『ぬかるんで星』収録済み短編集
@gyouzamochimochi
卵になる日
大きな獣が子を産むようだとエイデンはぼんやり思いながらサンドイッチをほおばった。ああこれ、マスタードをいれすぎた。ぶ厚いヴィーガンハムのもそもそとした塩気が、マスタードのすっぱい黄色さの波間からたまにちょこちょこ顔を出すといった具合だ。乾ききって耳の端っこがぽろぽろと落ちる六枚切りの食パンを口に突っ込んで、パンの角が硬い、と片眉を上げた。アパートを出て街路樹を進みふたつ角を折れたところの、戦後に建てられた薄緑の屋根屋根のうちに押し込められてへしゃげたような食料品店で新移民の老爺から買った食パンで、店の商品展開はそこそこに粗末だったものの、エイデンとザカリーはほとんどお布施みたいなつもりでよくその店から食料を買っていた。売られているものはどれも市販品だったが、店主である老爺は唯一豆のペーストみたいなものを手作りしていて、強いて言えばその味が気に入っていた。今日の朝ごはんのときにも出しておいて、パンに塗って食べた。けれどザカリーは食べていない。薄い味がよくわからないという味覚の鈍いかれが、めずらしく気に入っている薄味の食べ物なのに。今朝からザカリーはずっと部屋の隅で毛布をかぶってまるく潰れていた。毛羽立ったピンク色で、子ども向けアニメの馬型のキャラクターたちが描かれた毛布はまったくザカリーの肉体に足りておらず(精神面については如何とも判じ難い)、長い髪とグレーのスウェットの腕とストレッチ生地のジーンズの尻と穴の開いた靴下を履いている両足がぜんぶ出ていた。
「ザカリー、逆に寒くないの?それ」
ヨーガの、チャイルドポーズ、というやつ。エイデンは油臭いキッチンからザカリーを見て、去年の夏の暮れのこと人文科学キャンパスの前庭に据えられたちょっとすてきなベンチで、元交際者の潔癖で情熱的なリカルドが、アメリカのネオリベ的なカルチャーがヨーガを通じていかにインドの伝統をホワイトウォッシュしているか、口角泡を飛ばして語っていたようすを思い出した。きらきらした緑の草むらは夏の陽光で黄色っぽく見え、リカルドはなんだか劇団員みたいな格好をしていた。やたらとキャンプな装飾がきらめく、シースルーのシャツを羽織っていた彼の赤い髪だとかを思い出して、エイデンはすこしだけ寒々しい気分になった。彼のことは好きだったしいまでも好ましく思うが、おまえの作為的なふるまいの薄っぺらさがときどきがまんならない、とたいそうな悪口を言われ、やるせなくなったので恋愛関係を終わらせたのだった。そう、かれの言うとおり。僕は作為的な人間で、腹のちぎれるような怒りだとかお尻の奥が痛むような恥だとかを体感できないものだから、どうせリカルドのことだってザカリーのことだって(どちらも直情型の、情緒不安定な男であるという点で共通していた)、真にこころからは理解できないんだ。悪かったね。
キッチンで少々機嫌を損ねたように唇を噛んで、唾液を吸い上げるような音を立てたエイデンに、底冷えのする床でまるまっているザカリーはのろのろと反応した。
「そんなに…寒くない。暑いとか寒いとか、いつも、よくわからんし」
「前から提案してるけどさ、精神科行きなよ、そんで検査受けなよ。ね?僕がついてってあげるから」
エイデンはキッチンに立ち、みかんの皮をむき始め、房がくっついたままのを口に放る。いやだあ、と思いながらザカリーは平たく床に潰れてしまった。理性的に考えればたぶん、診断を受けて、自分がどう機能しているのかをより正確に知るのがいいとか、なんとか(それにエイデンはいつも正しい)。それぐらいの思考は濁った脳にもできたが、いまのザカリーにとってはそれらはなにもかも白昼夢みたいで、現実といえばただ、目の前に落ちている綿埃の尾っぽとか、スウェットの毛羽立ちとか、部屋の外に出たら人間という人間に歯を見せて笑いかけられそうな気がして膚がひりひりし腹の底が重く痛むこと、それに床板をみんな引き剥がして折りたいほどの無念、悔しさ、破滅、大火、そのようなものばかりだった。
「ねえでも、風邪ひくよ。ベッドで寝たほうがいいんじゃない。確かにきみはあんまり風邪ひいたことないけど、ウンでも、きょうはきみの免疫にとってスペシャルな日って可能性もあるし。スペシャルっていうのはあれだよ、スペシャルにアンラッキーってことだよ。ねえ」
