第83話 合宿スタート

     ◇   ◇   ◇




 俺は絶望していた。


 ここ最近、いろいろと絶望感を感じることはあったが、今日ほどの絶望は覚えがない。


「大丈夫? 顔色悪いけど。酔った? 水飲む?」


 隣に座った紡がかいがいしく世話を焼いてくれるが、俺の酷い顔が元に戻ることはないだろう。


 いそいそと干し梅を取り出そうとする紡に向かって答えた。


「いや、酔ってはないよ。大丈夫、ありがとう」


「そう? 朝からあんまり顔色良くないけど、熱があるんじゃない?」


「熱はないと思――」


 話している間に、紡が手を伸ばしてきて額に当ててきた。


「んー、本当に熱はなさそうね」


 近い。顔が近い。昔のつむちゃんとは違う、スッと通った鼻梁びりょう、まつ毛の長さに驚く。ついでに若干前かがみになったせいで、白い首と、そこから続く鎖骨、胸元がちらりと見えてしまった。


 思わず目を閉じて、首を横に振った。


「熱はないから! 大丈夫だから!」


「そんな強く否定しなくても」


 別に強く否定しようと思ったわけじゃないぞ。びっくりしただけだ。年頃の婦女子がそうそう男に近付くものじゃない。


 懇々こんこんと男女の仲について説教しようかと思ったら、後ろからぬっと現れた男に断念を余儀なくされた。


「おいおいどうした、うるさいぞ」


 座席の上から顔を出したのは、村正源太郎むらまさげんたろうだった。


 相も変わらず、長い髪を一つに結んだ姿が、妙にきまっている。


「一体なんだ、迷惑だから車内では静かにしろ」


「ああ、ごめん」


 そう、ここはバスの車内。合宿へとひた走るこのバスに乗ったのが、一時間ほど前のことだった。


 自由席でいいということで、王人と座ろうかと声を掛けようとしたら、何故か俺の隣は紡に陣取られていた。幼馴染の動きは速い。


「なんだか、顔色が悪いの」


「む、たしかに言われてみると、あまり良くないな」


「むしろなんで二人はそんなに元気なんだ‥‥」


 俺たちが今向かっているのは、桜花魔法学園の強化合宿だ。


 突如として決まったこれは、夏休みの一週目、七日間を使って行われる。


 適性試験でのウィルス混入を受けて、一年生の早急な強化が必要だと判断されたらしい。


 あるいは、あの時の出来事がトラウマにならない内に、余計なことを考えないようにさせようとしているのか。


 どちらにせよ、学校側にもいくつかの意図があって企画されたものだろうと、予想がつく。


 強化合宿そのものに不満があるわけじゃない。


 強くなれるというのなら望むところだ。


 化蜘蛛アラクネと戦ってよく分かった。俺はまだまだ弱い。『火焔アライブ』を使いこなせているとはとても言えない。


 こんなことでは、ホムラの謎を解き明かすなんて夢のまた夢。


 そう、問題は強化合宿そのものではないのだ。


「鬼灯先生のあの顔見ただろ‥‥。あれは何か企んでいる顔だ」


 突如として俺たちの打ち上げに現れた鬼灯先生は、いつにもまして笑顔だった。それはある意味で屈託のない笑み。何もかもを振り切った者だけが浮かべる、デンジャラススマイルだ。


