ことこと煮込んでね

 ぴぴぴぴ、と間の抜けた音が鳴った。

 「何℉だった?」

 「きゅうじゅうきゅうどろくぶ」

 「あらら」

 ザカリーが差し出した体温計をエイデンが覗き込む。99.6℉、つまり37.6℃。それなりの熱だった。エイデンはザカリーの、マスクでは覆いきれていない皮脂でぺとぺとした頬をむやみに撫でさすって、あわれみに満ちた大きな茶色の目でザカリーを見つめる。まばたきをするたび、きらきら慈しみが飛び散りそうだった。「それじゃ、」と言いながらかがめていた身を起こし、意気揚々と宣言する。「冷えピタ買ってこようか? ゼリーとかアイスとか、炭酸とかも要るよね。くだものも買ってこようか。スープも作るよ。ぱっとまとめて買ってくるから、ちょっと待っててくれるか? 他にほしいのある? 薬はある程度予備のがあるから、要らないと思うけど」

 いっぺんに全部をしゃべられた。

 ザカリーは煙のようにまとわりつく微熱と疼痛のなかでずる、と洟をすすって、エイデンの小さな顔を見上げる。

 「……寝てりゃなおるから、今から買いに行かなくていいよ」

 エイデンがええ~と素っ頓狂な声を上げる。目を見開くと目の下の暗いくまが目立つ。いま人生で四つめの博士号を取得しようとしているところで、もう四回めになるけれどいまだに計画性のとぼしい博士論文の書き方をして、ここ数日は寝ているんだかいないんだかみたいな生活をしていた。

 ザカリーが風邪をひくのは珍しい。いつも総合的にあんまり元気がないが、同時に、とりたてて病を得るようなこともすくない体質だった。あるいは、つねに体のどこかしらが痛いもので、風邪をひいていても気づかなかったのかもしれない。ひるがえって今回はわかりやすかった。なんか熱いし、ぼうっとするし、鼻水もやたらに出て、関節に薄い板を差し込まれたみたいな痛みが(いつもよりも)あった。そのうち咳がげんげんと出てきた。げんげんと咳をして、風邪かなあと思いつつぼんやりしていたら、エイデンがやってきてそれは風邪だと言い放ち、張り切ってザカリーをベッドに突っ込み、あれこれと動き出して今に至る。

 「そりゃなおるだろうけど、なおるまでがしんどいだろ」

 「おまえ忙しいだろうし、いいよ。家いろって」

 「構わん構わん、どうせ逆立ちしたって書けないときは書けないんだからね、お買い物でも行ってきてザカリーを楽にしてあげるほうがまし」

 けたけた笑っているが、ふつうにスランプらしい。ザカリーは心配になってきた。けれど本人の言うとおり、買い物にでも出てもらったほうがエイデンにとっても良いのかもしれないという気もする。経験上エイデンがじっと家にこもっていてもろくなことは起きない。どういうわけか家電を爆発させたりするのが関の山である。

 「じゃあ……お願いする」

 「よし! 待って、ゼリー何味がいい? オレンジ?」

 「……なんでもいいよ」

 「あと、何食べたい? チキンスープ? トーファーキーのストックがあるしさ。あ! どうせならチョルバにしちゃおうか!? ヤイラチョルバスは? ほら、ヨーグルトとお米の。あれ好きでしょ、前いっぱい飲んでたろ」

 目を輝かせてまくしたてるエイデンに、正直なんでもいい、おいしく食うから、とザカリーは思ったが、しゃべる気力があまりなかったのでうなずいておいた。元気のない病人の世話をするにもいちいちはしゃいでいるところ、今更だけどたぶんすごく変。でも嫌ではなかった。ただ体が熱く、重く、いろんなものが遠い。いつにもまして。

 「じゃあ、メモ作ってから買ってくるね! なんか急に具合悪くなったりしたら電話かけてよ」

 「……ありがと」

 礼を言ってから、ザカリーはぐしゅんと押し殺したくしゃみをし、無神論者のエイデンは例によってゴッド・ブレス・ユーなどとは言わず、けらけら笑いながら部屋を出ていった。ひらひらと振った手の先、ほとんど剥げかかって縦の割れ目がはいっている紫色のネイルが、光の残像みたいにザカリーの目に残った。

