【完結】家族との愛、秘密の恋――その選択は運命を大きく変える。 成功の影で揺れる心、破壊と再生の物語。 圧倒的な感動と共感がここにある。

湊 マチ

第1話 壊れた仮面 ①

東京の夜、ビル群のネオンが煌々と光り、街はまるで眠らない巨大な機械のように動き続けている。車のヘッドライトが流れ、行き交う人々の喧騒が辺りを包む中、一人の女性が静かに立ち尽くしていた。彼女の名は桜庭玲子。大女優としての名声を欲しいままにする彼女も、この夜空の下ではただの孤独な一人の人間だった。


玲子は、足元を見つめながら、ふと顔を上げて夜空を見上げた。星はほとんど見えず、代わりに無数の街灯が光の粒を散りばめている。彼女はため息をつき、心の中で呟いた。「ここには、私を理解してくれる人はいないのかもしれない…」


玲子の思いは舞台にあった。舞台の上では、彼女は誰よりも輝く存在だった。スポットライトに照らされるその瞬間だけが、彼女にとっての唯一の安らぎだった。しかし、舞台を降りれば、彼女の心には虚無が広がる。家に帰っても、待っているのは冷え切った家族の風景だった。


その夜、玲子はいつもより遅く家に帰った。玄関の扉を開けると、暗い廊下が静かに迎え入れた。夫の直人と3人の子どもたちはすでに寝静まっているようだった。玲子は靴を脱ぎ、静かにリビングルームに入る。そこには、直人が作り上げたキャンドルが美しく並べられていた。柔らかな光が部屋を包み込んでいるが、その温かさは彼女の心には届かない。


玲子はソファに腰を下ろし、スマートフォンを手に取った。SNSには彼女の最新の舞台に対する賞賛のコメントが溢れている。「素晴らしい演技でした!」「玲子さんのファンです!」しかし、その言葉の数々も、彼女の心を満たすことはなかった。


そのとき、ふと玲子の目に一通のメッセージが飛び込んできた。それは、共演者の長谷川雅也からのものだった。


「今夜の公演、お疲れさまでした。あなたの演技には、いつも心を動かされます。」


玲子の心は、少しだけ暖かくなった。彼女は返信を打ち込む。


「ありがとう、雅也さん。あなたの演技も素晴らしかったわ。」


その短いやり取りが、玲子にとっての小さな救いだった。彼女はスマートフォンを置き、ふたたび夜空を見上げた。窓越しに見える星は少ないが、遠くに小さな光が一つ、瞬いているように見えた。その光が、玲子の心の奥底にわずかな希望を灯した。


翌朝、玲子はいつものように早朝のランニングをしていた。街はまだ静かで、通りにはちらほらとジョギングする人々の姿が見える。玲子はいつも決まったコースを走りながら、自分の内面と向き合う時間を過ごしていた。日常の喧騒から逃れ、自分自身を見つめ直すこのひとときが、彼女にとっての心の癒しだった。


玲子の思考は、昨日の雅也とのメッセージに戻った。共演者としての彼との関係は、彼女にとって特別なものだった。彼だけが、自分の孤独や不安を理解してくれる存在のように感じられた。しかし、それが本当に友情なのか、それとももっと深い感情なのか、玲子はまだ自分でもはっきりとわかっていなかった。


ランニングを終えた玲子は、自宅に戻るとシャワーを浴び、朝食の準備を始めた。キッチンには夫の直人が作り置きしたキャンドルが並んでいる。その温かな光が部屋を照らしているが、その光は玲子の心に届くことはない。


直人は夜遅くまでキャンドル制作に没頭することが多く、家族との時間を持つことは少なかった。玲子もまた、撮影や舞台のリハーサルで多忙を極めていたため、夫婦の間には深い溝ができていた。直人はキャンドル制作に情熱を注ぐあまり、玲子との会話も減り、二人の間には冷え切った空気が流れていた。


子どもたちが起きてくると、玲子は母親としての顔を見せる。長女の美咲、長男の颯太、そして次女の愛菜。それぞれの子どもたちの世話を焼きながら、玲子は微笑みを浮かべるが、その笑顔はどこか無理をしているようだった。


