撫でていると、とりあえずは納得したらしく前を向いてくれた。
「じゃ、行くよお」
腹に力を入れてぐいと押す。パラソルの日陰から出ると、爆発的な日光がふたりを照らした。重たい。エイデンは息を吐いて、吸って、吐いて進む。強引に突き進んでいるわけではなく、むしろ人にぶつからないように気をつけているつもりだが、何せ巨大な老人の乗った妙な形の車椅子が鬼の形相の老人に押し出されてぐいぐい進んでくるわけだから、よほど注意を喚起するのだろう。すみませえん、通ります、と声をかけると、すぐに人が散ってくれる。ザカリーは恥ずかしさとまぶしさでうまく前を見られず、きらきらと光りながらゆっくり過ぎ去っていく砂浜を見つめる。同時に、エイデンにはこんなに力があっただろうか、と思う。こんなに力が。
海がじりじりと近づいてくる。でもまだ遠い。
「あの、すいません、あの、車椅子押してる方、手伝いましょうか」
突然、背後から追いかけるように声がした。
エイデンは足を止め、はっとして振り向く。ザカリーも振り向いた。たくましい体型をしたアジア系の若者がおずおずと片手を上げていた。
「……いいんですか? ありがとう! ザカリー、ごめん、ちょっと手伝ってもらうね」
「あ、……すみません、どうも、ありがとう」
若者は気恥ずかしそうにうなずく。
かくしてエイデンと若者はそれぞれにハンドルを握り、ザカリーの乗る車椅子を押す。
さっきよりもずっとスムーズだ。全然違う、ずいぶん楽になった、とエイデンは舌を巻いた。これでもっと速く海まで行ける。エイデンはうれしくて笑い、助かった、と傍らの若者を見上げた。若者はまた気恥ずかしそうに笑い返した。運ばれているザカリーは、ああ、まじめな人もいるもんだな、と、人生で何百回めかのことをまた思う。からだが熱くなり、潮風を真正面から受ける顔もやがて熱くなってくる。もうすぐだ。海の泡立ちが近づいてくる。
「ここらへんで、一旦離してくれていいよ、ありがとう」
「あ、えっと、大丈夫ですか」
「うん、……ここからはふたりで大丈夫。ありがとうね、ありがとう」
ザカリーは目を開けたり閉じたりしながらふたりの会話を聞いた。優しかった若者は離れていき、エイデンの荒い息遣いと波の音とが混じってきこえる。どんどん海が近づく。海面の光はきらきらというよりもぎらぎらになって、鮮やかな色が目に刺さってきた。あ、と思うと、車輪が泡立った透明な潮水の中に踏み入る。そのまま止まらず、冷たいしぶきを上げながら突っ込んでいく。潮風にぐしゃぐしゃとなびくザカリーの髪を顔に受け、脚を濡らしたエイデンが裏返った声で叫んだ。
「海! ザカリー、海だよ!」
「ああ、」
ぐいぐい進むと、車輪が砂地から離れてどうっと浮き上がった。ほとんどあおむけになって海面に浮かぶ。熱い太陽の光をからだいっぱいに受ける。
エイデンもハンドルを握ったまま海に走りこんだ。冷たい海水が腹までを浸して、興奮が広がり、さっと顔のほうまで冷えるような心地がした。つま先で豊かな砂をさぐり、腕にはめた浮き輪の浮力でぷかりと浮かび、また砂に触れる。
「あはははは」
エイデンは笑ってハンドルから手を離す。車椅子伝いに移動してザカリーの二の腕を抱きしめた。温かい。ザカリーは光る海にぴょこぴょこ浮いているエイデンの、しぶきに濡れた顔を見下ろす。
海も空もまぶしいし、海に突っ込んだはずみに塩水が目に入ったのが痛くて、エイデンがいて、涙が出てきた。
「ははは、入れるもんだねえ、海!」
「……入れたな、意外と」
「それ、フロートに浮かんでるみたいで、すっごくいいよ。かわいいよ。どう、気持ちいい?」
「気持ちいい、よ」
「よかったあ。…………ね、泣かないで」
エイデンは伸びあがってザカリーの頬を撫でる。ゆらゆらと浮かびながら、熱い黒髪を撫で、黒いサングラスを押し上げると、光でいっぱいの緑色の目があらわれた。海のみどりよりも深くて、茶色くて、静かな色。骨格のくぼみのなかで、まばたきをするたび滴が散る。言葉にならないまままばたきをしている。エイデンはザカリーの頬を両手で挟んで、その目じりに親指を押しあてた。こぼれてくる涙の熱さが、冷たい海水に濡れた指にいっそう熱かった。目のなかに海水を入れないように気をつける。痛くないように、視界がぼやけないように、美しいものをすべて見ることができるように、エイデンはうんと気をつけて、何度も涙を拭いてやった。
『ぬかるんで星』収録済み短編集 @gyouzamochimochi
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