 部屋の中は静まり、閉じた白いドアをベッドから眺める。熱がうっすらと苦しく、ゲロを催したときのために枕元に置いてあるひんやりした銀色のボウルにてのひらを沿わせてみたりする。部屋の外ではどたばたとせわしない足音がしばらく聞こえていたが、ほどなくして静かになり、ザカリーが目をつぶった頃には、ドアを開けて家を出て、最後に鍵を閉める音がした。

 ザカリーはやがて、しゃりしゃりしたボウルを腹のあたりに抱きかかえてみる。大きく長いからだを丸め、冷たくて機械的なボウルの輪郭に慰められながら、とろとろとシーツの皺に沈むように眠る。自分がベッドの中、ひとつぶの明るい黄緑色の小さな豆になって、買い物から帰ってきたエイデンに食ってもらうという夢を見る。



  まずは玉ねぎをみじんぎり!

 買い物から戻ってきたエイデンはさっそく涙をにじませながら、赤いポリエチレンのまな板の上で玉ねぎを刻む。鼻にティッシュなんかを詰めれば涙が出ないという知識はあるが、エイデンにしてみれば、硫化アリルの刺激も娯楽の一環にすぎない。わざと泣きながらみじん切りにしているのだ。そういう趣味の持ち主なだけあり、ふたりで料理をするときはもっぱらエイデンが玉ねぎ担当だ。ザカリーにやらせると、硫化アリル好きでもないくせにみじん切りに対して並々ならぬ執念を見せ、涙を流しながら玉ねぎをミリ単位で刻み続ける。面白いけど見ていられない。

 刻んだ玉ねぎをフライパンで炒める。事前にフライパンを熱しておくということを忘れなかったから、今日の自分はラッキー。真っ白な玉ねぎが透けていくのを眺め、木べらでそいつらを掻きまわしながら、頭の中を掻きまわして、そうだそうだ、と台所の端へ歩いていく。米袋からコップでいくらか米を掬い出して調理台に置いた。

 ヤイラ・チョルバスはヨーグルトに米、それからミントのスープ。たまごも入っているし、なにかと滋養に良いそうな。いちどの調理のうちに8回ぐらいメニューを見返さなくてもつくれる数少ないメニューのひとつだ。子どものころは、こういういろんな種類のスープを母さんがつくってくれていた。母親はしょっちゅう生焼けの鶏肉を出してくるので、子どもたちはいちいち自分の皿の上の肉を指でいじくってなかみが赤くないかたしかめなければならなかったけれど、スープだけはけっこうまともな味で、エイデンは母親のスープが好きだった。

 甘い匂いといっしょに、見れば玉ねぎが焦げつきはじめた。さっそく段取りが崩れている……エイデンはできるだけかわいい感じで舌打ちをし、火をちょっとゆるめてみる。水を流し入れ、それから米をざらざらと投入する。ふと思い出し、棚からヴィーガン向けの「チキン」ストックを取り出して、適当な量をぶちこんだ。これを入れるとなんでもそれっぽい味になる気がする。ヴィーガンだし。人類のたゆまぬ努力、ありがたい。人類が大好き。

 米がとろとろしてくるまで煮込む必要があるので、しばらく暇だ。するりとリボンがほどかれるように、エイデンの脳はスープのことを……母親のスープのことを考えはじめる。

 自分が10歳まで暮らしていた土地に根ざすさまざまな料理のつくりかたを、ネットでちょっとずつ学ぶようになったのは30を過ぎてからのこと。周りの人たちとくらべて、自分の、記憶や、言葉や、体なんかが生まれてきた土地、人びとの生活のありかた……そういうものへの関心が薄い。普遍主義みたいな思想のためではなく、むしろそういう思想とは遠くに位置しているほうなのに、ただむしょうに、自分に、根、みたいなものがあるとは思われない。いつでもふわふわ浮いていて、そのことに不安もない。身は軽くて、どこまでも飛べる。どうせどこに行っても浮いているし、この歳になっても変わらないんだから本当にそういうものなんだろう。ゆらゆら。宇宙遊泳。

