海へ/海から


 エイデンのむかしの同胞が死んだということだった。報せが来たのは十月、晴れた朝のことだった。たんに死んだというより、公権力に殺されたというべき死に方だったらしい。エイデンがいまより若い頃、セクトでいっしょにアジテーションとかやっていたが、やがて方針の違いから決別した人だった。エイデンはその死を知らせる電子メールを読んで、無表情でどろどろのコーヒーを飲み、仕事をかたづけ、リビングルームのスクリーンの前に陣取って2010年代のアメリカの映画をひとつ観た。すげえ女性嫌悪と異性愛規範に満ちた映画だ、いかにも古い時代の映画って感じだ、でもアクションは派手でそこだけ楽しかったな。あと甘いものがおいしそうだった。レモンケーキとか。食べたくない? 食べたい。僕は食べたい。ケーキってつくろうと思えばつくれるんだよな、いつも途中で飽きるけど、でもやっぱおいしそうだったな、色もかわいい、いいかんじだった、こんどつくってみようかな、シチリアって行ってみたい、あっいまのはレモンで思い出したんだけどね。あ、あとで、観光地化と伝統文化のパワーバランスについての論文探そうかな。観終わったあと、エイデンは食卓から黙って様子を見ていたザカリー相手にぺらぺら映画の感想をしゃべりまくり、その後ぽつりと、あした海へ行こう、と言ったのだった。



 エイデンが海へ行こうと言えば、ザカリーも海へ行くのである。

 ザカリーは車の運転が嫌いだった。ペーパードライバーもいいとこであった。脚を押し込めるスペースが狭すぎてエコノミー症候群とかになりそうでいらいらするので、カーブなんかものすごく投げやりに切ってしまう。いまどき車に乗る人などあまりいないから道路がすかすかだったのが幸いして事故らずに済んだ。エイデンは助手席で窓を開け放ち、冷たい湿った風を浴びながら、ずっと早口でウミウシとクラゲの話をしていた。ザカリーはいらいらしながらがんばって、ハイウェイをずっと走り、砂浜のはしっこの駐車場にクソななめに車を停めた頃には昨日の秋晴れと打って変わって重い曇天が垂れこめていた。

 ザカリーはシートベルトを外しながら首をひねった。曇ってるし、まあまあ寒いし、風も強そうだ、はたして海に来るのに適した気候であろうか。昨日みたいな天気なら気持ちが良かっただろうが。けれどエイデンは気にしていないようで、「運転ありがとう!」とザカリーの頬にキスして、意気揚々と車を降りていくから、ザカリーは不思議そうに眺めた。おまえがいいならいいんだけども。


 ザカリーがパーカーを羽織って大仰に車を出るころには、エイデンは砂まみれのアスファルトを走り抜け、砂浜に立って暗い海をぐるぐる見まわしていた。三十手前とはおもえない軽やかさだった。ザカリーがゆっくり歩いて追いつくと、エイデンはしゃがんで黒っぽく湿った砂をほじくり、変な貝とか蟹とかをつまんで遊んでいる。ザカリーは黙って見下ろした。薄いシャツを一枚着ただけの、肩甲骨の浮いた、大人にしては痩せて硬そうなエイデンの背中を見ていると、いろいろなことを思い出すのだった。栄養失調とか暴力とか、そういったことも思い出したし、誕生日にエイデンが買ってくれたスーツとかも思い出した。エイデンは服を選ぶのが好きで、服を脱ぐのは嫌いだった。なまなましく不定形の肉と骨の輪郭を、直線的に裁たれた暖かい布地で囲いこむみたいに、エイデンはいつもいろんな服を着た。でも今日の背中は、さえぎるもののないはるか高い曇天の下、シャツ一枚で潮風にさらされていて、冷たそうで、いまにも肌にふれられそうな危うさに、ザカリーの喉がかすかに硬直した。エイデンが嫌だというから、ザカリーはぜったいに彼の裸を見なかった。出会った十九年前からのことである。

