◆ 四月

◆ 四月


 今日も良い天気だ。菜の花がせわしなく風に揺れている。私の家の近所には菜の花が咲いている場所は思いつかないので、どこか別の場所で咲いている菜の花を一丁前に情景描写で使ったことはご了承していただきたい。何が言いたいのかというと、とりあえず今日も良い天気だ。

 良い天気で言うと、最近私は、仕事以外特にどこにも出掛けていない。せっかく日記を書き始めたのに二回目で早くも外でのネタ集めをおこたるなんて、もう既に止める徴候が出ているのではないかという指摘は、全くもって反論できない。さらに言うと、出掛けなかったのは仕事が忙しかったとか別の用事があったとかではない。単純に、どこかに出掛けようという気力がなかったのだ。気力がなかったというより、気力が起きなかったと言った方が正解だろうか。気力が起きなかったから計画が立たず、計画が立たなかったから予定が生まれるはずもなく、結果的に空いた時間は全て、家で怠惰な時間を送る始末になった次第である。

 そうやって何かと面倒くさがったり、あるいは言い訳を準備して行動を起こさない自分を見つめ直すためにこうやって文章を書き始めたのに、肝心の自分の行動自体を変えられないのは、やはりやり方が間違っているのではないかという不安に駆られる。まだ二回目であるし、そもそも見つめ直すべきなのは「やはりやり方が間違っているのでは」という先入観に支配された自身の根底なのであって、それはまさにこういう風に書きつづることで見つめ直せるのであって、やり方自体は間違っていないという筋道と結論は自分の中では充分に準備しているつもりなのだ。

 だからこそ、行動を起こせない自分がもどかしい。ただどこかに行ってみるという単純な事実、ただどこかに行ってみたいという単純な動機、そして、それを起こすための極めて単純な好奇心、私に必要なのは、ただそれだけなのだ。それだけを実行すればモヤモヤしたものの大半は解消されるとわかっているし、そこから生まれる喜びに覚えもある。周りの目によってそれが阻害されているなんてことは全くないのも、それ以上にわかっている。だから、あとは自分の問題なのだ。あともう少し自分に動機があれば、あともう少し自分に好奇心があれば、あともう少しだけ、自分を肯定するための事実があれば──、私はきっと、心置きなくこの日記を止められるだろう。

 二回目の冒頭でこんな辛気臭い事柄ばかり書いて申し訳ない気持ちでいっぱいだが、何より私が今声を大にして言いたいのは、今日は良い天気という事実だ。お出掛け日和であり、「映える」写真を撮るための重要な条件であり、私の心が少しだけ穏やかになる、今日は、そんな良い天気だ。誰が何と言おうと、この日記の中では、今日は良い天気なのだ。


 ということで色々グダグダ書いてしまったが、日記にはこれからもこんな感じに無秩序な思いの丈をぶちまけるつもりなので、自分でも読み返す際は覚悟が必要である。別に他人に見せるものでもないのでその点は特に気にしていない反面、こういうことを仮に「思想」として小説か何かの体で書き殴ったら、或いは評価されるかもしれないなんていう衝動は、文章を書き始めた人間なら誰しもが通る道なのだろうか。自分も今ほのかに感じているが、スラスラと自分の頭の中を文章にし、そうして出来上がったものは噛み砕いた上で意味が伝わるような難解風の文章に仕上がり、SNSなどで見受けられる簡略な文章と自分の文章を比較したとき、自分は小説家の素質があるのではないかという錯覚に陥るのも、誰しもが通る道なのだろうか。

 いや、「思想」が危険なのは自分でもわかっているつもりだ。そうやって自分の中にフィルターを敷いておけば、表に出ているものの「痛い」としか評価されない凡才共とは違うというより危険な思想に溺れそうになるのも、自分としてはわかっているつもりだ。とにかく、私に必要なのは事実である。事実を作るためには行動が必要で、行動を作るためには○○が必要、みたいな自己啓発本みたいなことを書き続けるのはさすがにやめようと思う。次回からはちゃんと、事実に即した事柄を書こうと、努力はしてみるつもりだ。


