07. 家族を襲った極悪人

 消毒剤の強い匂いが僕の鼻をくすぐった。


 それで僕は、この見慣れない天井が病室であることを自覚する。

あれから一週間も意識が戻らなかったことを告げられた瞬間、七日も夏休みの絵日記をサボってしまったと罪悪感に駆られたくらいには、やけに冷静だった。

もちろん、それどころじゃない状況なんだけど。


 ああ、僕って自分の命よりも、絵を描くことが好きなんだな、と改めて気付かされていた。


「お、父……さ、は……?」


 久しぶりに発する声は、声にならないくらいかすれていたけど、誰よりもなによりも確認したいことだった。

 ほぼ飲まず食わずで、僕に付きっきりだったらしい母は、僕が意識を取り戻した姿に笑顔を取り戻したのも束の間、父を気にする僕を聞き取ると、嗚咽おえつを漏らしながら泣きはじめた。駄目だったのか……。


 事件当時のことを聞けたのは、それからまた数日経ったあとのことだ。


 僕ら家族を守るため、恐ろしい“なにか”が留まる納屋に閉じ籠った父。

納屋の外からでもその死闘が容易に想像できるけたたましさは、救急車やパトカーのサイレンが鳴り響く頃には、パタリと止んでいたそうだ。



◆◆◆


 祖母が息子の安否を確認するため、警察と共におそるおそる納屋のなかに入る。


 最初に目に飛び込んできたのは、ずたずたに引き裂かれた和紙がそこかしこに散乱した光景だったそうだ。


 和紙にはなにやら絵が描かれているようだが、目の悪い祖母は手に取ってみなければ、判別できない。

だから、腰が痛いと言っては警官たちを先に行かせると、その目を盗んで数枚拾い上げた。どちらにせよ、てんでばらばらになったパズルのピースのようで、なにがなんだかわからないはずなのだが……。


 祖母は和紙に触れた瞬間から、なぜかとても懐かしい気持ちと、絵を描いてはよく見せにきた幼い父の顔が浮かび、恐らく和紙一枚、一枚に猫が一匹ずつ描かれていたのだろうと直感的に理解したそうだ。


「大きな鼠でもいたんですかね」

「馬鹿者。こんな豚ほどある大きさの鼠があるか」


 さらに奥に進んでいた警官たちはそう言ったきり、立ちすくんでいる。

 そんな彼らを押し退けると、異臭と共に大きな焦げ跡がくすぶっている様が視界に広がる。祖母の目でもはっきりわかるほど、大鼠の屍骸をかたどっていて、目新しい発見はそれが最後だった。


 焦った祖母は、己の息子はどこへ行ってしまったのかと思わず一歩踏み出すと、足元からべちゃりと音がする。

 焦げ跡だと思っていたそれは、“色があるようで色のない少し色のある名状し難い不気味な液体”だったという。


 あれだけの騒ぎだったにも拘わらず、動物など外部からの侵入形跡はなかったそうだ。――




(……つまり、絵が動き出したってこと?)


 もし、父が和紙から非実在のネコたちを召喚して、大きな化け鼠を退治したのだとしたら、まるで僕の知っている昔ばなしと同じじゃないか。

 そして鬼が……落画鬼が、まさか本当に……。


「実在している……?」


 その後の鑑識捜査でも、肝心の父は血液一滴見つからなかったという。


(僕よりたくさんの血を流していたはずなのに……いったい、どういうこと?)


 化け鼠に喰われたわけでもないらしく、行方不明となっていた。

 僕の体調面を考慮し、説明がだいぶ端折はしょられたせいか、状況はいまひとつ掴めなかった。


 なんにせよ、父の生存を聞き安堵した……のも、ほんの一時で、父についてあまり話したがらない母の代わりに、祖母が衝撃的な事実を教えてくれた。


 最終的に納屋の天井を突き破り、脱出を図ったとされる父は、なぜか指名手配されているのだと。


 “家族ぼくを襲った”として……。


 いやいや訳がわからないよ。そんなことってある?

 思い当たる節があるとすれば、“僕”じゃないのか?


――僕の絵が本物になったらいいのに。


 落書きが鬼になるのなら、その落画鬼を生み出したのは間違いなく僕だ。

僕が納屋に描いたクロの落書きがきっと鬼になったに違いない。なぜ化け鼠に変化したのかはわからないけど、絶対僕のせいだ。原因は、僕としか考えられない。

壁に落書きするなという言いつけを守らなかったせいで、お父さんは……。


 病室が個室であることを良いことに、僕はこれ以上にないくらい自分を責めた。

 あの日と同じ、夕暮れが僕を照らすたびに。もう時季じゃないのに、耳に残る晩蝉ひぐらしの独唱が孤独を煽ってくる。


 責めても責めても、責め抜いても責め足りなかった。はじめのうちは声を殺して泣いていたけど、次第に気が触れたように大声で泣いてみせたりもした。

それでも、誰も父を許してくれなかった。誰も僕を責めてはくれなかった。


 医者から、一生残ると告げられた額のひっかき傷だけが、僕の悪事を認めてくれているかのように縦に三本揃ってズキズキと、僕に耐えがたい罰を与えてくるだけだった。


 それからしばらくして、警視庁の実葛さねかずらという刑事が、僕へ事情聴取するためわざわざ東京からやってきた。

 僕は、東京の刑事さんならわかってくれるかもしれないと対面するや否や、真っ先に納屋の壁に落書きしたことを白状する。咎められるべきは、父ではなく僕であると。僕が犯罪者なのだと。


「僕の落書きのせいだ」


 必死に訴える当時の僕の形相は、およそ子どものそれではなかったそうだ。

 このままでは、僕の心がどこか遠く良からぬ場所へ、離れてしまうと感じ取った実葛刑事は、時が止まってしまった僕の小さな身体を抱きしめてくれた。


 父を思い出す温かさだった。でも、父じゃなかった。その違いに、また涙があふれてくる。


 父じゃなければ、このぽっかり空いた穴は埋められない。ぼんやりとした不安も、あの雑に撫でてくれる大きな手でなくては拭えない。


 実葛刑事は、僕の気が済むまで泣き続ける姿を黙って見届けると、静かに伝えてくれた。



――僕の落書きなんて、納屋には最初からなかったそうだ。



 多くの謎と深い傷を残したまま、あれから四年の歳月が過ぎた。

 今日もまた、もうすぐ夜がくる。

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