 見下ろしていると、エイデンがふいと顔を上げ、笑顔で言った。

 「ザカリー、おんぶしてくれ」

 ザカリーはじぶんを見上げる顔と声の調子に、いつもよりも濃い甘えを読み取った。「わかった」答えて、しゃがみ、エイデンが背中に覆いかぶさる。温かい。体格の差こそ親子みたいだけれど、どちらも大人で、背に抱き着いたエイデンの重みはそれなりのものだ。エイデンは小柄で痩せているが、それでもよほど棒きれみたいだった子どもの頃にくらべれば背が伸び、肉がつき、声だって低くなった。ザカリーは自分の首にまわされたエイデンの、骨ばった四角っぽい手を見下ろす。

 ザカリーは、俺は力が強くてよかったなと思う。


 エイデンをおぶってよいしょと立ち上がり、あらためて海を見やれば、巨大な空は暗い灰色、水平線のほうはすっかり黒く、青黒い海がゆるやかに揺れてどう、どう、と低い音をたてている。空の遠くで黒い鳥が旋回し、鳥よりもはるかに低い位置で監視用ドローンが滞空していた。潮風がザカリーの髪をばさばさと叩く。

 「…エイデン、おんぶしたけど、何すりゃいいんだ」

 「うーん」

 エイデンは衝動的な人間なのでまるで無計画だったが、あまり気にも留めず、目を閉じてザカリーの首筋に額を摺り寄せた。ザカリーの髪は安価なシャンプーのにおいがした。

 「まあ、あー、散歩でもしよう! 散歩は、あたまをリフレッシュさせ、あらたなひらめきを生みやすくするそうです」

 「散歩っていうか、歩いてるの俺だけだけど」

 「きみが嫌じゃなければ、こうやって散歩しようよ。嫌?」

 「うん? 嫌じゃないよ」

 断るほど嫌なことなんて今更大して何もない、運転だって嫌だったけど隣でエイデンが楽しそうにウミウシのセックスの話をしているから理性を保ち事故らないようにがんばった。雌雄同体で、フェロモンをヌルヌルって出すとか、そんな話。おんぶなんか運転に比べれば楽だし、むしろ好きだ。エイデンの言うとおりに、砂浜を踏みしめて歩いた。120キロを超えた体重にエイデンの55キロの重みがくわわって、ザカリーがひとあし踏むごとに、冷たく湿った砂にふかく黒い足跡を残した。

 「…ザカリー! 調子に乗って、遠くまで来ちゃったね、僕ら」

 エイデンはザカリーの背中でそう言った。ザカリーの背中は広く、大づくりな骨の上に静かな筋肉が乗っていて硬く、エイデンが子供の頃と変わらなかった。潮風に冷えた頬を温かな背中に擦り寄せ、まぶたを閉じた。

 「まあ、そうだな」

 ザカリーはうつむいて、己のひとあしひとあしを確かめていた。自分とエイデンとあわせて180キロ近い重みを、ひとあしごとに砂浜に刻んでいる、そのことをじっと感じとっていた。背中のエイデンは温かかった。潮風がどうと吹いてザカリーの髪を揺らした。鼻の先がづんと冷たくなる。押し殺したくしゃみをひとつした。背中でエイデンがひらたく笑った。かたかたと風が木製の細工を揺らすような笑い声をききながら、ザカリーは歩いた。砂浜は湾曲しながら細長くつづいていて、ゴールらしいゴールは見えない。おまえとならどんなに遠くへ行ったっていい、そう思ったけど言わなかった。エイデンのほうは、俺がいようといなかろうと、ただひとえにエイデンの能力ゆえに、どんなに遠くへだって行けるのだろうとザカリーは思う。それでいい。そういうのをすべてひっくるめひとりの生き物を愛している。それよりほかにはあんまり何もない。エイデンの温かな重みを背負い、黙々と寒々しい海辺を歩むうち、そのひとあしひとあしごとに、この世界がひどく静かなものに姿を変えて、ザカリーがエイデンを愛しているということが、ひとつのかがやく円柱のように、世界の中心に聳えていた。この世界はザカリーにとってあまりにも煩雑で、ちくちく毛羽立った汚い布で揉みくちゃにされているような感覚がいつもつづいた。予測のできない、明文化されない、かたちにならない決まりごとがいくつもあり、なんとか掴もうとしてもからかうようにすりぬけられて、残るのは棘のある視線だけだった。ずいぶん長い時間を、ボタンを掛け違えたような居心地の悪さに塗れながら生きているけれど、いまここでエイデンを愛していることは、何も間違えていないと思えた。あかるい色と、静かな冷たさと、ただしい眩しさが提示されて、ザカリーの前に道を引いた。だからその道の上をゆっくり歩いた。いまも歩いている。

