幕間・花の枝

「わ、失礼――」


 エイダが危うくぶつかりかけた相手を見上げると、冬眠明けの熊のような男がそこにいた。エイダがいくら小柄といえど、胸に届くかどうかというほどの長身もさることながら、その風体に続く言葉を失う。長い髪と髭で顔はほとんど見えないし、モーニングに黒髪で黒づくめだ。ただ、前髪からのぞく虹色の瞳と胸元の白い薔薇だけが色味を添えていた。

 男はひどくぼんやりとした様子だったが、絶句したエイダにしどろもどろに一礼をして立ち去る。


「今の人、見た?」

「何が? 変な子ね」


 先を歩いていた母親は男を見なかったようだ。男が自分にしか見えなかったのかとエイダが慌てて振り返ると、ふらふらと他の人にぶつかりながら男が広間を出ていくのが見えた。それを見て、エイダはわずかに安堵する。

(物語に出てくるような、幽閉や流罪の末に非業の死をとげた貴族の亡霊みたいなんだもの。お化けかと思っちゃった)

 ただ、気味の悪さと言うよりは、得体の知れなさの方が強い。男の胸元に白い薔薇があったのを思い出し、エイダは年齢不詳の男がそこまで歳が離れていないのに気がついた。

(今の方が結婚するとしたら、一体どんな方が嫁がれるのかしら。きっとその方も同じくらい変わった方なんだわ。だって、それがバランスってものでしょう? 釣り合いの取れる結婚が一番幸せだってみんな言うもの……)

 自分の胸元にある赤いカーネーションを見下ろし、エイダはため息をついた。


「だから、きっとこれで良いのよね」

「あら、何か言った?」


 母親が耳ざとく振り返る。エイダは何でもないと首を降った。

 両親はお見合いで結婚した。そして幸せに暮らし、姉のエスター、エイダ、弟のダニエルという子宝にも恵まれている。だから、エイダにとってお見合いという手段に反対する気は全くない。

 エイダは無難に生きることをモットーとしている。貴族の娘としては自由奔放すぎる姉は、姉妹としては大好きだが、エイダの反面教師だ。世間の言う『普通』から外れた時の気苦労は見えてしまっている。母親は何かと姉に対して口煩く、エイダにはそんな面倒を負ってまで、『普通』から外れるメリットは感じられなかった。

私のお見合い相手トーマス様はきょうだいやお友達と話している時ほど面白くないし、興味もいまひとつ合わないけど。両親の覚えもいいし、穏やかで、安定している……きっとこういうのが良い結婚なんだわ)

 エイダはあまり気乗りしていないが、なぜか相手や相手の家は乗り気だ。ニュークレスト子爵家はそこそこに旧い家柄ではあるが、領地もそこそこだし、魔力量もそこそこで、際立つようなものはない。そうなると、相手が伯爵家というのはかなりの好条件ではある。そんなことは承知していたエイダだったが、トーマスが贈ってきたリボンを見てからというもの、億劫になってしまっている。

(お姉様のあの顔。婚約者の好きな色もわからない男と結婚するなんて、なんて顔だったわ。確かにその通りよ。でも、トーマス様は会ったばかりだもの、私の好みなんて知る由もないじゃない。将来は分かってくれるかもしれないわ)

 そうエイダは自分を奮い立たせたが、しばらくするとまた気持ちが萎えてしまう。


「……本当に、いいのかしら?」


 エイダが小さい声で漏らした本音は、今度は母親に届かなかった。

(このまま、言われるがままに結婚して。結婚したら、その後は全部私の責任……)

 こうやってパーティに出るか、数少ない友人とお茶会をするくらいしかエイダには外界との接点がない。パーティに出れば母親かお目付け役がいつも一緒だ。今までの世界はほとんど子爵家とその延長上までしか出たことがない。結婚して家を出たら、もう誰にもどうもできない。嫁いだ先の人間になってしまう。