 だから自分のルーツなんかとはさほど関係がなく、ただむかしなつかしい料理をふと思い出して、興味本位でつくりはじめた。けれど副次的な効果があった。とっくのむかしに捨てた場所での暮らしをすこしずつたどることが、ぎこちなくひび割れた空白に手を伸ばし、なだめるように撫でる作業にもつながった。ひとつ言っておくと、「根っこを感じない」ことが空白なのでも傷なのでもない。そんなことではエイデンはなんにも困らない。ただ重なる死骸に背を向けて家を出、村を出たあの日のことだけが、ねじくれたガラス瓶みたいなスケルトンの入れ物に詰め込まれて、エイデンのそのほかの部分から切り離されていた。

 母親がかつてつくったような料理をつくり、人にふるまい、自分で食べることには、そのガラス瓶を直接開けるほどの危険な威力はなくても、ガラス瓶のゆがんだ表面にてのひらを沿わせるひりつきがあった。それもまた、硫化アリルと同じカテゴリーに分類されうる刺激だ。自分を自分でコントロールできなくなるぎりぎり前で足を止める、綱渡り。

 (アンネがべたべたしたテーブルの上に出す料理、村から見える海の色と光り方とにおい、となりに住んでいたやかましいおばあさんの頬の深い皺、いつか読みふけった新しいテレビの説明書きのひびき、暗いベッドでささやきかわすきょうだいたちの舌足らずな声、黄ばんだブランケットの端っこのやわらかさ、いっぱいに盛られた桃とかプルーンの産毛のささめき、父親の饐えた息の熱さ)

 (それらすべてがどこか別の世界の話ではなく、僕がその気になればたどりつける土地にかつて生きていて、いまこの瞬間にも同じではないけれど似たような音が、色が、においが、あそこで……)

 フライパンの中をじっと見ているうちに喉の奥が鳥のように震えたからエイデンは、ちょっとため息をついた。足りずに口笛を吹いた。まだ足りず、はやりの歌をワンフレーズだけ歌う。あとの歌詞は忘れたので深呼吸。

 ザカリーに元気をつけてもらえるように、おいしくてタフなスープをつくらなきゃね。

 料理の分担はほとんど五分五分。自分の担当の日ごとにいろんなチョルバをつくって出すと、ザカリーはいつにもましてよく飲んでくれた。そのことを指摘するとたぶん変に恥じらっておかわりを控えだすだろうから黙っているけれど、おいしく飲んでもらえてうれしかった。

 米がぐつぐつと煮えてきたので、ボウルにヨーグルトをばちゃんとあける。その上にたまごを割るとき、殻のとがったところが指の先をかすかにえぐっていく。小麦粉をどさっと。これをちょっと気合いを入れてかき混ぜれば、あとはもうフライパンにぶちこんで、ことこと煮込んで完成だ。20分ほど気長に待って、最後にミントと塩を振りかけるだけ。

 ボウルのなかみをシリコンのへらでかき混ぜる。ヨーグルトのたっぷりとした白が渦を巻くなかに、淡雪のような、灰のような小麦粉と、にゅるりと鮮やかな色の卵黄が吸い込まれて、はみだして、また溝にのみこまれていく。

 どうにもおかしくなってきて、エイデンはひとりでにやにや笑った。

 


 重たい眠りからめざめたザカリーは、肩まで引き寄せたブランケットのなかでボウルをかたく抱きしめていた。あんなに冷たかったボウルは眠っている間に自分の熱で温められてしまって、そのことも悲しかった。なにより、豆になれたと思ったのになれていなかったし、エイデンに食われてもいなかった。

 つまらない体を背負わされていきなり現実に放り出されたさみしさに、ブランケットからはみだした足と足とを擦りあわせると、ざらついたかかとどうしが共鳴する。

 ……ボウルを想定していた用途で使う機会がなくてよかった。冷たくまるくてしゃりしゃりした金属のボウルに、胃袋から温かくて黄色いゲロをぶちまけていたら、もっともっと悲しかっただろうから。

