あなたをなぞる
テーブルランプだけが橙にともる、暗い寝室のベッドにあぐらをかいて、エイデンは目を閉じている。閉じた右眼のまぶたのケロイドには、細い皺が波のように寄って、でこぼこしていながらなめらかだ。ちょうどジオラマの山脈みたいだ。山羊の眼だまを内にかくしたふくらみは左眼のそれとくらべて平坦で、というのも眼球がいくらか萎縮しているからだった。背を丸めてベッドに腰かけたザカリーは柱みたいな腕を伸べて、ひとさしゆびでエイデンの右眼のまぶたをなぞる。とても大きな指でなぞる。年を食ってもいっこうに背の縮む気配がなかったので仕方なしにだ、あいかわらず柱みたいな腕を伸べて、まぶたに縦の線を引くのだった。橙の灯りに照らされたうすいオリーブ色の壁紙に、ななめにひきのばされたふたりの影が大きく黒くうつっていた。……指先……用心深くつめを切って、やすりもかけてまるめてあるその指先が、夜のしじまを縫うように皮膚のおうとつをすべりおりてゆくと、じわじわと痛みがやってくる、ザカリーの腹の底から焼けたプラスチックの味がして、恐怖がよみがえってくる。乱れる。しかし指先につたわるエイデンのあたたかさによって、ひとまずはなだめられる。痛みは消化されうる。
……エイデンはよく見えるほうの左眼だけをちろりと開けた。ゆびをのばし、撫でてくる相棒のぼやけた像が、しだいに結ばれる。けわしい眉、深い眼窩の奥で眠たげな緑の目がそのくせ大真面目にこちらをみつめていた。口は半開きで、年寄りのいぬみたいだった。
腹のうちから笑いがこみあがってくるが、ザカリーの癖──癖というか、かれにとって重要な儀式──を邪魔するものではないと思う。口のなかの粘膜を噛んで我慢する。むかしからザカリーには、なにかを繰り返しなぞることで気を落ち着かせようとする癖があった。さまざまあるザカリーの癖のなかでも、エイデンがいちばんはじめに見抜いた癖だった。たしか出会って三日目の夜に気づいたのだったか。他人に子どもじみていると笑われたこともあったその癖(二十代の頃だったと思うけど、ザカリーは虫のいどころが悪かったのかキレてしまって、真っ赤な顔をしてそいつの髪をひとつかみ抜き、警察を呼ばれたのでふたりで逃げた)は、なぜか年を取るにつれますますしつこくなった。歩けなくなった頃からか。ものや衣服や、エイデンがおそろいで買ってやったスクイーズにとどまらず、エイデンの手やら耳やらおなかのたるみまでなぞるようになったころには、さしものエイデンも戸惑った。けれどもとくに困りはしないし、そういうときのザカリーはほとんど無我といったようすだから、止めるでもなく好きにさせていた。……いやしかし。まぶたはくすぐったいぞ。
「ザカリー。もう気は済んだ?」
「……あ、すまん」
ぱちりとまばたいて手を引いたザカリーは、僅かに恥じらうように腕をおろし、ちょっと自分の膝を眺めたりつめを眺めたりしてからエイデンを見た。エイデンはころころと嗄れた喉で笑う。指先で右のまぶたを摘まんでひっぱり、「好きだよねえ僕の右眼」とすきまだらけの歯を見せた。まぶたの裏側の赤っぽい粘膜が剥きだされ、眼窩の奥にすこし引っ込んだ濡れた眼球、その外側を向いた灰色っぽい虹彩がぐるりと動く。ザカリーは黙ってうなずき、いつも悪いな、というようなことを口の中でぼそぼそ呟いた。
「んはは。どうってことないよ」
片手でまぶたをびろびろと引っ張って奇怪な顔貌を晒したまま、もういっぽうの手でザカリーの頬を撫でた。冬だからか微かに粉を吹いていて、ああ化粧水が切れていたから買わないといけないとエイデンは思う。思ってから、ザカリーの手を取る。
「ザカリー、僕の顔にさわれるようになったよな」
「前からさわってるだろ」
