幕間1

第29話 幕間 ソニア・ウェストンの憂鬱な日々

 ソニアは窓から見える景色に顔を寄せて頬杖ほおづえをついていた。右手には鉛筆。小指の付け根がひどく汚れて、ソニアはそれがあまり好きではなかった。自身のお気に入りの万年筆が自室の引き出しに眠っていることを思い出しながら、ソニアは机の上の教科書へゆっくりと視線を動かした。


 そのページには大学で学べる学問の一覧が並べ連ねられている。シニアスクールも最終学年、大学進学に向けた勉強が始まるシックスフォームへの進学の準備期間だ。ソニアは母親のヴェロニカ同様、のちに研究所を継ぐことになるだろう。それはつまり医学部へ行かなければならないというしがらみが手を伸ばし始めていることに他ならなかった。


 ソニアは教師が少し声を張ったのに気が付いて、顔を上げた。黒板には『生物学という学問について』と書かれている。今日は生物学の講演か、と半ばうんざりしながら背筋を伸ばした。


 板張いたばりの廊下をいくつかの革靴の音が満たしていく。どうせ進学先は決まっているというのに、この時間は少し無駄だとさえ思ってしまう。それはただの思春期による視野の狭さだと理解しているだけ腹が立った。


「こんにちは、三年生の皆さん。私たちはウーヌス大学の卒業生で、現在は研究所に所属して研究を続けている者どもです。私は今回、講演させていただく──」


 耳から名前が滑り落ちる。

 母親はじょ男爵だんしゃくだが、自分はのちにその爵位をかかげられるような人間だとは思わない。なにせ、社交界というものがあまりに苦手すぎる。


 今だってそうだ。聞いたばかりの名前がもう頭から零れ落ちている。この教室にいる半分以上の生徒の名前もうろ覚えだった。


「今日、お手伝いにいらしてくださっている、同業の方を数名ご紹介します」


 一人、二人、扉から似たような容姿の男性が現れる。そして次に見えたスカートの裾に、ソニアは首をもたげた。自然と頬杖の手が膝の上に移動する。


「はじめまして、あたしはミラグロス・ベスです。ペルケトゥム研究所に所属して十年になる生物学研究員です」






「ベス!」


 いつもとは全く違う装いに驚いていた。

 ソニアは息を荒げて、集団の後ろについて歩くベスの後ろ姿に声をかける。


「久しぶり、ベス」


 振り返ったベスは片手に書類を持っていて、集団からはぐれることも構わずに足を止めてくれた。


「ソニア久しぶり。そっか、この学校だったわね」

「びっくりした。ベスが講演に来るなんて」

「あたしは講演内容の一部監修をしただけなのにね。あたしもびっくりだわ」


 ベスは落ち着いた赤のドレスに黒のジャケットを羽織って、その上から白衣を身にまとっていた。髪は落ち着いたローバンで、ボリュームのない髪形がどこかさみしい。ソニアが全身をまじまじと眺めていると、ベスはスカートをつまんで首を傾げてみせた。


「今日は大人しめだね」

「いろんな人に服装を改めてくれって引き留められちゃってさあ。少なくとも生徒たちを驚かせるような言動は控えてほしいって。あたしって化け物にでも見えてるわけ?」

「わたしはベスのドレス、いつも素敵だと思うけど……」


 否定意見の多いベスのセンスは先進的を通り越していて、ソニアはいつも感心してしまう。

 先を歩いていた集団の一人が、ベスがついてきていないということに気づいたようだった。ベスは珍しくファーストネームを呼ばれても嫌な顔をせずに返事をする。


「ごめん。あたし午後も他の学年に講演があるから」

「こっちこそ、引き留めてごめん」

「そんなことないわよ。よかったら空いている日にお茶でもしない? 予定を手紙にでもまとめて送ってくれたら、調整するわ」


 ベスは早口でそう言い終えると、ソニアの頷きだけを確認して集団に駆け寄っていく。ソニアは制服のジャケットのえりぐりを掴んだ。


 ベスの背中を見送るソニアの脇を数名の男子生徒が通り過ぎる。今日の講演もベス以外は全員男性で、学校の中もソニアのような女子生徒はごくわずか。

 ソニアは集団の歩幅について歩くベスの後ろ姿をもう一度視界にとらえると、教室の方へときびすを返した。






 ソニアはペルケトゥム研究所のドアノッカーを見上げるだけして、そのままノブに手をかけた。奇を衒ったような外装の建物だが、内装はコンクリートの殺風景と木材の温かみが程よくマッチしていて、変に浮足立たない。