 8歳の頃。学校の帰り、ランチによくないものでも食べたか腹を壊して、両親は共働きだったから兄のベンジャミンとふたりで留守電をしていた。腹がおかしいといっても寝込むほどではなくて、台所に飲み物を取りに行ったり、勘で胃腸薬を探しに戸棚を開けてみたり、テレビの前でVRのゲームをしている兄の機嫌を損ねない程度にうろうろしていた。マムがまとめ買いしていたボトルの炭酸水をいっぱいコップに入れて自室に戻ろうとリビングを横切っていたとき、突きあげてくるものがあり、大理石を模したフローリングにびしゃびしゃとゲロを吐いた。水色のシャツの胸元に薄黄色のゲロが飛び散ったのが見え、次いでフローリングにゲロが池みたいに溜まったのが見えた瞬間、兄が唸るような声を上げたのが聞こえた。

 兄はVRゴーグルをソファに投げ捨てて大股でやってきて、アトランタ郊外に住む平均的な小学5年生が知りうる罵詈雑言のほぼすべてを浴びせながら乱暴にザカリーを押しのけた。呆然としているうちに兄は洗面所から濡れたタオルを持ってきて、池みたいな山みたいなゲロを拭き始めた。その間ずっとありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられていて、自分のシャツは変なにおいがするし、視界は黄色っぽくくらくら揺れているし、ザカリーは心臓が3ミリぐらいにちぢまってしまった気がした。自分でやる、というようなことを何度も訴えたのに兄はタオルを貸してくれない。いいからシャツ脱いで洗濯出して寝てろ、と大声で怒鳴って、さらに2回ほどFワードの使用回数を増やしただけだった。慌てて洗面所に逃げ込んでシャツを脱いだ。そのまま、なんとなくシャツを着るのが怖くなって、替えのシャツを取り出せない。上半身は裸のまま自室に逃げ込んで、色褪せた赤と黒のふわふわしたタオルブランケットに無理やりもぐりこんだ。ブランケットのパイル地がやわらかく肩の肌を擦っている。寝たふりをした。おなかが気持ちの悪いうごめき方をするのをごまかして、いつまでも寝たふりをした。

 ……人肌に汚されてしまって慰めにも頼りにもならないボウルを、未練たらしく抱きしめる。兄のベンとの思い出はそういう類のものばっかりだ。ろくなのがない。もう46になるけれど、いまでもひとつひとつ思い出せる。というより、思い出そうともしていないときに思い出される──受動態。冷凍庫のなかのパスタソースみたいに凍りついた記憶が、熱湯で戻されるみたいに、つるつるどろどろとあふれだしてスライドショーを始める。止められない。いつも。

 それでも近頃。あいつが主のみもとでよろしくやってくれていればいい、と思いはじめている。大きな変化。それを進歩とはザカリーもエイデンも呼ばないけれど、とにかく大きな違いだった。

 ……できるだけ俺から遠く離れたところにいてくれればいい。


 遠い、遠い場所にしかかれはもういないことをたしかめて、鼻から息を吸い込む。ある時点で、ずん、とかたい壁に阻まれたように吸い込めなくなる……鼻が詰まっている。

 だからスープのにおいというのも漂ってはこないけれど、たぶんそろそろスープが完成するのだろう、がしゃがしゃと食器を出している音がドアの向こうからきこえた。エイデンは優しいな、と、毎日積み重なっていく桃色の紙せっけんみたいな気持ちの上に、また1枚そっと重ねる。できるだけ優しい色のことを考えたくて、熱っぽいシーツの中で巨大な虫みたいにゆっくりうごめきながら思案していたところへ、大きな音を立ててドアが開いた。


 「ザカリーお待たせ! そろそろおなかすいたかな? まだ食欲ない? どっちにしろ良いスープだから、無理ない範囲でしっかり飲むんだよ!」

 エイデンはマスクをかけ、鮮やかなたんぽぽ色のミトンをはめた両手で大きな深皿をささげもち、痩せた両腕をわずかに震わせながらうれしそうに立っていた。ザカリーはとっさにベッドに手をついて半身を起こす。皿落っことしそうで危ない。

 「あ、おい、おい、落とすなよ」

 「だいじょぶ、いまそこに置いちゃうから」

 ベッドサイドの小さいテーブルにどすんとスープ皿が置かれる。スプーンが添えられる。温かい湯気がほのかに立つ。ひと仕事終えたエイデンが得意げに両手をひらひらさせた。

 「ごめん……ありがと」

 「やだ、どこから出た謝罪さ」

 「……おまえも忙しいのに、わざわざつくらせて」

 「それが僕のやるべきことだからやっただけだよ、いいから熱いうちに飲みな。てか僕もあとで飲むし。あと、なんでボウル抱っこしてるの? ひんやりしてて気持ちよかった?」

