凍れる

 凍れる乳の指先が、まっすぐに伸びて、右手の端から左手の端まで、およそ2.4メートル 、大きく冷たく横たわってひろがった体がたちどころに見世物にされていく。独立していた孤独な肉体が輪郭をゆるめて空気のなかへとけだし、ミルクの河のように流れ、ひとびとの貪るところとなる。端から握られ、かじられ、ほおばられ、おれは痛みを感じているのに、おれの魂はもはや透明で、訴えは聞き入れられることがなく、いつまで待ってもかれらは手を離してくれない、かれらはがっしりとおれの輪郭を掴んでいる。

 見られるためにつくられたような体だ。

 10歳のとき、ザカリーは、地元の子どもたちが所属するバスケットボールチームに誘われた。そのころにはもう、身長は186センチメートルを記録していて、兄を追い抜き、父にはもうすぐ追いつきそうだった。せっかくそんなに背が高いんだから、うちのチーム入ってくれよ。赤いユニフォームを着た、金髪の、アイルランド系の、ひょろりとした手足が目立つ、それでもザカリーにくらべれば35センチメートルほども低い男子生徒だった。うるんだような水色の目が期待に満ちていて、もう既にザカリーがチームに入ったらどんなふうになるか想像を膨らませているみたいで、その熱っぽい色にザカリーは反射で身を引いた。警戒し怯えた。羨望し嘱望する者の目だった。ちがう、と思った。じぶんの体は羨望などには値しない、おれは、おれはけしてそんなものでは、というかたくなな確信があって、それなのに男子生徒がじぶんの体を強烈に求めてくるから不安をおぼえた。

 「…おれは、いいや、スポーツとかあんまり得意じゃないから」

 「そんなことないよ! P.E.の授業でもふつーにできてるじゃん。ボールの扱いとかはおれらちゃんと教えるし監督もサポートしてくれるからさ、入ろうよ」

 男子生徒は熱っぽくせびった。けれどもザカリーは、バスケットボールなんて、まったくやりたくなかった。いつかこの日が、知らないやつにスポーツに誘われる日が来るだろうとわかっていて、どうやってうまく断ればよいものか、不安な頭で考えを巡らせてきたが、いざ実践となるとどうすればよいやらわからず、ただ男子生徒のうるんだ瞳が浴びせかけてくるきらきらした熱い執着が怖かった。グルーガンで撃たれているみたいだった。

 「……でも……おれ、チームスポーツってかんじじゃないし……そういうのあんま好きじゃなくて」

 男子生徒がやたらと大声で話すので廊下を通ってゆく生徒たちがときおりこちらを振り返るのも、不快だった。うつむき、ジーンズの膝を握り、丸い骨の感触を撫でることでじぶんをなだめようとしていた。

 「気にすんなって! たしかにおまえ、そんなシャコウテキ? ってタイプじゃないかもしれないけど、」

 男子生徒がザカリーの右手を掴んだ。撫でていた膝からいきなり手を剥ぎ取られてザカリーの喉の奥が冷たくなった。凍れる乳のように真白いザカリーの指先を、なだらかにつづくチョコレート色の手の甲を、男子生徒の桃色の手が握って、その肌膚はあつく、汗臭く、血潮、の気配にあふれており、

 「せっかくそんなに背高いのに、なんかに活かさないともったいないって! おまえならぜったいすぐスタメンになれるって、みんな羨ましがってる」男子生徒はきらきらと…きらきらと言い放つ。

 そのかがやきをザカリーはおぼえている。疑いなく、長い手足は、伸びた背は、走り、跳び、ゴールリングを掴むためにできていると、すばらしい武器であるのだと、ただ疑いなく信じている水色の目を。知らない。暗く沈み込んだ部屋両腕で抱えた体の痛みに眠れず眠れず海底の砂をのたくる海鼠のようにうごめきつづける永遠の夜があと幾度つづくのか、指折り数えて絶望する頭の濁った朝も、このまま、このまま背が伸びて、脚が伸びたならば、じぶんはいつか人間ですらないなにかに変化するのではないかと、子どもじみているとわかりながらも胸に巣食うぼんやりした不安も、大きすぎる人間はやがてその臓器が体についていけなくなり早く死ぬことが多いのだと読んだ日の恐怖も、かれは知らない。知らないのに、知らないから、おれの体をきれいな道具かなにかだと思っているのだ。ウイングスパンが何センチメートルだから、これだけ跳べばリバウンドを獲れる、股下が何センチメートルだから、何歩でゴール下まで走れる、そうやって、使えるパーツごとにばらばらに切り分けて、グルーガンのまなざしで、おれをすっかり溶かしてしまい、ものほしそうに嘗めている。消費、消費、消費。

