15. 勿忘草色

 勿忘草わすれなぐさという姓、元・浮夜絵師で三十代前半であること以外、この男のことはなにも知らない。


 ショウが自ら質問していくタイプではないこともあるが、知り合って約四年、いまだ下の名前すらわからない。


 毎晩、顔を合わせる度に矢継ぎ早に自分語りをはじめるのだが、蓋を開けてみるとその情報量の割に、“勿忘草わすれなぐさ”すら、偽名なんじゃないかと疑えるほどこの男はなにひとつ、肝心な己の素性について語っていない。


「でもねショウくん。落画鬼はちゃんと消さないと」


 素性の知れないこの男だが、ただひとつ明らかなことがある。


 さあ、お手並み拝見だ。


「……またすぐに復活しちゃうんだから。ここが一番、重要なポイントなのよ!」


 男は相変わらず、親しみやすい声色で丁寧に説明してはいるものの、先ほどまでの冗談の塊のような態度は一変、凍てつく殺気を背中越しで感じたショウの身体は、必然的に強張った。


(ああ、やっぱりこいつは食えない奴だ)


 いつだったか。男は、当の昔に浮夜絵師としての筆は折った(引退した)と、勝手に話していたが、彼が過去いかに強者であったかは、ショウの目が捉える間もなくすっかり綺麗になった路地が物語る。


「それに下手に残しておくと、ショウくんの大嫌いなAIどもに横取りされちゃうよー」


 もはや何事もなかったかのように、悪戯っぽく笑う怪人ばりの変容を見せる勿忘草わすれなぐさに、ショウは少しも振り返らない。いや振り返ることができないといったほうが正しい。動揺を隠し切れていないからだ。


 この男にかかっては、自分の腹積もりをどんなに隠したところで無駄かもしれない。いや、もうとっくにバレているだろう。それなのに、今のところ力を剥奪されないのは単純に奴が、あるいは奴の背後に在る “委員会”が、こちらの力を都合良く利用したいのだろう。


 それならば、こちらもいけるところまでいくしかない。


 ショウが真剣な眼差しを湛える一方で、勿忘草わすれなぐさは……。


「はー仕事した。私すごい。めっちゃえらい。まさにオトナのかがみ。そして顔もいい!」


 先ほどまでのショウの活躍に比べたら、別にたいしたこともしていないのだが、これでもかと自らを絶賛している。

 ショウは、やっぱり買い被りすぎかもしれないと大きくため息をついた。


「やめてよ~。その『なに言ってんだコイツ』みたいなクソデカため息ー!」


 勿忘草わすれなぐさは沈黙が嫌いなタイプなのか、ショウのため息ひとつ見逃さず、力強く言い訳する。


「いやほら、この歳になるとさ、誰も褒めてくれなくなるんだよ。だからね、自分で自分を褒めてあげないとね!」

「あんたはもう少し、怒られたほうがいい」


 ショウの言葉に、上機嫌だった表情は一変。


「えっなんで!?」と雷に打たれたような衝撃を走らせている。


 ショウはその答えを置き去りにして歩き出す。


「ちょっと待って。もう遅いから家まで送っていくよー!」


 男は渡されていた羽根を一瞥するとすぐに頬を緩ませ、遠ざかろうとする少年を追いかける。


「必要ない」


 ショウは悪意なく勿忘草わすれなぐさを拒絶すると、いつの間にか元通りのサイズに戻っていたGペンを、腰のホルスターから取り出す。

 そして、表情に憂いを帯びたまま、少し離れた場所で待機していた片翼の美女に、その鋭いペン先を向けた。


 割れた仮面の隙間からは、少女漫画風の繊細に描き込まれた気高さと儚さと兼ね備えた、完璧な美貌を覗かせている。


 あるじであるショウを守りきれず、あろうことか途中退場してしまったのだ。今回はそうはならなかったものの、本来なら、絵の失敗はその絵師の死を意味する。


 魅力のない絵が破り捨てられるように、役に立たない浮夜絵も、日の目を見ることなく処分されるべきなのだ。


 憂き世を纏ったその絵は、静かに膝をつきこうべを垂れると、死を覚悟したかのように唇を噛んだ。


 ショウは少しも躊躇わずに、流麗な手さばきで筆をふるう。


 かの葛飾北斎かつしかほくさいも愛した異国情緒あふれる青色が、星の紛れの宵にアラベスクとなって広がったかと思いきや……。


 失われたはずの片翼がサラサラと蘇ったのである。


 ショウは、その勢いのまま天に向かってGペンを突き刺すと、先ほど想定以上の巨大化によって破壊してしまった超高層ビルの壁も、あっという間に本来の姿を取り戻す。


「さすが、世界に影響を与えた天才漫画家の息子だよね」


 その泣く子も黙る美しい所作に、ふざけた調子の勿忘草わすれなぐさすらこの時ばかりは感慨深げに眺めては、賞賛の口笛を吹く。


 ショウは最後に、「は? なんやマジで? ワシ許されてんや?(※勿忘草わすれなぐさ変換)」と、ぽかんとした表情を浮かべたままの浮世絵へ、薄化粧をしてやるかの如く、仮面をそっと描き直す。


 それも終わると、勿忘草わすれなぐさに向かって、うちの浮夜絵に勝手に変なキャラづけすんなと言い返したい気持ちをぐっと堪えながら、静かに答える。


「……俺は。そんなんじゃない」


 ショウは相変わらず振り返ることはなかったが、声には僅かに苛立ちと悲しみが含まれているように感じられた。


 勿忘草わすれなぐさは、その表情を確かめようと再び声を掛けたが、ショウはそれよりも速く浮夜絵に掴まり、そして。


「言うまでもないが、ビルはあくまで応急処置だ。ちゃんと直すよう、上に伝えろ」と言い放っては、さっと夜空に飛び込んだ。

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