 …ザカリーは目を伏せた。…冷え切った鼻の先に血が集まってかゆくなる。またくしゃみをした。潮風でごわついたザカリーの髪をエイデンが赤子のような手つきでいじった。無造作な親しさがあった。

 「ザカリー、寒くないか?」

 「…寒くはない。おまえがあったかい」

 そう、よかった、とエイデンは薄く笑んで呟く。ザカリーはいつもひどい猫背で、その大きな背中の丸いこごまりが、内に熱を孕んでいるのだなとエイデンは思う。背中をこごめて顎を引いて下を向いているから、陰の落ちた首にネックレスみたいな皺が二本刻まれていた。エイデンは日ごろ、その皺をなぞるのが好きだった。エイデンの指先が弧のかたちに首のつけねをなぞるのを、ザカリーは俺の首に切り取り線を描いているみたいだと思いながら、とくになんにも言わず黙って見ていた。日ごとの斬首。だいたい、なにに対しても無頓着な男だった。筋の浮いた太い首からつづく、なだらかな胸の肉のふくらみをも、エイデンはしばしばその指でなぞった。空高くから圧し潰されたような猫背だから胸がいくらか凹んで見えたけれど、実際には豊かな肉体だった。まだ三十代の半ばで、聴力にはちょっと問題があるが、それ以外はあらかた健康だ。

 ザカリーが力の強い男であることは、背中に抱きついているだけでもよくわかった。エイデンは潮風を痛いほど耳に感じ、硬直した背中の上で目を閉じた。鬱屈したように折曲がった骨の曲線がいとおしいと思った。はじめて会った日にも、うわすごい猫背だと思ったこととか、しかし猫背も無理からぬ長身だなととっさに身長を目測したこととか、ぶっ殺した職員の返り血に濡れたザカリーのおおきなこぶしが、とても硬そうだったこととかを、エイデンはこうしてザカリーにふれていると、何度も何度でも思い出す。背中の硬直も、Cという字の右側みたいに凹んだ腹側に潤む熱も、エイデンは好きだった。ずっとずっとエイデンを守ろうとしてくれたからだだった。ザカリーの胸のほうに手を回し、豊かな熱を手でたしかめた。ザカリーはエイデンの骨張った手が首からさがって自分の肉の柔らかさを確認しているようすを見下ろし、少し擽ったいと思いながらも、何を言うこともなくゆっくりと歩いていた。エイデンがしゃべらないからザカリーもしゃべらなかった。もともと寡黙な男だった。

 「ザカリー、あのさ、僕、重くない?」

 「重くないよ、エイデン」

 「そうかあ。ならよかった」

 エイデンの声は嬉しそうだ。ザカリーはつとめて、ゆっくりと歩く。

 エイデンはいますこし、すこしだけ。すこしだけつらいのだな。旧友が死んでも、エイデンは泣き崩れたり打ちひしがれたり、したたかに酒をのんだりはしない。ただそれでも、すこしだけ、つらいのだと、ザカリーにはわかる。



