きみは隕石
かなえなゆた
第1話 準備
「エスター・ニュークレスト! そんな格好でパーティに行く気なの⁉︎」
初夏の夕べ。ニュークレスト子爵家の居間の和やかな空気を悲鳴が切り裂いた。膝の上で寝ていた飼い犬は椅子の下へ逃げ、楽しく談笑していた妹は縮こまってしまった。エスターは面倒くさそうに振り向く。アイスブルーの瞳が、わななく母親を冷たく見据えた。
「そんなんじゃ、殿方からダンスに誘われないわよ? いつ素敵な方と出会うかなんて、自分じゃ選べないんだから。
「別に変な格好じゃないし、誘われたいわけじゃ――」
反論は途中でかき消される。母親の怒りの声を聞きながら、エスターは文句をつけられている自分の服を見下ろした。白のジャケットに白いシャツ、白いスラックス。エスターのいつも通りの格好だ。
(女がズボンを履いちゃいけない理由なんてないのに。油彩の時にも便利だし)
絵の具で汚れていたり、シワがあるわけではない。しっかりした生地で、品格に欠けるような安物では決してない。
怒られているというのにどこか他人事なエスターの態度は、更なる不興を買ったようだった。母親の説教の内容は目の前の服装から、直近の出来事にまで広がってしまう。
「髪の毛にしたって、突然男の子のように短くして! 理由も話してくれないし、なんだって貴女という子は。エイダを見習ったらどうなの? 貴女がそんなんだから、エイダが婚約できないのよ!」
話が飛び火し、突然名前を出された妹は小柄な身体を余計に小さくして俯いた。
内気な妹が自分のせいで叱られるのには耐えられない。エスターは抗議のために立ち上がった。最近、エスターは感情的になったことで苦い経験をしている。それを活かし努めて落ち着いて話をしようとした。
「……母さん、私とエイダは関係ないよ。エイダのお見合いの話はうまくいってるんでしょう? エイダが婚約や結婚を望むのなら、いつしたっていいんだ」
妹を庇うように立ったエスターに見下ろされ、母親は少しだけ冷静になったらしい。それとも癇癪持ちのエスターが珍しく感情に走らなかったことで、毒気をぬかれたのかもしれない。咳払いをし、少し語気を下げた。
「それでも、もう二十二歳なんだから。貴女もそろそろわきまえなさい。普通は年上から結婚するものなのよ。早くお父様と私を安心させて頂戴」
「それは――申し訳なくはあるんだけど」
「絵を描くのはいいことだけど、そればかりしていても仕方ないわ。いつまでも子どもみたいで……それで、本当にその格好で行くつもりなのね?」
念を押してくる母親に、エスターは頷く。それでも自分を変える気なんて毛頭ない。
大きなため息をついた後、母親はエスターと妹を横に並ばさせた。続けて、エスターの胸元のブートニアに白いカーネーションの花を挿し、妹の胸元には赤の花を飾る。それから、母親はエスターの肩に左手を置き、右手の人差し指を額につけた。
「光の精霊ルチアよ、どうか私の愚かな娘の目を開き、正しい方向に導いて下さい。それから、一刻も早く、その胸に赤いカーネーションを飾れるようにして下さい」
ぽわ、とあたりが輝く。うまく魔法が効いたのを満足そうに見つめ、今度は母親と妹が向き直った。同じような作法で、精霊に祈りを奏上する。
「守護の精霊カタリナよ、どうか私の娘から誘惑を遠ざけ、来たるべき時まで守って下さい」
先ほどの明るさではないが、ほのかに妹の額のあたりが光った。
「やっぱり連続でお願いすると、効きが薄くなるわね」
母親はじっくりと妹の額を覗き込み、やがて諦めたのか妹の前髪を整え、その頭を撫でた。
エスターも自分で自分の額を撫でてみる。いくら母親がエスターのことを考えた行動でも、それはエスターが求めることとは違う。エスターは(これじゃ祝福も呪いも変わらないな)と思った。しかし魔法の不得意なエスターには、自分にかけられた忌々しい魔法をどうやって解くのか皆目見当がつかなかった。
「さあ、これで準備はできたわね? お父様を呼んでこなくちゃ」
慌ただしく、母親が居間から出ていく。その姿を見送り、それからエスターは妹を見た。妹のペールグリーンの瞳と目があう。妹は曖昧な笑みを浮かべた。
「お姉様、ダメよ。お母様に怒られちゃうわ。私は解かないわよ」
「……ダメかあ」
