第2話 舞踏会

 エスターは壁にもたれながら、ぼんやりとボールルームでのダンスを見つめていた。

 公爵と公爵夫人の人脈が被らないからだろう。見渡すと、エスターが公爵夫人のサロンで会ったことのある人と会ったことのない人がちょうど半数くらいだった。

 妹のお見合い相手もこのパーティに来ていたとのことで、母親は妹とそちらの方に行ってしまった。父親は同年代の男性陣の輪に入って出てこない。

 したがって、エスターは独り、壁の花をしている。鼻からダンスをするつもりはなかったので、一人でいることに気恥ずかしさはない。しかし、頭の中では家を出る前に母親から投げかけられた言葉が渦巻いていた。


「いつまでも絵ばかり……か」


 エスターは自分の胸元を見下ろす。薔薇はまだ元気で瑞々しい。今はキャンバスのごとく真っ白に見えるが、日の光の下では薄い黄味がかった色に見えるだろう。花弁の中心は神秘を感じさせる。そこに色を重ねようという気が起こらないほどの美しい自然の造形。エスターはほうっと息を吐いた。

(好きなことをしないと生きていられないけど、好きなことだけで生きていけるわけじゃない。だから、貴族はその生活や趣味を続けるためにも結婚するのかな)

 甘い匂いを漂わせている花をじっと見ていると、その薔薇にエスター以外の指がかかった。


「テス、君がパートナーを募集しているなんて初めて見たな」


 パーティを独りで過ごしていれば、余計なお節介を焼く者も出てくる。舞踏会では全女性に声をかけなくてはいけないと思っている連中や、壁の花は紳士の恥だとするタイプの者だ。顔をあげると、その両方を併せ持つ見知った顔――シドがエスターの横に立っていた。


「募集なんてしてない。だから、今夜は放っておいて」

「氷のような目だな。それにしても、遠目から見たら完全に少年みたいだったぞ。見事な金髪だったのに。勿体なかった」


 シドが先日の騒動のことを持ち出す。その時の不愉快な発言を思い出し、エスターは眉根を寄せた。癇癪を起こしたとはいえ、あんな男のためにその場で髪を切るほどじゃなかった。と言うことは、今のエスターには分かっている。

 エスターの苛立ちにシドは困ったように笑い、そのライトブラウンの瞳でウインクを投げた。危うきには退散するべし。隙あらば女性と浮き名を流しているシドはそれを心得ているのだろう。

 ただ、去り際に、シドはこっそりと耳打ちを残していく。


「ここに来る前、劇場の書割を見てきた。良い絵だったよ。今夜はそれが言いたかっただけなんだ。おやすみ」

「……ありがとう。いい夜を」


 エスターは小さくお礼を言う。その声はちゃんと聞こえたらしい。エスターの方へは振り向かずに手を振って、シドはさっさと行ってしまった。

 友人の言葉に少しだけ気持ちが膨らむ。しかし、それもすぐに萎んでしまう。あれは無賃での仕事で、誰が時間や画材を使って描いたかなんて一部の人しか知り得ない。絵のことだけを考えて独りで生きていく支えにはならない。

 親が言う通りの安定した相手と結婚してしまえば、心配しなくて良くなるのかと自問自答する。しかし、その答えはエスターには出せるものじゃなかった。もしその結婚が上手くいかなかった場合、両親のことを恨んでしまうだろうことに、エスターは自分自身気づいている。どうせ後悔するならば、自分で選択しなくてはならないことも分かっていた。

(趣味が同じ人や理解がある人は居るだろうけど、きっとだからこそ余計に対立してしまうだろうな。私や私の趣味に興味のない人と結婚できれば良いのに)

 再び壁に寄りかかっていると、またエスターに話しかける者が来る。深紅のドレスを着た公爵夫人が、招待客であるエスターにわざわざ声をかけに来てくれたらしい。今夜も夫人は露出が少なくとも艶やかだ。先ほどシドには少年のようだと揶揄われたが、色っぽい夫人と並べば確かに少年でしかないとエスターは思った。


「あら、シドはもう行ってしまったのね。テス、来てくれてありがとう」


 そう言って美しく微笑んだ夫人は、すぐにエスターの胸元を飾る白い薔薇に気づき声をあげた。


「あら。ついに貴女も世間の風潮に折れてしまったのね」


 皆が皆、胸元に飾った花が何色だということに拘り言及してくるのに、エスターは驚いた。シドの胸元には花が飾っていたかどうかなんてエスターは見ていなかった。見ると、夫人の胸元にはシルク製の薔薇が飾られている。

(みんな、意外と気にしているものなんだな)

 エスターは苦笑いを浮かべながら、自分は望んでいないのだと告げた。


「髪を短くしたせいで、母に目をつけられてしまったので」


 瞬間、公爵夫人は柳のような眉を歪めた。エスターは冗談めかして言ったつもりだったが、公爵夫人には面白く伝わらなかったらしい。エスターを気遣うように、そのほっそりとした指でエスターの短い髪を撫でた。


「あの時は驚いたわ。……でも、またサロンには来てちょうだいね」


 サロンでの出来事について周囲に気を使わせているのを感じ、エスターは自分の軽率な行動を恥じ入る。だから、出来るだけ気にしていない風を装い、にっこりと笑った。


「もちろんです、マダム」

「きっとよ?」

「ええ……それで、今日は母に監視されていますので。後はこっそり隠れていますよ」


 エスターがそう言うと、ようやく夫人はいつものように笑った。その場を離れる非礼を詫び、エスターはバルコニーへと向かった。

 幸運にも、愛を囁くカップルや時間を潰しているような先客は居ない。誰も居ないことを見て、エスターはやっと安堵のため息をついた。ため息は思いがけず大きく響いたが、どうせ誰もいない。


「……何をしているんだろう」


 いつもならば、月明かりや蝋燭の灯りでデッサンをしたりしている有意義な時間を過ごしている頃合いだ。人付き合いが無意味だとは決して思わないが、最近の出来事や母親の説教の影響で気が乗らず、今夜は億劫でしかない。

 バルコニーの蔦の這う手すりに腰掛け、エスターはもう一度ため息をつく。このまま庭に飛び降りて、全てから逃げ出せたらどんなに気が楽か。

(つる伝いに、降りられそうだけど)

 ずり、と座っている手すりに乗せた腰を動かす。と、バルコニーの下から鋭い悲鳴が聞こえた。


「危ない!」


 声に驚き、バランスを崩して下に落ちる。思わず掴んだ蔦に宙吊りとなった視界の中、エスターは今までに見たことのない不思議な色の瞳と目が合った。

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