 そうやってずっと長いこと歩いて、終わりが見えてきた。白っぽいコンクリートの防波堤に侵されるようにして、砂浜が細く細くちぎれている。鼠色の砂浜の端から、透明で黒っぽい海水が寄せては流れ込んで泡立っていた。ザカリーは足を止めた。ここまでの足跡が搔き消される。海はごうごうとゆるくうねりひとつのひろい巨大なかたまりとして揺れる。エイデンはザカリーの肩に手を掛けてうしろを振り返り、すんすんと鼻を鳴らして海を嗅いだ。

 「ザカリー、きっとじきに雨が降るね」

 「うん」

 「雨が降ったら寒くなるね」

 「そうだな」

 「海面に銀色の矢みたいに雨が、たたたたって……」

 「……ああ」

 ぼんやりした答えが返ってくる。

 エイデンは何度も空気の臭いを嗅いだ。暗い海辺を綯う潮風は、故郷の海とは臭いが違うような気がした、いや、故郷の海なんてもう曖昧な記憶だが。温暖な山間にある小さな村、オレンジの屋根の家がところせましと並び、木漏れ日をうける砂地や石畳を駆けていくと、家々の隙間から青緑の海がきらきらと輝くのが見えた、そういう風景。戻りたいとは思わないが、ずいぶん遠くへ来たなあ、という感慨のようなものも、脳を探せばないこともなかった。観光客にも好まれていた牧歌的な風景は数年間の戦火に消えたし、荒れはてた村を捨てたのはもう十九年も前のことだった。

 おぼろな記憶を吹き飛ばすようにどうと冷たい風が吹く。見開いた目にさあと冷たさが沁みる。ザカリーの髪が揺れてエイデンの顔に纏わりつく。エイデンはザカリーの大きな体からひょいと飛び降りた。砂まみれの靴を脱いで靴下を丸めこみ裸足になって走り波打ち際へ突っこんでいく。そのままざぶざぶと青黒い海へ入った。海水の冷たさに毛穴が縮んだと思ったらすぐに温くなった。

 「おい、エイデン! 着替え持ってきてないだろ!」

 「ねえ、意外と冷たくない! ザカリーもおいでよ」

 エイデンは青黒い海に膝まで浸かって海と一緒に揺れながら手を振る。ザカリーは砂浜に立ち尽くし首をかしげていたが、すこし考えたあと、言われるままスニーカーを脱いだ。エイデンは運動神経が悪いし、急に強い波がきたらバランスを崩すかもしれない。すこし気が急いてか、靴下を脱ぐときよろめいて、俺も歳だなと思った。

 スラックスを膝までまくりあげて顔を上げた。

 暗灰色の緞帳に黒い舞台、ゆらゆら揺れて無邪気な笑顔のエイデンは子どもみたいだった。

 …ザカリーは黙る。


 ひんやりとした砂浜を裸足で歩くと足の裏がやわらかい砂に迎えられる。いきものの肉のような冷たさがある。波打ち際の白い泡に、そっとつま先を入れると、足の指の間を水にしゃわしゃわと撫ぜられる感触がこそばゆい。そのまま進み入る。冷たいが、思っていたよりはずっと温かい。海水が重く撓み脚が揺れる感覚がすこしおもしろく、たしかにエイデンはこういうのが好きだろうなと思う。ざぶざぶとゆっくり歩いてエイデンのところまで向かうと、エイデンがザカリーにちょっと近づいて、微笑んだ。エイデンが腰に手を回した。エイデンの指先はすこし濡れていたから、ザカリーのスラックスの一点が冷たく濡れた。