「そうか? 別に普通に見えたけどな」


「そもそも、いつも裏のある笑顔でしょ」


 二人から返ってきた答えは、期待したものとは違っていた。というか紡は鬼灯先生嫌いなのか? 前に顔合わせた時も、バチバチした雰囲気だったし。


 そこに突っ込んでも百パーセントいいことはないので、スルーする。君子危うきに近寄らず、男子女の争いに首突っ込まずだ。


「絶対にやばいぞ。確実に地獄よりひどい目にあわされる‥‥」


「そんな大げさな」


 大げさなものか。あの人の専攻練せんこうれんで訓練をすれば分かる。気絶がデフォの脳筋訓練だぞ。


 それの強化合宿なんて、死んでしまう未来しか見えない。


 強くなりたいのと、地獄を体験してもいいのかは、決してイコールではないのだ。


「はぁ‥‥一体何が待っているのやら」


「そうは言っても、今回は専攻練せんこうれんじゃくて、学年全体での合宿でしょ。そこまでの無茶はないと思うけど」


「その無茶を通しそうで怖いんだよ‥‥」


 道理を腕力でねじ伏せる系教師だ。何が起こっても不思議ではない。


 訪れる未来に戦々恐々としていると、村正がぬっとポッキーを差し出してきた。


「鬼灯先生はともかく、合宿そのものはきつくなるだろうな。しかし今からそんなことを心配していたら、心が持たんぞ、ほれ」


「センキュー」


 ありがたく頂戴し、ハムスターのようにかじる。このシンプルなお菓子をどう食べるか諸説あると思うが、個人的にはちびちびかじるのが好きだ。なんか満足感がある。


「‥‥」


「‥‥どうした?」


「別に、なんでも」


 何故か食べている姿を紡がじっと見てきた。視線がむずがゆい。


「考えてみろ真堂、合宿だぞ合宿。結構ではないか。同級生で寝食を共にするなど、青春一大イベントだ」


「この合宿をそのテンションで捉えているのお前だけだろ」


 ポジティブすぎてビビるわ。


「水着も持って来いと言われたのだ。しかも形状自由! これは海での自由時間があると思って間違いない!」


「まあ訓練だけなら学校指定のもの持って来いって言われそうだよな」


「まさに解放の夏! 適性試験であれだけ活躍した俺たちならば、一緒に遊びたいという女子も多かろうよ!」


 グヘヘヘと笑いながら両手をワキワキさせる村正は、公然わいせつ罪に問われそうだった。


 でもそうか、適性試験で一応活躍はしたからな。もしかしたら、二人と王人以外にも話せる友達が出来るかもしれない。


「そんなうまくいくわけないでしょ‥‥」


 呆れかえった紡の声は、山道へと差し掛かるタイヤの音にかき消された。




 俺たちは山の中、開けた場所でバスから降ろされた。


 一週間分の着替えや生活用品が入ったリュックを背負い、伸びをする。


 山の中だけあって空気が綺麗だ。長いことバスに乗っていたせいで硬くなっていた身体を、ぐいぐいと動かす。


 それにしても、あたり一面見えるのは森だけだ。こんなところで合宿をするのだろうか。


「皆さん、聞いてください」


 俺たちの担任である善ちゃん先生が、落ち着いた、けれどよく通る声で言った。


「あの向こうに道があるのが見えますか?」


 善ちゃん先生の指さした先には、森の一部を切り拓いたような道があった。広めの獣道といった様子で、舗装されている様子はない。


「あそこをまっすぐ進んでいくと、目的の合宿所に着きます。今の時刻は九時半。昼食の時刻は十二時から十三時までですから、それまでに到着するように頑張ってください」


 すると、それを聞いていた生徒の一人が手を上げた。


「あの、もし昼食の時刻に間に合わなかった場合はどうなるんですか?」


「昼食は合宿所の職員がカレーを用意してくれています。間に合わなければ残念ですが、食べることはできません」


「えっ⁉ 食べられないんですか‥‥」


「安心してください。そういう人向けにはレーションを用意していますよ」


 何も安心できないだろ。 


 レーションは一度授業で食べたことがある。守衛魔法師ガードは市街地に現れた怪物モンスターの討伐が仕事なので、レーションの用途も単純明快。


 いかに素早く、大量のカロリーを摂取できるかだ。


 味は二の次三の次。


 食に対する日本人の並々ならぬ執着を以てしても、美味しいと呼べるものではなかった。五倍圧縮スコーンをイメージしてもらえば、大体あってる。


 全力疾走した後にあのレーションを詰め込むのは苦行だぞ‥‥。


魔法マギの使用は自由です。というよりも、魔法マギの継続使用訓練でもありますので、積極的に使ってください」


 おお、珍しい。てっきり生身で荷物担いで走れとか言われるもんだと思ったが、桜花マッスル学園にも多少の理性は残っていたらしい。


 最後にとばかりに善ちゃん先生は付け足した。


「合宿所はあの山を越えた先にありますから、遭難などしないように気を付けてください。熊も出るようですから、出会った場合は交戦せず、追い払うだけに留めるにしてください」


 ‥‥嘘だろ。


 あの山って、でかでかとそびえ立つあれか? 魔法マギを使ったとしても、どれだけかかるんだよ。


「それでは、合宿前の軽いウォーミングアップのつもりで、頑張ってください。それでは、スタートです」


 俺たちは光のアイコンを弾けさせ、我先にと道に走っていった。


 何がウォーミングアップだふざけやがって、やっぱり初っ端からぶっ飛んでじゃないか!

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