第2話 壊れた仮面 ②

玲子が自宅に帰ると、時計の針は深夜を回っていた。家の中は静まり返り、直人と子どもたちはすでに眠りについている。リビングルームに入ると、直人が作り置いたキャンドルが柔らかな光を放ち、部屋を温かく包んでいた。その光景に、玲子は一瞬だけ心の平穏を感じたが、すぐに現実の冷たさが押し寄せた。


彼女はキッチンに向かい、冷蔵庫から水を取り出し、一杯のグラスに注いだ。その冷たい水を飲み干すと、思わず目を閉じた。彼女の心の中には、雅也との会話が反芻されていた。彼の言葉はまるで遠い昔の記憶のように響き、玲子の胸に温かさを残した。


だが、その温かさも束の間のものだった。玲子は静かに階段を上り、子どもたちの寝顔を見に行った。美咲、颯太、愛菜――それぞれが無垢な表情で眠っている。その姿に、玲子はふと涙ぐんだ。自分がどれだけ母親としての役割を果たせているのか、疑問に思わずにはいられなかった。


彼女は寝室に入ると、直人がベッドで眠っているのが見えた。彼の寝顔は安らかで、玲子は一瞬だけその顔を見つめた。キャンドルの光が彼の顔を柔らかく照らしているが、その光は玲子の心には届かなかった。


玲子は静かにベッドに入ると、直人の背中に手を伸ばそうとしたが、途中でその手を引っ込めた。彼との距離は、物理的な距離以上に遠く感じられた。彼女は背を向け、目を閉じた。


「どうして、こんなに遠く感じるの…」心の中で呟いたその言葉は、虚空に消えていった。


翌朝、玲子はいつも通り早く目を覚ました。家族がまだ眠っている間に、彼女はキッチンで朝食の準備を始めた。キッチンの窓から差し込む朝の光が、玲子の顔を照らす。その光は彼女の心に希望をもたらすことなく、ただ冷たく照らすだけだった。


直人が起きてきた時、玲子は彼に微笑みかけた。「おはよう、直人。今日は少し早く帰れるかもしれないわ。」


直人は短く返事をし、コーヒーを淹れ始めた。その無言の時間が、玲子の心に重くのしかかった。彼女は心の中で叫びたかったが、その叫びは声にならなかった。


子どもたちが起きてくると、玲子は母親としての役割を再び演じ始めた。彼女の笑顔は作り物であり、その背後には深い孤独が隠されていた。


「ママ、今日も撮影?」

「そうよ、美咲。でも、帰ったら一緒に遊びましょうね。」


玲子は子どもたちを学校に送り出すと、ドレッシングルームに向かった。鏡の前に座り、自分の顔をじっと見つめた。化粧を施し、完璧な大女優の仮面を作り上げるその瞬間だけが、彼女にとっての現実逃避だった。


「今日も頑張らなくちゃ…」


玲子は自分に言い聞かせるように呟き、舞台に立つ準備を始めた。鏡に映る完璧な仮面の奥には、誰にも見せることのできない本当の自分が隠されていた。その自分と向き合うことが、彼女にとって一番の苦痛であり、一番の救いでもあった。


車でスタジオに向かう途中、玲子はふと雅也のことを思い出した。彼との関係が、彼女にとって唯一の心の拠り所であることを再確認しながら、玲子は深く息を吸い込んだ。スタジオに到着すると、スタッフや共演者たちが笑顔で迎えてくれた。玲子はその中で、再び大女優としての仮面を被り、撮影に臨んだ。


玲子がスタジオに到着すると、今日の撮影は彼女の感情を深く揺さぶるシーンであることが告げられた。監督は玲子に期待を寄せており、彼女もまたその期待に応えようと決意を新たにした。化粧を終え、衣装を身にまとい、撮影の準備を整えた玲子は、心を落ち着けるために一人スタジオの隅で瞑想していた。


「玲子さん、大丈夫ですか?」雅也の優しい声が聞こえ、玲子は目を開けた。彼は穏やかな笑顔を浮かべて、玲子の隣に腰掛けた。


「雅也さん、ありがとう。今日は少し緊張しているの。」玲子は微笑み返しながらも、その笑顔の裏には不安が隠れていた。


「君なら大丈夫だよ。いつも素晴らしい演技を見せてくれるじゃないか。」雅也の言葉は玲子の心を和らげた。彼の存在が、彼女にとってどれだけ大きな支えになっているかを改めて感じた。


撮影が始まると、玲子は役に没入し、感情を全て吐き出すような演技を見せた。涙が自然に溢れ、心の底から湧き上がる感情がスクリーンに映し出された。雅也もまた、玲子に引き込まれるようにして、彼女の演技に全力で応えた。


シーンが終わり、監督から「カット!」の声が響くと、スタジオは静まり返った。スタッフたちが拍手を送り、玲子と雅也の演技に感嘆の声を上げた。


「素晴らしい演技でした!玲子さん、雅也さん、お疲れ様でした。」監督が駆け寄り、二人に声をかけた。


玲子は深く息を吐き、緊張の糸が解けるのを感じた。「ありがとう、監督。雅也さん、あなたがいてくれて本当に良かった。」


「僕もだよ、玲子さん。君と一緒に演じることができて幸せだ。」雅也は真摯な眼差しで玲子を見つめた。


撮影の後、玲子と雅也はスタジオを出て近くの公園へと向かった。夜風が心地よく、二人はベンチに腰掛け、静かに話し始めた。


「雅也さん、あなたがいるから私は頑張れるのかもしれない。あなたが私の心の支えになっているの。」玲子は正直な気持ちを打ち明けた。


「玲子さん、僕も君がいるから強くなれるんだ。僕たちはお互いに支え合っているんだよ。」雅也は玲子の手を取り、そのぬくもりを感じた。


夜空には星が瞬き、二人の間には深い絆が生まれつつあった。その絆が、玲子にとって何よりも大切なものであることを、彼女は確信した。


「これからも、ずっと一緒に頑張りましょうね。」玲子は微笑みながら雅也の手を強く握った。


「もちろんだよ、玲子さん。僕たちは一緒に歩んでいこう。」雅也もまた微笑み返し、二人の心が一つになる瞬間を感じた。

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