 「きみ、脚長いから、膝まで濡れないんだ。あー。そういう観点からはうらやましいかも」

 「おまえズボンびっちょびちょじゃん……風邪ひくぞ」

 「うん。帰りにそのへんの店で安いズボン買おうかな」

 「……ズボンなんか服屋以外で売ってるか?」

 「海の近くの店なら売ってそうでしょ! なければまあ、まあ。おとなしく風邪ひくよ」

 エイデンはいつも衝動で突っ走って、あとから辻褄合わせに奔走する。気まぐれだ。けれど嫌ではない、ちょっと困りはするけど、なんだかんだ快く、ザカリーはどこへでもついていける。仕事でもこういうふうにやれたらいいのになと思う。仕事だと、想定外の要求をされたり急に予定が変わったりしたとき、たっぷり十秒ぐらいは呆然とするし裏切られたような気持ちで、その後しばらく動きも鈍くなる。そのタイムラグをどんくさいと叱られては、反省するでもなく適当に頭だけ下げている、そういう甲斐のない労働生活を若い頃からつづけているのだった。仕事はややこしいけどエイデンはシンプルだからだろうな、と、水面から足を蹴り上げて遊んでいるエイデンのつむじを見下ろして思う。

 エイデンはビー玉みたいで、「僕が楽しそうだと思ったから!」、それだけの簡潔な、けれど何よりも雄弁な説明を提供して、それでおしまいだ。金色の目がぴかぴか光って、子どもみたいな乾いた頬が笑って、そうしたらもう話はかんたんだった。

 エイデンが楽しそうに笑うのを見つめていると、ザカリーの世界はもはや煩雑ではなく、静かになる。エイデンが重い波を腿から蹴り上げる音と、潮風、海のうねり、ざざ、ざざ、と砂浜に這い上がり落ちる波の音だけがきこえて、そのほかのすべては黙りこくっていた。


 「ザカリー、きみってそうやって海に立ってると、そのまま沈んでいくみたいに見える」

 「え……そんな暗……自殺しそうに見えるか」

 「いや、そういうわけでもないんだけど。海の深いところまでそのままずんずん進んでいって、頭まで沈んでいなくなっちゃいそうだ。海が似合うのかもね、ウン! そんなかんじ、とくにこういう、暗い海……ひろくておおきくて揺れてるの、よく似合うよ。海が似合う男じゃん。海が似合う男ってかっこいいって言うよね。ちょっと古臭い? むかしのロマンティシズムかも」

 「……結局暗いって言ってないか?それ」

 「え? 僕今そんなこと言ったかね」

 「暗い海が似合うって」

 「いや暗いものが似合うのと暗いのはまたべつでしょ! それはそれとしてきみは暗いけど。でもすてきじゃん。暗い人、僕好きだよ。知ってるだろ。愛してるよ」エイデンは好き勝手しゃべって、はいはい俺も愛してるよ、でも確かにそうかもしれないとザカリーは思う。

 「あー。おまえは変に明るいけど、それでもなんか似合ってるし。そういうもん、かも」

 「そうか!? 似合う? えーじゃあとで写真撮ってよ僕と海の」

 いつものハイテンション。はいはい撮るよとこたえながらザカリーは、こごまった猫背をゆっくりと伸ばし頭を上げて、遠くの黒い水平線を見る。というよりまっすぐ対峙するかたちになる。とたん、薄く冷たい恐怖が胸の奥を浚った。砂浜から見ていたときには、ごうごうとおおきなうねりになって満ちていた青黒い海も、暗い曇天も、潮風の冷たさも、こわくなかった。けれどいま、海の中に脚を入れてふたりで立ち、はるかはるか遠くむこうの大陸からここまで押し寄せてきた巨大な波に脚を掴まれて揺られていると、心細くなった。空も海も暗く険しく、あまりにも広かった。温かいものは腰にまわされたエイデンの腕と、密着している彼の肩ぐらいだった。風が何度も頬を打つ。足元が揺れる。ザカリーの髪は潮風で絡まっている。