 ……話せばよかったのか?おれはひととかかわるのが好きじゃないし、ひとりでいたいし、それとバスケなんかやってへたにずるずる長いことやりつづけてこれ以上背を伸ばしたり、体に負担をかけるのがおそろしいから、やりません。そんなふうに。

 しかし、もし話したら話したで、こんどは半端に哀れみをかけられ、異形の障害として消費されて、それはそれでただしい認識なのだけれど、結局惨めなことには変わらないのだろうとザカリーは思う。ザカリーはものおぼえがよい。いままでに何度もそういうことがあったのをおぼえていて、だからおなじ失敗を繰り返したくはない。

 10歳のあの日をおぼえている。なにかに活かさないともったいない、もったいない。何度も言われた、いろいろな人に。特異だから、貴重だから、それは神さまがあなたにくださったとくべつなギフトだからと、懐柔し、苛立つおれを宥めすかし、あなたがその体を嫌うのはせっかくのチャンスを活かしきれていないから、善いことに使えばきっと愛せるから、と。けれどおれにしてみれば、みんなと同じように生きられるかれらのほうがよっぽど神に感謝すべき体を持っていて、かれらはセルフラヴ、つまりみずからの心と体を愛することの大切さをしきりに説くけれど、そのわりにはいちどとして、おれがおれの体を好きになる手助けをしてくれなかった。使えば、活かせば、とかそうではなくて、ただそこに在るだけを許してほしかったのに。突き刺さる針、ぷつり、かたく保とうとしていた輪郭はあえなく解かれ、体はとけだしてながれだして、からっぽになり、その空洞に冷えきった恥の意識ばかり詰め込まれていき、その恥も詰め込まれたそばからながれだしては、衆目を集めた。煩悶に次ぐ煩悶、凍りつき、立ち尽くし、震えながら瓦解する真白い指先。やわらかな、断絶。……この体をなにかに使うって?利用して、武器にして、道具にして、うつくしく磨き、……そうでなければ、そんな体は邪魔なだけだ、臓器を関節を痛めつけるだけだ、好きなだけ見られ触られ笑われ貪られるばかりだって、きっとそういうことなんだ。しかし、武器にしたところでどうだ。やはり貪られる。寿命をちぢめてでもチームの勝利のために戦えと、その長い脚で駆ければゴール下まではすぐだその膝で跳び手を伸ばせばリングからはずれたボールにただちに届くはずだ敵の選手を押し飛ばせるはずだと、ぼろぼろになるまで使いぬかれたあとに何が残るのかザカリーにはわからない。生きていてとくべつ楽しいことがあるわけでもないのに、臆病にも、いのちにしがみつき、できることならすこしでも、長く生きていたかった。そんなにもしがみついているいのちを削ってまで愛したいものが、せまいコートの上に、この街に、いやこの世界に見つけられるなどとは。そのようには、ザカリーには、思われなかった。代わりに。しずけく冷たい、凍りついた、薄い刃のような、敵意がある。

 おれの体はおれのものだ。かれらのものじゃない。おまえのものじゃない。勝手に使い道を見出してはしゃぐのはやめてくれ。見ないで。触らないで。離して、放して、もうひとりにしておいて、ただ在るだけにしておいて、だから。


 16歳。夏で、暑く、陽光がぎらぎらとしている。ザカリーは血の気のない顔で子どもの手を引いている。人を殺した。殺す意図はなかった。ただ、とにかく子どもに襲いかかるのを止めようと、力いっぱい職員を殴りつけた。その顛末。肉に爪を刺して握り締めた右の拳が、びりびりとしている、職員の返り血をきつく拭き取った皮膚が擦れた感覚があり、熱い痛みがある。左の手は、じぶんの半分あるかないかという背丈の子どもの手を震えながら握っており、ぞっとするほど汗で濡れている。緊張し、恐怖し、背筋がかたくこわばっている。子どもの手はやわらかいが痩せていて、やはり熱い。いままでいちども感じたことのない、全身の燃えるような熱と、背中に張りつく冷たい恐怖とが、ザカリーを急き立てている。茫漠としていた肉体の輪郭が強い線を結び、これがおまえの体だと、痛みで以て主張している。大股で早足で進む、走りはしないが逃げている。ストライドは、1.1メートル。追いつけるはずもない幼な子は、ほとんどザカリーに引きずられながら、懸命に小走りでついていく。

 「きみが、大きくて力の強い人で、助かった、」

 引きずられている幼な子が、喘ぎ喘ぎそう言った。

 「でなきゃ、僕もろともあいつに、口封じで殺されていたはずだから。きみは、望んでなかった、んだろうけど、一発で殺してくれて、結果的にはよかった」

 ザカリーは、振りかえらず、子どもを見下ろすこともせず、太陽の下を大股で歩く。眼前には陽炎の立つ道がつづく。唇は冷たく蒼褪め、震え、緑色の目だけが狂ったように焼けついていて、おれは、と繰り返し、声を出さずに呟いた。

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