エイデンの足がぺたぺたと近づいてきて、柑橘類のにおいがする。スポンジボブという昔のアニメの絵がプリントされている短い靴下を履いていて、黄色いチーズみたいなからだをした海綿のキャラクターが、ザカリーの鼻面の前で善良そうな笑顔を浮かべていた。二週間前駅の売店でエイデンがその変な靴下を買ったとき、そのキャラおまえに似てるなと言ったら、エイデンが隙間だらけの歯を見せておもしろそうに笑ったのをザカリーは思い出した。あのときはまだ俺も精神がまともで、部屋の外に出る体力があって、ふたりで植物園に行って小さいサボテンの鉢をかかえて帰って、その道すがら靴下を買ったんだった。エイデンはオレンジ色のダウンを着てて俺は黒いセーターを着てて、家を出る前にセーターのタグを切るのを忘れてしまったなとずっと微妙に気にしていたら、エイデンが駅のトイレの個室で俺の背によじ登ってタグを噛み切ってくれた。サルの親子みたいだった。青緑っぽい電灯の下でエイデンは前歯でタグを噛みぶちりと切り裂き、舌をべえと出してへばりついた白い糸を見せた。それから便器の蓋の上に座ったまましばらく毛づくろいみたいに、髪を編んだりしてもらった、あとはただメトロに乗って家に帰るだけだったのに。
「…ベッドに上がる気力が、なくって。体が重いから」
「ふーん、そうかあ」
エイデンはくちゃくちゃとみかんを頬張りながら傍らにしゃがみ込む。床に手をついてザカリーの顔を覗き込んだ。ザカリーは顔をそむけようかそむけまいか一瞬の間悩み、ぎこちなくそのまま停止して、つまりそむけなかった。ひからびた悔し涙の名残りに赤く濁った眼球で、ちょっとだけエイデンの顎のあたりを見上げた。
「みかんあげる」
「…ん、ああ、…げっ」
ひび割れた厚い唇の間にみかんの房を差し込むと果汁が奔流したのかザカリーがすこし噎せた。エイデンは床板に膝をつき、肘をつき、背中を丸め、上半身をよじって、ザカリーのほうを見つめながらヨーガのチャイルドポーズをつくった。ふたりならんで大きな卵のように床に潰れて、じっと真顔で見つめあった。エイデンの目の下にはいつもどす黒い隈があって、その隈がこぼれ落ちそうなアンバーの瞳の明るさをひきたてている。皮膚の柔らかそうな下瞼に薄いそばかすが散っている。ひどくきらきらしたエイデンの目をザカリーは見つめた。草食動物と同じ横長の瞳孔がどこを向いているのか即座にわかるようになるのに、出会ってから二年ほど要した。ただでさえ人の目を見るのは苦手だったから。エイデンのほうもザカリーを見つめた。鼻の頭の骨の隆起はアメリカ西部の赤い岩みたいで、長いまつ毛とくすんだ緑色の瞳はエイデンの故郷にいたシリア人たちによく似ていた。泥のように重たそうな眼付きでエイデンを見つめ、まばたきをするたびに涙が散って、唇の端にみかんの白い筋がくっついていた。いちばん栄養価の高いところ。アルベド。
「きみの人生って、どうしてもこうやってヨーガのまねみたいなポーズしてなきゃいけないときがあるの?」
「ヨーガ?…ヨーガはよく知らねえけど、そういうときはある」
「リカルドはね、ヨーガの商業利用が気に食わないみたい」
「リカルド、…ああ、…おまえの元彼」
「そう、僕の元彼」
エイデンはくすくすと笑い、乾いた薄い唇が横に伸びて隙間だらけの歯が見える。隙間が大きいからみかんの果肉が新鮮なまま挟まっている。かれの歯を見て、ザカリーは歯医者の予約をもう三回すっぽかしていることを思い出し、このままでは奥歯が折れると歯医者に警告されたことも思い出し、ますます身が重くなるのを感じた。体はどこまでも、どこまでも無尽蔵に重くなり、質量保存の法則とザカリーの精神とを自由に無視しかるがると飛び越えて、ずいぶんと無敵そうだった。エイデンはザカリーの眉の上のほくろをじっと見つめていたが、しばらくして窓のほうに目をやってつぶやく。
「なるほど、こうしてると、息がゆっくりできるね。天井が高いし。あおむけに寝っ転がるのとはまた違う感じ。暗さがあって、やわらかい感じ。それと、床って冷たいと思っていたけど、ひっついてるとちょっとあったかいんだな」
「…うん」
「窓の外は明るいね、今日曇ってるけど。白っぽくて。明日雪が降るかもって天気予報がさ、言ってたよ」
「うん」
「ザカリー、転ばないように気を付けなよ」
「…転ぶのはいっつも、おまえだけど」
長いまつ毛をしばたいてザカリーはそう言い、エイデンがけらけらと笑うと口からみかんとマスタードの混ざった変なにおいがした。ふたりして床に潰れたままエイデンは片腕をあげてザカリーの長い髪を撫で、かれの耳に掛けては、かれがくるまっているピンクの毛布の上へ流してやった。軟骨のしっかりしていそうなザカリーの耳朶とそこに生えた産毛が、曇天の眩しさにほの白く光っていた。エイデンにはやはりザカリーの痛みは理解できず、なにがそんなに悲しいのかもよくわからなかったが、床にへばりついて過ごすのは悪くなかった。暗い卵のようにふたりならんでいると、息の音、肌のざらつき、くぐもった温かさがよくわかる。リカルドともたまにこうして過ごして、おたがいのまつ毛を見つめていればよかったのかも、とエイデンはすこしだけ思って、でもそれは終わった恋だった。エイデンは指先でザカリーの髪を撫で、まるく切り揃えた爪の先で頬骨を撫で、ザカリーはひび割れた奥歯の軋みに屈服して目を瞑りながら、エイデンのかぼそい肩をそうっと慎重に撫でた。
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