「え?むかしはさわってなかったよ。むかしはきみ、いちいちおっかなびっくりで、顔みたいなデリケートなとこにはさわんなかったんだから。僕の鼻の骨でもぶち折ると思ってたんじゃないの」
「……そういえばそうか」
ザカリーはぼんやりした顔で、エイデンの笑いじわを眺めた。こいつも年食ったなと思った。
そう思えるようになってきたのはつい最近のことだ。ある日突然撃たれて、あるいは殴られて、または爆破されて夭折する星みたいな天才のイメージだけが何十年も頭にあって、エイデンが自分よりもワンテンポ遅れて老化していき、いずれは小便が近くなったり足腰が弱くなったりするのだという事実が、あまり呑み込めていなかった。いまは、どうやらそうらしい、という程度の距離感で、すこしずつその事実を受け入れていた。
「きみはいまのところ、いちども僕の骨を折らずに済んでる」
「……いや、一回折りかけた」
「え? そうだっけか」
エイデンは目を丸くする。ザカリーは渋い顔をして、わずかに頭を傾ける。たぶんまた澱のような記憶のなかに半身をしずめている。頬のしわがテーブルランプの生む陰影でやけに濃く黒く見える。
「……おまえが催涙弾を投げ返そうとするから、……8月、……サンタフェ、晴れてて雲が西のほうにひとつだけあったときの、……おまえが投げたら後ろに弾がすっぽ抜けて被害が拡大しかねないから、俺がひったくって投げたんだ。そしたらおまえがもたついて邪魔なとこで転ぶから、俺の脚がおまえにひっかかって、地べたに押し倒しそうになった」
「なあんだ、そのときか。べつに折りかけてないじゃないの」
「あの勢いで押し倒したらたぶん肋骨を折ってた」
「そう折れないって、肋骨は」
「俺は折れたことあるし」
ザカリーがぶつぶつ言うのでエイデンは笑った。それは憲兵に捕まったときでしょう。拘束されて警棒振り下ろされるようなのはノーカンだよ、そりゃ誰だって折れるよ。そう言うと、ザカリーはいっそうもそもそ言いながらそっぽを向いてつめをいじりはじめた。やすりでまるめたのはそのほうがなめらかな曲線になり、落ち着くからだった。
いつでも、サンタフェの夏の奇妙なほど青い空、エイデンの紫のTシャツ、牛乳と煙のまじったにおい、エイデンと絡まって転び道路に両手をついた男のゴムサンダルの裏の黄色(そのサンダルじゃ転ぶに決まってるだろとザカリーは恐怖まじりの怒りをおぼえたが、言わなかった)、エイデンの痩せた腕、号泣、怒号、早口でききとれない指示を出す声、人が走る足音、それらをよみがえらせることができる。サンタフェでなくてもいい、ヨハネスブルグ、ニコシア、イズミル、フィラデルフィア、キンシャサ、カブール、パリ、その他、その他、その他。痛みがある。吠えるほどの痛みが。
落ち着かなくなってきたのか、背を丸めて右手の親指と人差し指を擦りはじめるザカリーをエイデンは見る。指先は輝くほど白く、じきにこの州にも雪が降ることを思い出す。ザカリーがたてる、指と指とが擦れあう音は、すりすりすりすりすりすりすりと際限なく鎖のように部屋を横切る。エイデンはケロイドのないほうの眼をぱっちりと開き、ザカリーを見る──見聞きしたものをひとつ、ひとつ、またひとつと、鎖にしてつないで、足枷で引き摺っているような男だと思う。生きれば生きるほどつけくわえるものがふえ、鎖がのびて重くなる、それだからもう、齢六十のザカリーは、鯨のように重いのだ。海で生きられもしないのに。
「ぎゅう」
「うお」
エイデンがベッドの上で前のめりになり、ザカリーの首根っこをつかむように抱きついた。腕を肩にまわして頬ずりをする。あたたかいエイデンの頬はむかしから髭が濃いから、剃っていてもすこしちくちくする。儀式を邪魔されたザカリーはけわしく眉を寄せ、けれど結局エイデンの背に手を当てて抱き寄せた。
「お、セクシー」