 「……エイデン、まだ出ないのか」

 「海から?」エイデンはザカリーを見上げる。ザカリーをじっと観察する。

 「うん」ザカリーは水平線を見つめたまま頷く。緑の目が動かない。かぎりなく無表情に近い顔で、けれど狭い眉間のあたりに、わずかな不安がわだかまっている。

 「……海、こわくなったか?」

 エイデンは微笑んで言った。ザカリーはゆっくりと、エイデンの遠いほうの肩に手をまわしながら口を開く。エイデンは頭を傾けてすこし、ザカリーにもたれる。

 「……俺、内陸育ちだし……」

 何年前の話だよ、とエイデンはおかしそうに笑う。

 「きみだってゴムボートに乗って荒波をえんやこらやと渡ってきたんだろ」

 「それこそ何年前の話だよ……。あの頃はほんとうに、どうでもよかったんだよ、いろいろ」

 ザカリーは寒そうに目を細めて黒い水平線を睨んでいる。

 いまは違うの? どうでもよくないものが増えちゃったの? エイデンはこころのなかで戯れに問うてみて、口には出さない。つねに頭をかけめぐる数えきれないほどの思考のうち、口に出すものを注意ぶかく選別するすべを、エイデンは三十年にわたる努力をつうじて会得しつつある。ザカリー、この男は要領が悪く、あまり多くのものをいっぺんにかかえては歩いていけないのだと知っていた。海がこわくっても、僕が砂浜へ上がらないかぎり、このひとはいつまでもこの黒い水のなかにいるだろう。大変なひと。

 「わかったよ、もうだいぶ寒くなってきたしね、僕もそれなりに満足した! こんどはあったかい日にでも来ようぜ」

 エイデンは叫んでばちゃばちゃと重い海水を脚で掻き薙ぎ払い雫を纏いながら砂浜へ走りあがった。ザカリーは、あ、おい、と口の中で呟きながら、もたもたと追いかける。なまぬるく揺れる海からざばりと出て、境界線を抜け、濡れた肌が冷たい新しい乾いた空気にふれると、切り裂かれるような心地がした。陸も海もどっちもこわい、いやだな、とぼんやり思った。

 「靴を濡らすとめんどうだから、裸足で車まで戻ろう」

 「ん」

 「ガラスとか落ちてるかもしんないし気をつけてね」

 エイデンは片手にさっき脱いだ靴下と靴を持ってぺたぺたと歩いていく。灰色の砂浜に、黒いあしあとがひとつずつふえていくのを、じっとうつむいて目で追いながらザカリーは歩いた。

 エイデンが散らかした部屋をぽつぽつ片づけていくときのことを思い出した。エイデンは勉強とか仕事で頭が詰まっているといつにもまして片づけができなくて、読んだ本、食べたもの、使った食器、挿したコード、ひとつひとつ、あしあとみたいに残していく。それをうつむいてかがんで、ひとつひとつ拾っていく作業がわりと好きだった。その作業にはきちんと道筋があって、エイデンの生命の痕跡は、いつでもただしかった。



 エメラルドグリーンの車に乗り込む。寒い寒い暖房かけてくれタオルどこ、うわあったけえーあっ僕が運転するよ行きはきみだったからね、おなかすいた帰ったらラーメンたべよインスタントのやつ、トマトあじ…とエイデンは騒がしくて、ザカリーは助手席で目をつぶった。冷たくなった脚を暖房の熱がぶわ、ぶわ、と這いのぼり、やがてけだるさに変わる。手の指先が熱をもつ。リラックスした曲調のトルコ語のヒップホップが端末と同期した車のスピーカからながれて、ところどころ聞き取れる単語をひろいながら目を閉じたままでいる。恋についての、たぶんわりとありふれた歌詞のラップで、エイデンこういうのも聴くんだ、と思ったが、そういえばこの子は押韻を聴くと赤子みたいにキャッキャ笑うのだった、歌詞の内容よりも押韻が楽しくて聴いてるんだろう。なんかもう韻踏んでるとさあ理屈抜きでウケる、とか言っていた。

