第22話 東温のいない日々



 今年で十一歳になる止水は人生を長い坂道と考えている。のぼるためにある坂道。時に足がすべったりで、せっかくのぼったのに、一気にスタート地点まで転がり落ちることもある。その時はまた頂上というゴールに向かって上がっていくしかない。人生はそのくり返しだと。



 後ろはふり返らないのが、止水の主義だ。それは、ふしぎで特別な出会いだった。だけど、これからはそのどれもが過去になる。すぐにはできなくとも、少しずつでも東温たちのことを忘れようと、止水は胸に誓う。



 翌日の朝。世利果は朝食のメニューとして、止水の好物であるベーコンエッグマフィンを作ってくれていた。



「止水、今は辛くても、きっと時間が解決してくれるわ」



 あたたかくておいしい料理が止水の心を癒す。



 今日は日曜日。止水は朝食の後、友高のパソコンを借りて、フードファイターの動画を見た。そこには東温が映っている。東温が人間界にいたというあかしだ。



「この時はみんないたのに――この時はまさかこうなるとは思ってもみなかったな。この時に戻りたい」



 画面の中の東温を見つめる止水の目がうるっとなる。



「東温、元気にしているかな……」



 止水はぼそっと言う。東温のことを考えると、最後に冷たく突き放せばよかったと感じる。東温が幻滅するよう、とことん嫌な女を演じていればよかったと。しかし、時空ずい道が閉ざされる前に戻れたとしても、止水はそうすることができないだろう。いつだって自分に正直な気持ちを伝えてくれた東温を前にすると、本当の気持ちとは正反対の気持ちを向けることはできない。



 止水は正午を過ぎる前に家を飛び出し、店に向かって、二階に上がる。東温が沖豊を連れてそこにいることを期待した。彼が嵐のような時空ずい道に吸い込まれるようにして消えていったのは、悪い夢だったと。けれども、そこにいるのは飲み食いしているひとりの客だけだ。



 止水はいちるの望みをかけて、壁のポスターをめくる。しかし、目の前には傷ひとつない真っ白な壁が見えるだけだった。



「うう……」



 止水は現実を直視する。また涙が出た。東温と別れてから、泣いてばかりだ。



 これが沖豊や譲奈との別れなら、止水も受け入れられていただろう。でも、止水の中で東温は他とはっきりとした区別があった。



「うう」



 そこで、止水の胸が痛みだす。沖豊に診てもらった時の経験から、これが病気によるものではないと理解していた。そして、東温を思う時にだけ痛むことに気がつく。



「好きだからこそ、心が痛んだり、苦しくなる時があるのね」



 病気のようなこの状態は恋の悩みによるものだと、止水は心づく。



 次の日も、止水は学校へ行く前に店へと寄ると、真っ先に二階のポスターをめくる。



「東温! 東温!」



 両手で壁をたたいて、名前を何度も呼んでみた。だけど、自分の手のひらが痛くなるだけに終わる。



「当分ここへ来るのはやめておこう……」



 最初から東温と出会わなければこんな気持ちにならなかったのかと、止水は思う。ただ、今がどんなにたえがたくとも、東温を知らないで生きる人生がよいとは少しも思えない。東温と出会う前もそれなりに楽しかったけれど、この記憶を失いたくはなかった。



 東温たちの別れから一週間以上が経った頃。止水はぼうっとした頭で家の階段を上がっていた時、足を踏みはずしてしまう。



「あっ」



 体が宙に浮いたかのような感覚になると、急スピードでいちばん下の段まですべり落ちていく。幸いにも頭を打っていなく、すり傷もできていない。ただ、体が少し痛い。



 もしも、東温がそばにいたのなら、止水も無傷でいられただろう。



「こんなの嫌だよ」



 止水は声に出して泣いた。自分は人生という坂道をひとりではのぼれないと、そこでさとる。そんな人生は退屈で、意味がないのだと。東温と一緒でなければ、彼と一緒がいいと、心が叫びをあげる。



「東温、ずっとあやかしの世界と人間の世界を行き来してよ! 私は一生の別れなんて嫌だよ!」



 止水は床に倒れたまま、号泣した。



 その時、左手首につけていたうでわが光る。それは腕首守だ。沖豊に渡されてからいちども外すことなく、手首につけていた。結局いちども使うことがなかったため、止水自身も気にとめることもなく、もはや体の一部にすらなっている。



「そう言えば、これ、私が助けを求めたら、東温の腕首守に反応するって言っていたな」



 まさか光るとは思わず、止水は自分の手首をじっと見つめた。



「もしかして、私の思いに反応している?」



 体の痛みもなんのそので、いそいで店へと向かう。二階に上がり、ポスターをはがす。



「東温、お願い、会いに来て!」



 止水は壁に向かって、強く願った。



 すると、そこに黒い穴ができる。最初は点のようだった穴はどんどんと大きくなっていく。時空ずい道がふたたび開通したようだ。



「やった!」



 止水はその場で飛びはねてよろこぶ。トンネルに以前のような亀裂はない。前と同じようで、全然別物なのかもしれない。




「東温ー! 東温ー!」



 止水は穴に向かって必死で叫ぶ。黒い穴の中はしんと静まり返っている。



「やっぱりだめか……」



 これは一方的に出入り口ができているだけかもしれない、と止水は推測した。あやかしの世界へは通じていないのだと。



「止水!」



 落胆しかけたその時、東温が向こう側からやって来た。東温は店に入るやいなや、止水のことを抱きしめる。



「東温! 来てくれたんだ!」



「言っただろう。止水の助けが必要な時はいつでもかけつけるって」



 止水は自分の手首を確認した。腕首守は今も光っている。 



「止水さま! おひさしゅうございます!」



 続いて、沖豊も到着する。



「しかし、びっくりしました。時空ずい道がふたたびその姿をあらわすとは。まさに奇跡です」



「光る腕首守を見て、試しに壁の前で東温を呼んでみたら、時空ずい道があらわれたの」



 東温が来たのもあってか、腕首守はもとの状態に戻っていた。



「東温や譲奈さんの力でも直らなかったのに、なんで私の思いで穴があいたのだろう?」



 止水の疑問に、沖豊も「うーん」と考える。物知りな沖豊でも、初めての事態になにも答えられないようだ。



「おそらく、止水があやかしじゃなくて人間だったことが、よい結果をもたらしたのか」



 東温はおしはかる。



「攻撃にも、相性というものがありますしね」



 沖豊があいだに入った。



「もしかしたら、止水の力がいちばん強い、ということなのだろうな」



 東温はそう言うと、声に出さずに笑う。



「えー。それって、名誉あることなのかなあ」



 止水としては、か弱いだけの女の子というのは自分の理想でないけれど、東温に助けのいらない無敵の女の子と思われるのも複雑だ。だけど、東温と再会できたのならなんでもいいと思った。

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