 「……」ザカリーは腹の上のボウルを枕元に置いた。

 それから、そろそろとサイドテーブルに向き直り、マスクをはずす。詰まった鼻でも、ミントのすました香りはかろうじてわかる。熱い手でプラスチックのスプーンを取って、乳白色のスープを掬い、ひとくち飲んだ。ひさしぶりの温かい食べ物。熱さとヨーグルトの酸味に胸のあたりが震えて、それからおなかのあたりがじわじわ溶けだすような感じがした。ほう、とため息を落とした。

 「底のほうのお米も食べるんだよ、腹持ちするから」

 「ん」

 「おいしい?」

 「おいしい」

 ザカリーは顔を上げる。関節の痛む長い腕を持ち上げて、親指を立ててやった。エイデンの茶色い目がぱっと明るくなって、目じりに水面みたいな皺ができるのが見える。

 「あ、そう? よかった! なんか失敗してないかな」

 「何も失敗してない」

 「よかったあ」

 うれしげな声を聞きながら、やわらかく煮た米を黙々と口に運んだ。ヤイラチョルバスも何もかも、40ちかくになってからはじめて食べた料理で、でもいまはザカリーにとって大事な料理だった。そういう料理がいくつもあった。味のよしあしは正直あまりわかっていないけれど、エイデンがつくってくれたことがいつでも大事だった。

 マムが冬になるとつくってくれたチキンスープを思い出す。大鍋でぐつぐつ煮込む音。黒っぽい豆もたくさん入っていて、熱いスープのなかでことこと揺れている。風邪に効くし、子どもの体を強くするんだと、アメリカ人たちは延々言いつづけている。なめらかなステンレスの大鍋の表面が湯気でぱっと白くなり、鈍色に戻り、また白くなる。それを繰り返す。台所に立つマムの痩せた後ろ姿。パプも料理をするけれどマムがやることのほうが多く、マムは忙しいのにいつも黒い髪を規則正しくカールさせていた。ときどき台所に入って手伝いをしたあとのパプが、マムのつむじにそっとキスをしていて、マムはくすくす笑った。それからマムはときどき、ザカリーとベンには名前のわからないエチオピアふうの料理も作った。たぶんグランマが長年つくってきた料理。子どもたちは名前もわからないまま、温かく煮込まれたいろんなものを頬張っていた。

 ……それは、むかしのこと。

 いまはエイデンが台所にいる。ザカリーももちろん料理をするが、エイデンの料理のほうがずっと素敵だと思っている。失敗も多いけど、色もにおいも味もいろいろ。ネイルを塗るように、アイシャドウを選ぶように、髪を編むように、まじないをかけるように料理をつくる。言うまでもなくもっと雑な食事をつくる日もたくさんある。薄いパンにペーストを塗ったくっただけとか。ザカリーは構わない。だって食べるために生きているわけじゃない。グルメじゃないし、そも味覚はにぶい。食事なんかおざなりでも生活できる。でも、エイデンがたまに凝った料理に挑み、どたばたとやっているところを見ると、エイデンの頭のなかで火花、宇宙の端まで一瞬でかけめぐるような火花が散ったことがわかるのが、ザカリーは少しうれしい。

 なおもスープをすすっていたザカリーは皿から顔を上げ、エイデンを見つめた。痩せた顔はきらきらしていて、暗いくまにふちどられた大きな目が温かい鏡みたいだ。



 「……うつるぞ」

 「ふつうの風邪だろ? 最悪うつっても、ここ一週間はどうせ家にこもってるか庭で踊ってるだけだから、誰とも会わないし、いいの」

 「論文は」

 「心配ありがとね。なにもかも大丈夫」

 スープ皿を片付けて部屋に戻ってきたエイデンが、ベッドに倒れこんでくる。シーツの皺に滲む微熱の気配とまどろみの残り香に痩せたからだがうずもれる。熱いザカリーの手を取り、指先でその骨をなぞった。