 目の前の応接室を通り過ぎて、ソニアは右廊下を曲がった突き当りの作業室のドアをノックした。それから、ゆっくりとそのドアを押し開く。

 どちらから一番近い席にはエドワードが腰を下ろしていて、本にしおりを挟んでいるところだった。


「ソニアさん、お久しぶりです。誰に御用ですか?」


 ソニアはもうかなり顔を合わせていないエドワードにしり込みして頭を下げた。


「えっと、ベスは……」

「ベスさんなら今日は夕方まで帰って来ない予定のはずですけど、伝言を頼まれますか」

「……いや、上の図書室にいるから帰ってきたらそう伝えて」


 ソニアはもう一度だけエドワードと目を合わせるとすぐに逸らした。どうやって人の目を見ながら会話するのだろう。一生の謎だ。


 ソニアは扉の締め際にその奥の棚から女性が顔を出していることに気がついた。落ち着いた黒を基調にしたドレスを身にまとっていて、見た目という点ではソニアに共通する部分がある。しかし相違そうい点としては、彼女はソニアと違ってずいぶん陰気をまとっていないということだった。


 彼女に首を傾げられたのでソニアは慌てて扉を閉めると、扉を背に一息ついた。

 人との距離をどうも測りかねる。

 扉の奥からは先ほどの女性と思われる声が漏れ聞こえてきた。


「先ほどの上品なお嬢様はどなたですの?」


 それにエドワードは、

「所長の娘さんです」

 と簡潔に答えた。


 これ以上は聞く勇気が出なかったので、ソニアは慌てて階段の方へ小走りで向かった。きっと母と違って暗いとでも言うのだろう。名前を聞いておけばよかった。いや、聞いてどうなるんだ。でも今後をかんがみて会話しておいた方が……。


 ソニアは図書室に駆け込むと、すぐに扉を閉めてソファに座りこんだ。

 どちらにせよもう遅いのだ。ファーストコンタクトは失敗した。あとは挽回のみで、後から後から自分の対人能力のなさに苛立ちが沸き立つ。

 それもこれも、早くに死んだ父親の遺伝子だ。ソニアが六歳の時、父親──ネイサン・ウェストンは実験の最中に事故死した。詳しく言うなら、事故による火傷からの衰弱死、だが。今はそんなことどうでもいい。


 ソニアはむしゃくしゃしてきれいにまとめていた髪をかきむしった。あれよあれよと髪はばらばら乱れてしまって、ため息をつく。

 図書室は嫌いじゃない。むしろ好きだ。でも、こうやって自身にどうしようもないやるせなさが募っているとき、人がいない静かな場所は自己嫌悪を加速させるだけだった。


 ソニアは心機一転しようと、ソファから立ち上がった。本棚にはあらゆる分野の書物が並べ置かれており、いつだってここは宝庫だ。


「なにを読もうとか決めてない中で、本を探すのは不毛か……」

「どうだろうな」


なんだか行動のすべてが嫌になってきて愚痴ぐちを吐いていただけだが、返答する人間がいるとは思わなかった。ソニアは驚きのあまり身を固くして眼だけを動かす。


「珍しいな、ソニアが研究所に来るのは。異様建築が恋しくなったか」

「……」


 ソニアは声の主が現れた瞬間、隠しもせず眉をひそめた。

 心底苦手な人に遭遇してしまった。自分より三十センチも身長の低い、まるでプレパラトリー・スクールかジュニア・スクールの生徒にしか見えないたぐいまれなる天才。難しい古語の混じった話し方をするし、見た目にそぐわない表情を作るところも苦手にしている。


「ベスに用があって。……何の用で出ているのか知らない?」

「知らないな。夕方には帰ると言っていたが」

「それはさっき聞いた」


 ソニアは半ば投げやりになってアルカに答える。アルカは軽く肩をすくめると、手に持っていた一冊をソニアに押し付けた。


「きみが面白いというかはわからないが、読みたい本がないならこれを読めばいい」


 ソニアは表題のない書物に顔をしかめた。


「なにこの本」

「古語で書かれた手記だ。勉強になる」

「家でも勉強しろっていうの? 親でもあるまいし」

「人生は学びの連続でできている」


 アルカはソニアの嫌味を軽く受け流して、否定のできない甘言かんげんを吐く。ソニアはいつもアルカの勧められたことに抵抗ができない。興味を持ってしまうのだ。そういうところもどうも気に食わない。