「ばか言え」
「ばか言わないよ、僕は。ね、ザカリー、僕をなぞってもいいよ」
エイデンが言い、ザカリーはうなだれていた(わけはなくともいつもうなだれている)顔を上げた。ランプのあかりがエイデンのうしろにぼやけた橙の円をつくり、逆光で暗くなっているエイデンの微笑はまるく、かさついた唇は清浄な弧を描いていた。
「……さっきもなぞった」
「いくらでも。きみの気がほんとに済むまで」
エイデンはシーツの上からザカリーの手をそっと取りあげて自分の頬に当てる。頬骨の硬さがザカリーの指先につたわり、それから産毛のはえた肌のしんなりした軟らかさもつたわる。体温。人肌なんて好きだったことはない。ザカリーが好きなのはもっとなめらかで無機質で変わらないもの、指先でいくらたどっても変わらないもの、鍵、マグカップのふち、窓のさっし、テーブルの角、ポイントカード、スプーン、ハンドクリームのふた、バターナイフ。人体にそんな救いはないけれど、せめてできる範囲でなめらかにしたくて、暇のあるときはつめをまるく磨いていた。ひとりで自分の手をいじっているぶんには、誰にも文句は言われないだろうし。
でもエイデンは大丈夫だ……ザカリーは思う。すぐ温度が変わるし、なめらかじゃないところとなめらかなところが混じっているけれど、いい。エイデンはいい。そのようにザカリーは思う。いつも思う。
「僕、いま乾燥でお肌荒れてるから。きみが好きかはわかんないけど」
「いいんだ」
「いいんだね」
「いい」
ザカリーは真剣になぞり、撫でる。エイデンの肌はマグカップよりもっとざらついている。モカ色のしみとそばかすがある。皮膚のたるみのうえに薄くて柔らかな金色の毛が生えている。皮と肉の下にある骨組みはしっかりとまるく、ふとく、硬い。頬を撫でれば笑う。くすぐったい、ときゃあきゃあ笑うので、謝ったら許された。エイデンが笑うたび頬に二本ずつ皺が入った。まぶたのケロイドは皺くしゃでふにふにしていて、熟しすぎたあんずの皮みたい。角はごりごりとしているけれど、磨き抜かれた木製の家具のようになめらかにひかっている。指で根元から先までたどれば、不均等な段差の感覚が残る。
「わあ、そんなにあっちこっち!」
一心に頬を、まぶたを、顎を、こめかみを、角をなぞってくる大男の重みを受けとめかねて、エイデンはくすくす笑いながらシーツに横たわった。ザカリーはなぞるのを止めない。エイデンの顔を追うように、膝を立てた体勢でおおいかぶさる。垂れてくる髪が頬にふれてますますくすぐったいのでエイデンは笑い声をあげ、顔がくしゃくしゃになる。ザカリーは熱中する。
「ふふ、あは、そんなに好きなの、僕の顔」
「好きだ」
「ふうん。よかった。……よかった」
しばらくなぞりつづけてから、ザカリーがエイデンを抱きしめた。エイデンは厚い肉と体温に押しつぶされながら、こもった声で笑っていた。胸の中からエイデンの笑い声が聞こえてくる。俺が笑っていないのに俺の胸から笑い声がしてくるのは、変なことだ。すごく。ザカリーはもう、よくわからなくなり、小さな体を抱きしめたまま自分の額をシーツに押しつけた。痛みをベッドにうずめこむ。サンタフェ、ヨハネスブルグ、ニコシア、イズミル、フィラデルフィア、キンシャサ、カブール、パリ、香港、イェリコ、もっと、もっとあった。
「……その姿勢、また腰痛めるよ」
エイデンが笑いを収めてそっと進言する。
「うん」
ザカリーはくぐもった声でうなずく。エイデンはザカリーの抱擁のなかから左の腕をぬっと出し、仄暗い天井にむかって伸べる。やがてそろそろと降ろして、温かいものに触れた。ザカリーの首筋をなぞっていた。
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