第二章 ペンは剣よりも強し

08. 不要不急な外出

 ここは、夢と欲に彩られた日本が誇る大都会・東京。


 かつて眠らない街と呼ばれたその面影は、いまだ昼間のように妖しく光り輝くネオンによって残るものの、それにつり合う喧騒や雑踏はない。

街の明るさに体内時計がすっかり狂ってしまったからすが放置されたゴミを漁る音と、その鳴き声だけが夜空に響く始末である。


――夜の自由が奪われてから、もう何年の月日が経っただろう。


 誰からも見向きもされない電光掲示板が、絶えず同じ文字をスクロールしている。


“夜間の不要不急な外出自粛にご協力を。”


 その文字すら潰れて見えないほど高いビルの屋上には、街の底を静かに見下ろす人影がある。


 金属の重厚感となめし革のしなやかさを併せ持つ特殊素材で仕立てられた、黒いマキシ丈の外套がいとうに身を包み、その顔は兎のように長い動物耳の装飾が施されたフードですっぽりと覆い隠している。

 月明りを背にしているからか、まるで“月からの使者”を彷彿とさせるシルエットだ。


 その月にうっすらと雲がかかった時だった。


 電光掲示板のショートする音が鳴り響くと同時に、烏の鳴き声が何者かによって遮られる。


 一瞬の静寂のあと、今度は虎鶫とらつぐみによく似た不気味な夜鳴きが周囲にこだました。


“ウサギのシルエット”は、手にしていたGペンを口に咥える。


 Gペンとは、紙文化が廃れ、完全なデジタル化社会となった現代では見られなくなったが、かつて多くの漫画家が愛用した万能ペンである。



 Gペンを咥えたまま、それは迷わずビルから飛び降りた。




◆◆◆



 この超高層オフィスビルの中間にあたる三十二階には、夜の夜中だというのにデスクと一体化する女がいる。自宅でのリモートワークが一般化したこのご時世に、職場をひとり陣取る彼女は陰で、“職場の地縛霊じばくれい”と揶揄やゆされているほどだ。


 彼女とて、自ら望んで出社しているわけではない。

今日こそはちゃんと家に帰ってお風呂に入ろうと、朝から必死に仕事に食らいついていたのだが……。


 陽が傾くにつれ、フロア全体から漂う人気のない静けさがどこか、彼女を“無能”と煽っている気がしてきて、はかばかしくない。


 そんな女を少しも気遣うことのない無情な日周運動によって、今宵も“地縛霊”の名を冠するに相応しい夜を迎えていた。



 女は帰宅を諦め、都心の街並みを一望できる広い窓に吸い寄せられるように張り付いては、他所の高層ビルからまばらに輝く残業仲間の灯りを探し、孤独と虚しさをしずめようと試みる。


 終電を逃したわけじゃない。いまから帰り支度をはじめても、十分に間に合う時間ではある。しかし、それでも帰宅を諦めなければならない理由があった。


 彼女は苦手なホラー映画を視聴する時と同じ表情で、ゆっくりビルの底へと視線をやる。


 そこには、なにやら暗闇のなかでうごめくものがある。人間どころか見慣れた動物でもない。例えるなら、大都会に立ち並ぶビルとビルの合間に、時折ぽつんと設置された意味不明現代アートすぎる異形オブジェたちが歩き出しているかのようだ。


 非現実的な光景だ。もちろんプロジェクションマッピングでも、疑似ホログラムの類でもない。


 女が佇んでいるのは、都内屈指の超高層オフィスビルだ。最新技術によって、鬼が出ようが蛇が出ようが、身の安全は保障されているのだが、やはり恐いものは恐い。


 女は身の縮む思いでしばらくそれらを見下ろしていたが、まさかこの異形たちは遥か上空に在る女の視線に気付いたというのか。闇の底を蠢くもののうち、ひとつが顔をあげた。

 それだけで目が合った気がして、恐怖のあまり女は思わず身体を引っ込める。


――深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。


 そんな言葉が脳裏をよぎる。

とてもじゃないが、こんな状況でひとり外に出られるわけがない。


 やっぱり、下は見なければよかったと後悔した瞬間だった。


 倍強度ガラスすら突き抜ける、心細く気が滅入ってしまいそうなほどの不気味なき声と共に、目の前で人が落下していくものだから、もちろん口から心臓が飛び出しそうになるほど驚いたが、それも一瞬だった。


 女は急いで鞄からスマホを取り出すと、動画を回しながら再び窓にへばりつく。


 先ほどまで震え上がっていた様子はどこへやら、スマホから、一番テンションのアガる音楽を選曲する余裕さえ生まれている。オルタナティブ・ロックとポップパンクが融合した力強いメロディだ。


 その表情は明るく、とても自殺志願者を撮ろうという様子ではない。


 女はすでに状況を理解していた。

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