 「もういまはね、眠いの。起きてたってどうせなんにもできない。溶けそう。いっしょに寝たい」

 「……あんなに言ったのに、ちゃんと毎日寝ないから……」

 「わかってる! 僕の自制心と計画性に問題がある! でもいまここでお説教するぐらいならキスして」

 ぐるんとこちらに顔を向けて凝視してきたエイデンに、ザカリーはマスクの中でながくため息を吐く。「べつに説教なんか俺、しない……」

 「だよね。じゃキスは?」

 「うつるからだめだ」

 正しいね、と眉を上げるエイデンの目の下の暗いくまがどんどん気になってきて、……マスクの白さとの対比で、よけいに際立つせい?……ザカリーは自分の手をもてあそんでいるエイデンの四角っぽい手をつかむ。金色の毛が生えた肌をやわらかく二度、三度撫でる。

 「……寝るならさっさと寝てくれ」

 「きみといっしょに?」

 「……おまえがそうしたいなら」

 「そうしたいよ。けど、中途半端に寝たらまた変な夢見るかなあ。さいきん睡眠の質最悪っぽくてえ、……ずっとうるさい夢ばっかり見るんだよ。頭、がんがんする……起きたときすげえ、疲れてるんだ」

 スープづくりの仕事を終え、いちどベッドに倒れこんだらあとはもう、なにを言おうと眠りの渦にひきこまれるほかない。とどめようもなくて、エイデンのことばがふわふわとさまよいはじめた。ザカリーはエイデンの胸にてのひらを置いて、均一なリズムで、そっと叩く。

 ぽん。

 ぽん。

 エイデンの大きな目がしわしわにくぼんで見える。

 「……俺は、豆の夢みたよ」

 「豆?」

 「……豆」

 「おもしろいねえ」

 「……そう」

 「そういや僕ら、何十年も毎日いっしょに寝てるのに、おんなじ夢を見たことないねえ。そりゃ、いまの科学でわかる範囲ではそうなる理由はないし、当たり前かもしれないけど……でも、もしかしたらお互い話さなかったから気づかなかっただけで、おんなじ夢を見てたときも、あったのかもねえ」

 エイデンはとろとろと天井をあおいで笑う。ザカリーのほうも、さっきまであんなに寝ていたのに、腹がくちくなったらまた眠たくなってきた。寝て、起きて、寝て、起きて、熱、起きていてもどこか夢みたいだ、むかしのこと、いまのこと、エイデン。琥珀のなかにとどこおったような記憶。

 つぎは悲しくなる夢を見ずに済むだろうか。

 「……どうだろう。……おまえが出てくる夢、へんなのばっかりだよ」

 「それ言ったら僕だって、……ザカリーが出てくる夢はだいたいへんだよ。前なんか……お茄子の舟に乗ってボートレースに出てた。勝って、賞金もらって。でもぉ……こんなもの、なんだ! って言って授賞式でキレて、出てっちゃった。へへ。さすがだよな」

 ぽん。

 ぽん。

 ザカリーは沈黙した。ボートレースの件にはとくにコメントできなかったので、エイデンの胸をさすりながら言った。「……チョルバ、うまかった」

 エイデンが目をつぶったまま笑う。「でしょ。年々うまくなってるんだ」

 「あとでおまえも飲めよ」

 「うん。……あとでね。眠ったあとで。またうるさい夢3つぐらいシャッフルで見て、疲れて、なんかついでに口もくさくなって起きるんだ」

 「……口くさくないよ、べつに」

 「おんなじ夢みて、夢んなかでもふわふわのとこで……いっしょに寝てられたらいいのにねえ」

 そうつぶやいて、しばらく天井をけわしい顔で眺めたあと、焦点をなくし、とろりと眠りに転がり落ちる。ヨーグルトに溶けるみたいに。

 ぽん。

 ぽん。

 熱はまだ下がらない。関節の痛みが、けだるくブランケットの上を浮遊している。でも痛みには慣れているし、熱もそんなに高くはない。チョルバが溜まった腹の温もりをエイデンにも移してやりたい気がして、眠ってしまったエイデンをごろりと持ち上げて引き寄せ、胸のあたりに小さい頭をもたれさせる。角のはしっこに、剥がし忘れたタトゥーシールが茶色っぽく染みついていた。

 角のでこぼこの上で薄くなった小さな星もよう。

 それからふたりは眠る。長い夢を見る。静かな場所にいる。

 

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