「ママ、今日も撮影?」

「そうよ、美咲。でも、帰ったら一緒に遊びましょうね。」


子どもたちの前では、玲子はいつも明るく振る舞おうと努めていた。しかし、その背後には仕事と家庭の間で揺れ動く心が隠されていた。


朝食を終え、子どもたちを学校に送り出すと、玲子は自分のドレッシングルームに向かった。そこには、彼女が舞台で使う華やかな衣装が並んでいる。鏡の前に座り、化粧を始めると、玲子は自分の顔をじっと見つめた。鏡に映る自分の顔は、完璧なメイクで整えられた美しい顔だ。しかし、その奥には疲れと孤独が浮かんでいる。


「今日も頑張らなくちゃ…」


玲子は自分に言い聞かせるように呟き、化粧を続けた。彼女にとって、舞台に立つことは唯一の逃げ場だった。スポットライトを浴び、観客の拍手を受けるその瞬間だけが、彼女の心を満たす唯一の時間だった。


車でスタジオに向かう途中、玲子はまた雅也のことを考えた。彼との共演が、彼女にとってどれだけ大きな意味を持っているのかを改めて感じた。スタジオに到着すると、スタッフや共演者たちが笑顔で迎えてくれた。玲子はその中で、再び大女優としての仮面を被り、撮影に臨んだ。


その日、玲子の撮影は予想以上に長引いていた。スタジオの照明が落ち、スタッフたちが機材を片付け始める頃、玲子はようやく一息つくことができた。彼女は疲れた表情でメイクルームに向かい、鏡の前に座った。鏡に映る自分の姿を見て、ふと溜息をつく。


「今日も大変だったわね。」共演者の長谷川雅也が、静かに部屋に入ってきた。


「雅也さん、ありがとう。あなたもお疲れ様。」玲子は微笑んで答えたが、その笑顔はどこか疲れ切っていた。


雅也は玲子の隣の椅子に腰掛けた。「玲子さん、君は本当に頑張り屋だよ。僕たちは同じ舞台に立っているけど、君の演技にはいつも感心させられる。」


「ありがとう。でも、時々自分が何のために頑張っているのかわからなくなるの。」玲子はふと視線を落とし、自分の手を見つめた。


雅也は玲子の手を取り、そのぬくもりを感じながら静かに言った。「玲子さん、君は素晴らしい女優だ。でも、それだけじゃない。君にはもっと大切なものがあるんじゃないか?」


玲子はその言葉に驚き、雅也の顔を見上げた。「大切なもの?」


「そうさ。例えば…家族や自分自身の幸せとか。君が輝いているとき、それは誰かの支えになっているんだよ。」


玲子は少し涙ぐんだ。「でも、私は家族ともうまくいっていないわ。仕事ばかりで、夫との関係も冷え切っているし…」


雅也は玲子の肩に優しく手を置き、「玲子さん、僕も同じだよ。僕も孤独を感じることがある。でも、君と話すことで少しだけ心が楽になるんだ。君もそうだろう?」


玲子は静かに頷いた。「そうね、雅也さんと話すときだけが、私にとっての救いかもしれない。」


二人はしばらく無言で、お互いの存在を感じながら過ごした。その静けさの中で、玲子は自分がどれだけ雅也のことを頼りにしているかを再認識した。彼の存在が、彼女の心の支えとなっていることを。


その夜、玲子は家に帰る前に、ふと雅也に誘われたカフェに立ち寄ることにした。小さなカフェで、二人は温かいコーヒーを飲みながら、ゆっくりと話を続けた。


「玲子さん、君が幸せでいることが、僕にとっても大切なんだ。」雅也は真剣な眼差しで玲子を見つめた。


玲子はその言葉に心が温まるのを感じた。「ありがとう、雅也さん。あなたがいてくれることで、私はまた頑張れる。」


夜が更けるまで続いたその会話は、玲子にとって特別な時間となった。カフェの窓越しに見える東京の夜景が、二人の秘密の時間を優しく包み込んでいた。

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