番外編「後悔の先にあるもの。」

第1話



 嗚呼、身体が重い。

 鉛が深い海の底へと沈むような、そんな感覚を覚えた。



「……!」



 ゆっくり、瞼を上げると目の前にツイがいた。

 いるはずのない、の片割れ。懐かしいその顔に、姿に、胸が打たれた。

 会いたい、と願っても叶うことのない存在に会えたのだから。


 駆け寄って抱きつきたい。再会を喜びたい。

 でも、知っている。できない、ことを。



「…………」



 取り出した悪夢は彼奴アヤツの手のひらでプカプカ、浮かんでいる。


 大きさにして大体、十寸。

 良質で量も十分にあるのにどこか不満気の顔をしていた。


 当然だ。悪夢を好んで喰う奴なんて、そうそういない。今なら、分かる。



 でも、あの当時のはそんなことも分からぬ、大馬鹿者だった。



「……っ、紫苑しおん!」

「……」



 ヘドロでもへばりついているんじゃないか、とばかりに喉が上手く動かない。

 無理矢理動かしてやっと出たのは彼奴を呼ぶ声。それは焦っていた。

 そう、焦った。だって、コクコクと時間が無駄に過ぎ、太陽が昇ろうとしていたから。


 空が白んできているのに、悪夢を喰わないツイを見て。

 先に吾が良夢を喰ったことにほんの少し、後悔した。


 とにかく、急かしたくて、かけた声だった。

 日が昇る前に喰ってくれないと二人とも消滅してしまうのだから。


 でも、彼奴は静かに微笑んでいるだけ。

 それが嫌な予感を走らせる。



「おい、どうし――……っ、!?」



 悪戯に焦らされていることに、苛立って。問い出そうと駆け寄ったのが、間違いだった。

 口が開いた瞬間を見計らったように。紫苑は手に持っていたものを吾に押し付けた。

 逃げようと顔を背けようとしても、それをさせてもくれない。


 少しずつ侵入してくるものを受け入れることしか出来ず、恐怖が込み上げる。

 でも、それよりも別の衝撃に気を取られ、膝から崩れ落ちた。


 悪夢を喰う、ということがどういうことなのか。長年生きてきたけど、考えたこともなかった。

 けれど、口の中に広がるそれはコクのある味がする。

 今までこんなにコクのある夢に出会ったことがあるだろうか、と思うほどに濃厚で、芳醇だ。

 残酷なほどに美味しいそれは、ずっと求めていた味に近い。


 でも、――……



「……うっ!」



 美味いのに吐きたい。なんて矛盾した感情だろうか。

 味と引き換えに、脳裏に浮かぶ景色はいつもと違い、最悪だ。


 良夢は美味い。それに幸せな光景が広がっている。笑顔が絶えず、心から楽しんでいる。

 だからこそ、心に満ちる幸福感。加えて、質のいい良夢に出会えれば、色鮮やかなこともある。

 なのに、何故、は何処までも濃淡の濃い白黒の世界で二十、三十人ほどに囲まれている。


 何故、暴力を、罵詈雑言を受けているのだろう。

 いや、受けているのはではない。

 これは紫苑が喰うはずだった悪夢の持ち主の夢、だ。


 でも、今、脳裏で受けているのはであり、夢主ゆめぬしではない。



「……俺さ、もう限界なんだ」



 口の中に広がる美味なんて忘れそうになるほど、衝撃的な映像はまだ終わらない。

 苦しくて、目頭が熱い。胸やけなのか、逆流してきそうなものをなんとか堪えようとすれば、震える声が落ちてきた。

 疲れているような、力尽きたような。


 でも、どこか穏やかなそれは嫌に耳に響く。



「…………し……お、ん……?」

「俺は疲れちゃったから眠るけど……でも、菫はどうか生きて」



 膝を折って、の顔を覗き込む濃色こきいろが揺れる。それが不安を狩り立てる。

 声を出すのも辛く、苦しいけれど、名前を呼ばずにはいられなかった。


 悲しそうに、今にも泣きそうな顔を紫苑はする。

 そんな顔をするなら、どうして、吾(あ)に悪夢を喰わせたのか。どうして、そんな顔をするのか。

 聞きたいことはあってもそれ以上、言葉が音にならない。離さないように掴んでいなければ、と脳が警告する。


 それに従うように彼奴あやつにしがみつくと傷ついた顔をするんだ。その顔が、妙に胸が痛くなる。

 でも、紫苑はまた訳の分からないことを言い始めた。


 全くもって理解出来ぬ。に悪夢を喰わせたことも、紫苑が眠るということも、生きて、という意味深長な言葉も。

 夢喰いバクは眠らない。眠ることなんて出来やしないのに。


 何もかもが分からないのに、何故か、空はコクコクと明るくなっていく。

 

 嫌だ、ダメだ。まだ夜よ、明けないでくれ。心の中で訴えても、どんどんと明るくなっていく。

 それにつられて、紫苑の姿が透けていく。それに自然と目が大きく開いた。



「っ、なんで…………、どうして……お前が消えかかってるんだ!」

「……俺の我儘だから」



 悪夢を経験して弱音を吐いている場合じゃない。

 ツイが消えかかってることの方が余程、苦しくて辛い。


 どうして、どうして。どうして。

 グルグルと考えても、答えは出ない。

 やっと出た言葉はどうにも、責めているように聞こえた。


 いや、責めたのだ。

 自分を正当化したくて。対(ツイ)を悪者のようにしてしまった。


 でも、紫苑は怒ることも責めることもしない。

 いつものようにヘラッ、と困ったように笑って簡単に言う。言い訳らしい言い訳もしてくれない。



「嫌だ……なんで、お前だけ消えてるんだ……冗談はやめてくれ」



 ツイが透けてるのに、自分にはその前兆はない。

 彼奴アヤツがどんどん透けて見えてしまっているのはの見間違いだ、と。悪い冗談だ、と。

 その事実を認めたくなくて、首を振るけれど、何も変わらない。

 薄れている姿は偽りだ、と証拠が欲しいのに。現実は冷たい。


 怖くて、怖くてたまらない。なんとしてでも掴もうと手を伸ばしても、すり抜ける。

 もう、触れられない、と世界に突き放されたように、心にぽっかり穴が開いた。

 胸が、肢体が、割けてバラバラになるほど、痛い。



「――……ごめんね、すみれ



 それでも、彼奴あやつは、眉を八の字にしてバツが悪そうに笑った。

 その表情に、一つも暗い感情が見えない。


 最後に呼ぶその声はなんとも、優しく慈愛に満ちていて。残酷だった。


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