 俺の地元に来たら笑い死ぬのかな。ギャングスタ・ラッパーにどつかれそうでやばいな。

 「ザカリー、海きてくれてありがとう」

 「んあ」

 不意打ちで礼を言われたので、寝起きみたいな返事しか出なかった。ザカリーはすこし目を開けて、んん。ともう一度改めて返事をした。エイデンはまっすぐ前を見て、口角に清潔な微笑をうかべている。窓の外では薄暗い光が黒い海をふちどっており、重たげにただれた黒っぽい雲の隙間からまぶしい光線がまっすぐ海に落ちていた。エイデンの頬はそのわずかな光を白く帯びていた。

 「死んだ人さ、きのうメール来た人、全然僕と仲良くなかったんだよね」

 「……そうか」

 「というか、むこうが僕のこと嫌いだったって感じ。僕はほら、みんなのこと好きだから」

 「……うん」

 ザカリーは目を開いてうなずく。何があったかは知らない。ザカリーはエイデンの相棒ではあるがエイデンが参加している活動のすべてにみずからも参加しているわけではないし、細かい部分までは干渉しない。それにその人とエイデンが一緒にいたのは、もう十五年も前のことだ。その日の暮らしでいっぱいいっぱいな中で、たぶんいっぱいいっぱいだからこそ、エイデンは転がる火花のようにあっちこっちの団体に顔を出して色んな事をやっていた。ザカリーはあまり干渉しなかった。でもいつも、いつかこいつはこういうことをやっているうちに死ぬんだと思っていた。そうしたらどうやって生きていけばいいんだろう。わからないので、エイデンが配る用のビラを印刷したり、デモで投げる用の火炎瓶を量産したりして暮らしていたのだった。拭きとっても拭きとっても腹のあたりから滲みだしては下肢を汚す、あらゆることへの怒りと絶望とに、戸惑いがまじって、液体が重なって固まったごぼごぼの表面を力ずくでなめすように作業を続ける日々だった。

 いまでも大して変わってはいないのだが。

 「だから、あの人を殺した権力がマジで最悪って話ではあっても、個人間の思い入れみたいな意味では、そこまでショックでもないんだけどさ。ザカリーがいっしょに来てくれて、よかった」

 「……どこでもついてくよ」

 これは言わねばならないことなので、運転するエイデンの横顔を見下ろして、はっきり言っておく。エイデンはひょいとザカリーを見上げて、子どもみたいに破顔した。指をミルクに浸すような甘えと、燃える剣を手渡すような信頼が、砂のこびりついた笑顔にうかんでいた。ザカリーは眉をしかめてしばらくその顔を、痩せた肩を、ハンドルを握る骨張った手を眺め、短く忠告した。

 「……前見て運転して」

 「AI搭載車だしだいじょぶだいじょぶ」

 「はあ」

 「ね、ずっと一緒に行こうね。ザカリー」

 「……今日はもう家帰るだけだろ」

 「ふふ。それはわかってるよ」

 そういえばどうして行き先が海なのか訊かなかったな、とザカリーは思った。エイデンはよくわからないことをたくさんする。よくわからない光を追いかけてよくわからない方向に走っていく。海に来た理由も正直よくわからない。けれどエイデンが満足したようだからザカリーはどうだってよくって、また目をつぶり、エンジン音と海の音にゆられているうち、やがて眠たくなった。

 まどろむ意識が、暗い海のことを考える。海から生えてきたみたいに、笑って立っていたエイデンのことを。海に足を沈める感覚、海から生まれてきたことを考える。冷たい砂地にずぶずぶと沈みながら、背が高いので腰までしか濡れない。息はできる。遠い水平線が暗く光りながら見える。


 轟き鳴り続ける海沿いのハイウェイを、エメラルドグリーンの車がおおきくカーブして走っていく。

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