 ということでまたしても色々書いてしまったが、最後に事実っぽいことを書いて、今回は締め括ろうと思う。

 というのも、前回話に出した虎藤虎太郎について、自分なりに少し調べてみたのだ。突然行方不明になったくらいだからさすがにニュースになっていると思い色々さかのぼってみたのだが、東京のローカルニュースでそれらしき成人男性が行方不明になったという記事が一つあっただけで、全国ニュースでは全く触れられていなかった。さらに言えばそれ以降の続報はなく、まるでニュース自体が行方不明になったかのように、真相は闇の中へと消えていってしまった。

 まあしかし、それに関してはある程度は想定内だった。虎藤虎太郎が実際にはどんな人物だったかはわからないが、小さな子供と違って成人した大人一人が行方不明になるというのは、その裏にある本人の原因を連想せざるを得ない。例えば借金であったり、何かしらの致命的なミスをして誰かから消されたり、或いは自らその結果を避けるために身を隠すといった、「事情」が介在する場合がある。もちろん本人の周辺の人々にとっては大きなニュースだろうが、世間に与えるインパクトの面では限界がある。

 虎藤虎太郎という男がどのパターンに当てまるのかは、現時点では想像することしかできない。何かの事情を抱えていたのか、何かの事情に巻き込まれたのか、はたまた今のこの状況が全て虎藤虎太郎の計画通りだったのか、残された人間には想像することしかできない。

 だけど私たちが想像したところで、虎藤虎太郎の本質はわからない。今私にわかっているのは、虎藤虎太郎は突然この場所から姿を消し、以来誰の目にも触れていないという事実だ。そして、虎藤虎太郎が行方不明になった「事情」を知るすべは、私にはない。虎藤虎太郎はもしかしたら、志半ばで不幸の最期を遂げたのかもしれない。或いはどこかで生きていて、このアパートで過ごした日々をふとした瞬間に思い出しているのかもしれない。


 長々と書いていたら、すっかり夜が更けてしまった。この時間になると妙にお腹が空き始める。眠っているときや朝起きたときは大して感じないのに、起き続けていると途端にお腹が空いてくるのはどういう生理現象なのだろうか。

 おそらくそんな現象はとっくに生物学か何かによって解明されているのだろうが、私が今考えていることは、何かが食べたいということだけだ。この時間だと、特にラーメンが食べたくなる。しかし近所にこの時間まで開いているラーメン屋はない。カップ麺や袋麺はあるけれど、それはなんだか負けた気がする。

 したがって私は、今日この夜半をなんとか耐え忍んで、明日以降に近所のラーメン屋に足を運ぼうと思う。これも所謂いわゆるお出掛けの一種であるし、加えてこの前、大家に近所にあるおすすめのラーメン屋を紹介してもらったのだ。そのラーメン屋はシンプルな醤油ラーメンベースで、普通のラーメンはまあまあな量がありながら一杯六〇〇円とリーズナブルであり、さらには三〇〇円の餃子や炒飯をつければ一〇〇〇円以内でお腹いっぱいになれるのだ。ラーメンを大盛りにしてもプラス一〇〇円なので、それでもピッタリ一〇〇〇円で収まる。もちろんビールなどを飲んでもいいが、私は久しぶりにラーメン屋で食べる餃子に惹かれたので、今度行ったときはラーメンと餃子のセットで頼んでみようと思う。私は普段あまり多くの量は食べないのだが、ラーメン屋は昔から好きで、ラーメン屋に行くといつも気分で普段以上の量を食べてしまう。そんなことを考えていると余計にお腹が減ってきたので、もうそろそろ寝るとしよう。

 明日からもまた良い天気が続くと嬉しい。その方がどこかで咲いている菜の花も喜ぶだろう。どこかで花が咲くのを楽しみにしている虎藤虎太郎も、きっと喜んでくれるだろう。


 それでは、また会う日まで。

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