(私のいつも身につけている色も見ていない人と夫婦になるのね……)


「まったく、エスターはどこに行ったのかしら?」


 いらいらした様子で、母親が言う。パーティへ一緒に来た姉が見つからない。ダンスホールに着いてからは、姉は母親への反抗からか、壁際から動こうとしなかった。父親は友人たちと話し込んでいるのが見える。姉だけが姿が見えない。

(早く帰りたいのになあ)

 約束した通りにトーマスとダンスを踊り、親の監視下でたあいないおしゃべりの時間を過ごさせられたエイダはすでに疲れを感じていた。

 エイダは懐中時計など持っていないが、会場の雰囲気からしてそろそろお開きとなる真夜中近いというのは感じていた。姉を探す母親の後をついて回りながら、エイダは不思議に思う。

(一番帰りたいのはお姉様でしょうに。もしかして、こっそりひとりで先に帰ったりなんて、流石にないわよね?)


「あっ」


 人気のないところで休みたいと言う思いでふと見たテラスに、姉を認める。舞踏会や結婚なんて興味もなく、バルコニーに肘をついて星空を見つめている姉に、エイダはなんとも言えない安堵感を覚える。母親の腕を引き、姉の方を向かせた。


「エスター、そんなところにいたのね。貴女って子は――あら!」


 姉が振り向いたところで、母親が驚いた声をあげた。エイダは何事かと母親の背後から姉の方を覗く。最後に会った時には白い薔薇が差してあった姉の胸元には、ギンバイカの枝が飾られていた。


「エスター、そのお花はどうしたの?」

「もらった」

「自分の薔薇は?」

「あげちゃった」


 母親が矢継ぎ早に姉に質問を投げかける。

(それって――)

 エイダがその意味を理解する前に、母親が狼狽えた声を出した。


「貴女、それがどういう意味か――?」

「分かってるよ。もちろん正式じゃないけど。でも、母さんが言ったんだよ。そろそろわきまえなさい、ってさ」


 母親が、言葉を失う。

 この国の社交界において、昔から、社交の場で白い花を胸に飾った若者は結婚相手を求めていることを意味する。その花を交換することは、アプローチを受け入れて次の段階に進んだことを意味する。つまりは、姉はプロポーズをされ、それを受け入れた、ということだ。

 当世では、そこまでの深い意味はなく、恋人にするくらいの意味しかない。それでもお見合いを進めている今夜便宜上赤い花をつけていたエイダは、トーマスとは花を交換したことなんてない。

 そこで、エイダははっとする。

(さっきの、お化けみたいな人! あの人、白い薔薇を胸につけていたわ!)

 エイダは自分が変わった人扱いをした男の求愛を、姉が受けたことに衝撃を感じた。少し歳の離れた姉は男友達が何人かいるようだが、姉妹の秘密の会話でも恋愛の話なんて聞いたことがない。それに、あのような男はどのパーティにも見たことがない。

(じゃあ、お姉様はこの数時間で、恋人を決めたってこと?)

 男は長い黒い髭を生やしていたため、顔はよくわからなかった。しかし、その目は不思議な虹彩をしていて、虹色に輝いていたことをエイダは思いだす。その目は確かに、美しいものであった。芸術を愛する姉は、美しいものにひどく弱い。そして、いつでも直感的にものごとを判断する。

(でも、でも、そんな簡単に決めてしまっていいの?)

 驚きながらも喜んでいるように見える母親も、エイダには衝撃だ。親の決めた人ではなければ許さないと考えている、とずっと思っていた。

(それなら――)

 エイダはなんだか苦しい胸を抑えながら、姉の胸元を見つめる。その複雑な心の理由は、エイダ本人にも分からなかった。姉がその長い指で、胸に挿したギンバイカの一枝に触れる。

(お姉様……)

 エイダにはその仕草が、ひどく愛おしいものを触れる様子に見えた。

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