第5話

優希は幼い頃から美しい音楽が好きだった。母の意向で幼少期からピアノを習っていたが、ピアノの前に座ると、鍵盤の上でメロディを奏でる瞬間が何よりも好きだった。そのうちに、優希の夢は音楽家になることになっていった。実際に、優希のピアノの才能は一目置かれるものであり、その夢を叶えるために練習に励んでいた。


ある日、優希は意を決して父にその夢を話した。夕食の席で、父の顔を見ながら、「僕、音楽家になりたいんだ」と告げた。しかし、父は一瞬の沈黙の後、冷ややかに言い放った。「男が音楽で食っていけるわけがないだろう。音大なんてのは女が行くところだ。現実を見ろ。お前はどうやって生活できている? 私が稼いでいるからだ。勉強もろくにせずに音楽ばかりしているかと思ったら、あきれてしまった。」優希の母が気まずそうに「お父さん、そんな風に言わなくても」と優しく言ったが、父は表情を緩めず「ちゃんとした大学に進みなさい。私の母校の法学部がいいんじゃないか。お前は男なんだから、自分の未来をちゃんと考えなさい」と固く言った。


「男なんだから」という言葉は、優希は一番嫌いだった。その正体はわからなかったが、優希は自分が男であることが、なんとなく嫌だった。そのために、優希は父の言葉に胸を締め付けられた。父の期待に応えようとする自分と、本当の自分との間で揺れ動く心。それでも彼は父の言葉に逆らうことができず、法学部への進学を受け入れた。


優希は上京し、東京のある大学の法学部へ進学した。しかし、法学部での授業は優希にとって苦痛以外の何物でもなかった。教室に座り、教授の講義を聞きながらも、その内容には全く興味を持てなかった。法律の条文や判例に関する講義は、彼にとって無味乾燥なものであり、心はいつもピアノの前にあった。


キャンパスでの生活もまた孤独だった。同級生たちと話が合わず、友人を作ることができなかった。昼休みのカフェテリアで、彼は一人で座り、周囲の笑い声や会話が耳に入るたびに孤独感が募った。


特に辛かったのは、美しい女子たちが楽しそうに過ごす姿を見ることだった。彼女たちの笑顔やおしゃれな服装を見るたびに、自分が男として見られることに耐えられなかった。キャンパスを歩いているときも、男扱いされるたびに心が痛み、「自分もあんなふうになりたい」と強く願った。


優希は次第に自殺願望に囚われていった。夜になると、自室の暗闇の中で涙を流しながら、自分の存在価値を問い続けた。「このまま生きていても、意味がないんじゃないか」と何度も思い詰めた。


SNSで調べると、女装したい人の集まりを見つけた。怖かったが勇気を出して、優希は夜の街へ出かけた。女装サロンだと聞いていたその場所は、バーの一角だった。そこには服がたくさんあり、20代後半と30代前半くらいの二人の女性がいた。


「あ、君が優希ちゃん?」その声は低く、男性の声だった。20代後半くらいの女性は女装をした男性で、アキと名乗った。もう一人は女性としては低めの声だったが、女性の声で、カナコと名乗った。彼女は純女のようだった。何もわからなかった優希だったが、カナコとアキにメイクをしてもらった。


アキと一緒に服を選び、可愛らしいワンピースを着てみて鏡を見た。最後にウィッグを選び、鏡を見つめると、「かわいいじゃん」とカナコが言い、一瞬、優希は高揚した気持ちになった。


しかし、優希が周囲を見ると、他にも何人か女装をしている人がいた。自分より綺麗に見えたが、それでもどこか、雰囲気や見た目に男性らしさを感じた。そのうちの一人が「お、見かけない顔だね、新しい子?」と声をかけてきた。優希は自分と似た人なのかと思って話してみたが、その人は女友達から「似合うんじゃないか」と言われてノリで始めたということだった。一人称はずっと「俺」で、見た目は女性らしかったが、雰囲気は男性的だった。


「なんだか自分とは違う気がする」と優希は思った。他の女装者も同じような感じであった。優希がもう一度鏡を見ると、確かに綺麗だが、どことなく男性らしさが隠れていないように感じ、むしろ吐き気すら覚えた。優希はここには二度と来なかった。


そして、部屋の奥にあった女性ホルモンに手を出し、飲み込んだ。それは優希にとって、最後の希望だった。

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