妹に次に出そうとしていた言葉を取られ、エスターは半笑いで胸の白い花――パートナー募集中のサイン――を抜き取った。あまりの押し付けがましさに潰してしまおうとも考えたが、花に罪は無い。どうすることも出来ず、その花をマントルピースの上に飾られた花瓶の花々に紛れ込ませた。
縁遠いエスターとは対照的に、妹のお見合いは間違いなくうまく進んでいるようだ。胸元を飾る赤い花は、『決まった相手がいるから誘うな』というサインだ。きっと妹のダンスカードにはその何某の名前がすでに埋まっていることだろう。
本当はパーティも行かず、家で絵を描いていたいとさえ思っている。今夜の主催者があの公爵夫人でなかったら、エスターは欠席していただろう。妹と連れ立って、しぶしぶ玄関に向かう。
先を歩く妹のよく手入れされた髪を見つめているうち、エスターはなんとなくの違和感を感じる。それは妹が振り返ったことで、やっとその正体が分かった。
「あれ、濃いピンクのリボンなんて、珍しいね。いつも目と同じ緑や薄い青を選ぶのに。初めて見たかも」
妹は長い金髪をいつもリボンで結い上げたりまとめたりしている。しかし、今夜は見たことのないリボンを使っていた。妹の着ている淡いピンクのドレスとセットのものとは思えない。それがどこかちぐはぐな印象をエスターに与えていた。どうも妹らしくない。母親のセンスとも違う気がする。
考えなく放った直感的な言葉に、妹は困った顔をした。今日は妹の表情を曇らせてばかりだ。少し逡巡するように俯いた後、最後に妹は頭のリボンに手を伸ばした。
「これ、そのお見合い相手の方にもらったの」
エスターは目を瞬かせた後、馬鹿なことを言ったのだと気づき後悔した。慌ててリカバリーを図るが、妹は小さく首を振った。
「分かってる。男の人のセンスだって、お母様も言ってた。こういうピンクのフリルのリボンをつける可愛らしいタイプだって思っているだけ……光栄だけどね」
「そ、そっか。珍しいから気になっただけで、ピンクも似合うよ」
そうは言ったが、結局他人と深く付き合うということはこういうことなのだとエスターは再確認した。背の高いエスターと比べると、妹はとても小柄だ。内気で穏やかではあるが芯のある性格で、子供っぽくなどない。見た目は女の子らしいがフリルなんてつけないし、シンプルな装いを好む。
(そんなことも分からない相手と結婚するなんて。まだエイダは十八歳なのに)
そうエスターはまだ見ぬ妹の見合い相手に失望した。
自分とは同じ考えやセンスの人間なんて居ないことはエスターにも分かっている。しかし、理解のない結婚をした時、結局その皺寄せは女性に来るのだとエスターは考えていた。だから、心配してくれる母親や父親には悪いとは思いつつも結婚なんてしたくないと感じていた。
「あら、ダニエル。貴方もう寝る時間じゃないの?」
妹の声が上がる。玄関では、寝巻き姿の弟が立っていた。
「みんな出かけちゃうし、見送りにきたの。寝る前に誰もいないのは寂しいから」
まだ夜のパーティに行くような年齢でない弟は留守番だ。散々母親にせっつかれたエスターは、それを羨ましく思ってしまう。しかし、せっかく年のずっと離れた弟が見送りにきたのだ。エスターは憂鬱さを堪え、その丸い額におやすみのキスをした。
「おやすみ、エスター。いってらっしゃい。楽しんでね」
「……おやすみ、ダニエル」
弟が部屋に戻ったのと入れ違いで、父親と連れ立った母親がようやく玄関に現れる。
「あら、エスター! あなた、お花はどうしたの?」
母親はエスターが胸元から花を抜いたのを目ざとく見つけ、声を上げた。
「先に乗っているよ」
父親が気を使ったのか妹に声をかけ、先に馬車へと向かう。それについて行こうとしたエスターは母親に腕を掴まれ、玄関に飾ってあった白い薔薇を一輪握らされた。不本意ながら、エスターはそれをジャケットのブートニアに挿す。
不満を露わにしているエスターに、母親は我慢がならなかったらしい。人指を掲げ、小声ながらはっきりと宣言した。
「エスター・ニュークレスト。貴女が不満なのは知っているわ。でも、優しく言われているうちが花よ。親は永遠に生きるわけじゃないの。結婚しないのなら、家を出て独りで生きていくしかない。そしたら、家庭教師にでもなるしかないのよ?」
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