RGB：僕と浮世離れの戯画絵筆 - 緑色のアウトサイダー・アート -

09. 青ウサギの浮夜絵師

「ペンは（Calamus）剣よりも（Gladio）強し（Fortior）」

　ウサギのシルエットが落下に身を任せつつ囁くように唱えると、その口元の血管から稲妻の如く青白い光が全身を伝っては、それに呼応して長外套（なががいとう）の随所に施されたスタイリッシュなデザインが発光する。

　まるで、サイバーパンクの世界を閉じ込めたかのような精巧さだった。

「青色だわっ！」

　ひどく疲れていたはずの女だが、窓越しでその発光を認めるや、ブラインドグッズで推しを引き当てたオタク並みに狂喜乱舞しながら、ひたすらスマホをかざし続けている。

　女とは対照的に、ただならぬ様子で急降下し続けるウサギのシルエットは、絶命したであろう烏（からす）のもとへ集中していた。

　それを察知した蠢（うごめ）く異形たちは、不気味な鳴き声の主に向かって集約していく。

そして、嬲（なぶ）っていた烏を鋭い牙の並ぶ口の奥へ放り込むと、自身の大きさに比べ、えらくちっぽけな青白い光を迎え撃とうと飛び上がる。

　ちょうどその時、雲から再び顔を出した月明かりに照らされ、いよいよその全貌を現わした。

　泣き腫らしたかのように真っ赤な猿の顔、虎模様の四肢、尾が蛇と、様々な動物が繋ぎ合わさった適当な落書きが、そのまま夜空に飛び出してきたかのような滅茶苦茶（めちゃくちゃ）な風体だった。

　さらに、その異形の肢体のあらゆる部分に見える特徴から、これまで多くの烏を弄（もてあそ）び喰らったであろう様子が窺（うかが）い知れる。

　動いていることが不思議だ。見た目は複雑だが、シンプルに気持ち悪い。

　この様子をSNSにアップロードする気満々でいる女は、自分の声が動画に入らないよう努めていたのだが……。窓越しとはいえ、こちら目がけて迫りくる人ならざるものの姿に、「ひっ！」と、恐怖の声を抑えることができなかった。

“夜は、絶対にひとりで出歩いてはならない”

　女の脳裏に、幼少期から親に口酸っぱく言われ、自身もそれが本能であるかのように守り続けてきた言葉がよぎり、無意識にその原因となったものの名を口にする。

「……落画鬼（らくがき）」

　それは、世の中へ不平不満を持つならず者たちが描く、“負の感情（グラフィティ）”が具現化したものだとされ、人を襲い、街を破壊する現代の悪鬼のことである。

　六年前、突如として世界をパンデミックの渦に巻き込んだ感染症をきっかけに、爆発的に現れ、我が物顔で夜に棲みついた “落画鬼”。

　街中に放置されたグラフィティから、夜な夜な這（は）い出しては悪さを働くため、感染症のパンデミックが収束してもなお、夜は閑散としたままなのである。

（これが、現実なんだ……）

　てっきり、死ぬまで平凡な日常が約束されていると思い込んでいた現代人の身に、次々と降りかかる昔ばなしのような災厄。

　それに伴い、すべての人々にとって共通認識となった、“夜間の不要不急な外出自粛”。

　この生活様式にも慣れてきたとはいえ、軽率に羽目も外せなくなった夜が恋しく、寂しさを募らせる大人がいる。自由な夜に憧れ、もどかしく感じる若者もいる。

　そんな鬱憤（うっぷん）を晴らすために、グラフィティに手を出す者が後を絶たないという悪循環に、夜の治安は一向に良くならない。

　そして、軍隊、最新兵器すらものともしない落画鬼に対抗すべく方法は、現状たったひとつ。

「がんばって……、青ウサギの浮夜絵師（うきよえし）さん……」

　これまでその存在の不確かさから、ごくごく一部の界隈でのみ、“ウキヨヱシ”とぼんやり呼ばれていた者たちが、広く知れ渡る時代が到来したのである。

「本当に、がんばって……」

　女は、ウサギのシルエットに向かって何度も祈るように独り言（ご）つ。

　その祈りに応えるかのようなタイミングで、青色に輝く浮夜絵師は咥えていたGペンを持ち直すと、そのまま空（くう）を切った。

　すると、鼻から上は五倍子鉄漿色（ふしかねいろ）に輝く黒の仮面で顔を隠しているが、伯林青色（べれんすいろ）の逞しい翼を持ち、闇夜を領（りょう）ずる帳（とばり）のような長髪をたおやかになびかせた柳腰が顕（あらわ）れる。

　その儚げで透明感のある様はまるで水彩画、絵に描いたよう……いやまさしく文字通り、描いた尽善尽美（じんぜんじんび）の極みが具現化したのだ。

――夜へ浮かせて描く絵。それが“浮夜絵（うきよえ）”。

　浮夜絵師にとって、夜空は巨大なカンバスなのである。