第2話


「っ、……!」



 ガタッ、と身体が揺れる。息を止めていたのか、心の臓がドッドッ、と早く鳴った。

 テーブルにうつ伏せになったまま、息苦しいと悲鳴を上げる肺に、新しい空気を送り込むために息を吐き出す。



「夢、か……」



 ぱらり、と髪がテーブルに落ちて、眠っていたということに気が付いたらしい。

 近くを流れる川の音、虫の声が少しずつ、現実に戻していく。

 ゆっくりになっていく鼓動を感じながら、自嘲するように零した。夢喰いバクが夢を見るなんて、聞いたことがない。


 でも、彼女は夢を見ていた。

 それに驚くこともないのだから、おそらく、前にも経験したことがあるのだろう。



「――……」

「……おはよう」

「っ、……青い、の」



 額に滲む汗が気持ち悪いのか、眉間にしわを寄せて、前髪をかき上げる。

 もう一つ、息を付くと上から降ってきたのは低い声。遠く、昔に聞いた声ではなく。

 ここ最近、聞いた後輩の声だ。


 誰かが傍にいる気配にも気づかず、寝こけていたことに動揺を隠せないのか、それとも彼がこの場にいることに驚いたのか。それは分からない。

 けれど、ガバッと顔を上げて目に入ったのは青の黒バクだった。



「邪魔しちゃってごめん。ユキ待ちでさ」

「……いや、構わない。ここはこの区域の夢喰いバクのための憩いの場だからな」



 コンは眉を下げて申し訳なさそうに、謝るとここに居る理由を告げる。

 二人がいるこの場所はよく女子会で使われる人気ひとけのない川辺にある東屋あずまやだ。

 けれど、誰か個人の者ではない。言わば、共有スペースなのだから、いちいち断りなんて必要ないのだ。

 だからこそ、菫は首を横に振ってぎこちなく、微笑む。



「……」

「…………」



 ジーっと、紫色の瞳を見つめるけど、いつもの余裕さを感じない。

 何かを隠そうとしているのか、一線を引いているのを肌で感じるのだろう。

 菫もまたその視線の意図が理解できなくて、表情を硬くさせた。



「……菫さんって、寝るんだな」

「まあ、これでもいい歳だからな」

「へえ、……」



 沈黙がどれほど、続いたかなんて分からない。けれど、菫の体感的には長い気がしたその時、唐突な言葉が耳に届く。

 意外そうに呟かれるそれに、ドキリ、と跳ねた。

 でも、顔に出さずにいられたのは幸いだったのかもしれない。ふっ、と鼻で笑って自虐する。


 年上の女性にそう言われると、それ以上突っ込めないのか。

 彼はただ納得するが、どこか探りを入れるような眼をしていた。



「……最近、どうだ?」

「何、藪から棒に」

「あのバカバクの食欲が気になってな」



 これ以上、疑問を持たれて聞かれたくない、という思いが強かった。

 だからこそ、無理やりにでも話題を逸らそうと、テーブルに身を乗り出し、問いかける。


 菫らしくないそれに紺はパチパチと瞬きすると顔を強張らせた。

 何とも素直な奴だろうか。思っていることが顔に思いきり出ている。

 手に取るように分かる表情に、彼女はいつもの調子が出てきたらしい。テーブルに肘を付き、手のひらに顎を乗せた。



「あー……まあ、みんなに色々言われて考えるようになったみたいだけど」

「そうか」

「うん」



 雪が良夢をよく喰うと知ってから、言い始めたその呼び名。

 相も変わらず、冷淡な言い方をする彼女に思わず、苦笑いが出る。

 隣のイスに座って、じっと待つ紫色の瞳に肩を竦めて答えれば、どこか安堵した表情が垣間見れた。



「……どうして、」

「ん?」

「どうして……、良夢りょうむをバカ食いするのを止めようと思わなんだ?」



 ふ、と表情が落ちる。迷子になった子供と似た眼をして、テーブルの一点を見つめた。

 聞こえるそれは意識を向けていなければ、気付かないほど、小さい。けれど、紺は聞き逃さなかった。


 彼の顔を見るのが怖いのか、勇気がないのか、はたまた顔を見られたくないのか。

 分からないが、彼女は隣を流れる川に目を向ける。

 悪夢がどれだけ危険で、喰うものを不安定にさせるのかを知っているからこその疑問だ。



「おっきいのは喰うのを控えろとは言ってたけど」

「でも、本気で止めてなかったんだろう?」

「……」



 こんなことを聞かれたのは、初めてだったのかもしれない。

 意表を突いたその問いに目を大きくさせる。でも、制止しなかったわけじゃない。

 だからこそ、伝えようとするけれど、それもまた言い返された。


 違うなら違う、と言えばいい。でも、彼には言えなかった。



「どうして、そこまでツイに合わせ、我慢していたんだ?」

「雪が聞くたまじゃないの知ってるだろ」

「……そうだな」



 川に向けていた顔をゆっくりと、紺の方へと向け、真剣な顔で、珍しいほど熱量のある声音で問う。

 しかし、彼が言えることは簡単なことだけだった。


 自他ともに認める自由で、頑固で、自分本位な女。

 それが青色を持つ白バク・ユキだ。


 二人が幼い頃から見守ってきたのだから、菫も分かっているだろう、と思っていたからこそ、紺は驚き、困惑した。

 その言葉に、その表情に、彼女はハッとして肩の力を落とす。



「まあ、……いつか分かるだろうって呑気に構えてたのも事実だな」

「……それで、もし、おぬしに限界がきていたら……、どうするつもりだった」



 ふぅ、と深く息を吐き出すと紺は首をこてん、と倒して悪戯する子供のように笑った。

 向こう見ずなのか、それとも器が大きいのか、何ともつかめない彼に眉間にシワが寄る。

 そんな甘い考えで、取り返しのつかないことになったら、という思いが強くなった。



「そん時は仕方ない。一緒に消滅するしかない」



 菫が強張るのは、心配してくれているから。それが分かっているからこそ、彼は微笑んだ。

 一人だけ助かろうともしないし、諦めたわけでもない。ただ、ツイがどういう人物か分かった上で受け入れた結論だったのだろう。



(嗚呼……、それすら、させてもらえなかったは。紫苑にとってどんな存在だったのだろうか)



 ぶっきらぼうにも優しさのある声に、言葉に、うらやましいと素直に思ったのかもしれない。

 それと同時に菫はどうしようもない、寂しさと不安を覚えた。


 共に逝かせてくれなかったのは、それだけ恨まれていたんじゃないか、と。

 永遠に苦しめという、メッセージなんじゃないか、と。



「……菫さん?」

「もしも、の話だ」

「…………うん」



 返事がないことに違和感を覚えて顔を覗き込むけれど、表情は分からない。

 困った、と眉を八の字にすれば、声が返ってくる。凛としている声とは違って、どこか頼りない。

 何がそんなに彼女を不安定にさせるのか、気になりつつも、紺は静かに耳を傾けた。



「……、…………仮に消滅しそうになっても、ツイだけは助けられる方法があったとしたら……おぬしは、どうする?」

「……どんな方法?」



 ふぅ、と息を吐き出し、新しい酸素を取り込む。そのまま声を出そうとするが、上手く声帯が震えない。

 情けない、と自嘲すると無駄に強張った筋肉が、ほんの少しだけほぐれた。

 それが良かったのかもしれない。なんとか、声を振り絞れる。


 でも、抽象的であり、微妙に具体的な話に、なんと答えればいいのか分からないのだろう。

 目を凄め、何度も瞬きを繰り返した。


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