 勉強をしなさいと言う教師や親よりよっぽど言葉に突き動かされる感じが不愉快だ。でも、アルカは間違ったことを言わないので、ソニアはこれから手の中にある本を読んでしまうのだろう。


「はあ」


 ソニアはあえて聞かせるようにため息をつくと、本を片手に窓際の席に腰を下ろした。


 本を開くと中は言われた通り、古語に満ちていて頭が痛くなる。古語は苦手で、難しい。単語も長ったらしくて好きになれない。それでもソニアは指を這わせて単語と文法をつぎはぎしながら目を動かした。


 内容は古代のゲネシス王国に伝わる神話についてだ。今ならなんでも科学で解決できそうな問題がたくさん提示されている。一つ読み終えて、ソニアは大きく伸びをした。壁にかかった時計は入室した時から一時間も時がたったことを示していて、もう一度伸びをする。

 目を開くと、音もなくそばにアルカが立っていた。その手にはまた一冊の本を持っている。


 アルカは眉を上げて本をソニアの目の前のローテーブルに置いた。それにはちゃんと題が書かれている。


『ディビニ神話から見る現代科学の発展』。


「次はこっちだな」


 ソニアはテーブルの上の本とアルカのの顔を交互に見比べた。


「アルカってわたしのこと神話学者にしたいの?」

「いや、そのつもりはさらさらないが」

「ベスがまるっきり興味示さなかったのが悲しいんでしょ」

「実はかなり悲しい」


 ソニアは思わず鼻で笑った。


「アルカにも悲しいとかあるんだ」

「ボクだって人の子だ。感情くらいある」


 頻繁ひんぱん配慮はいりょに欠けたようなこと言うくせに、自分の感情は主張するのか。


 アルカは再び同じ場所に腰を下ろすと、続きを読み始めた。

 いつもは自室に戻って読むのに、今日は図書室で本を開いている。珍しいこともあるものだとソニアは横目でアルカを見ながら、手探りで解説書を開いた。ディビニ神話はゲネシス王国建国より前から伝わる物語で、いくつか言い伝えられている神話の中で古い部類のものだ。


 アルカはソニアの視線に気づいていたようで、本に目を向けながら口を開いた。


「研究所を意図せず縛ってしまっているのは申し訳ないと思っている」


 それは思いもよらない謝罪で、ソニアは頬がひきつった。


「戴冠式を終えた二十代目の国王にはまた手紙を送っておいたんだ」

「……何の手紙?」

「ボクを国の監視下から外す要請だ」


 ソニアは目を細めた。アルカが何度ゲネシス王国を発っても、必ずこの研究所に戻ってくるのはウェストン家の監視下に置かなければならない制約のためだ。自分の母親が役目を終えたら、今度はソニアが女男爵を受け継いで役目を果たす義務がある。


 母が監視のために何かしていると感じたことはないが、もしかしたらアルカが着るその人形のようなかわいらしいドレスは何かあったときに誰かの印象に残るようにしているのだろうか。箱の中で生涯を過ごしたヴィクトリア女王の永遠の安らかな眠りをソニアは思い出して、ふいと目を窓の方に向けた。


「別に……別にわたしはアルカのことなんかどうとも思ってない。アルカが監視下から逃れたいって思うなら話は別だけど」

「そうか」


 アルカは簡潔に返事だけをすると、目を細めて文字をせわしなく追い始める。会話に飽きたようだ。ソニアは本日数度目かのため息をついて本のページをめくった。






「ごめん、遅くなっちゃって!」


 ベスが勢いよく図書室の扉を開けると、ソファに腰を下ろしていたアルカが本から顔を上げて口元に人差し指をかざした。

 ベスはアルカの視線の先をたどる。そこには窓際で本を膝にうたた寝するソニアが座っていた。ソニアのすこやかな寝顔を前に、ベスは頬が緩む。


「アルカ様、もしかしてずっとここに?」

「疲れていたみたいだな。学校は異性ばかりで気を張っているんだろう」


 ベスはテーブルの上に置かれた表題のない本を見て笑いをこらえた。


「眠たくなるやつだね。アルカ様が選んだの?」

「なかなか興味を示して、初めは丁寧に解読していたが」


 ソニアらしい。

 生真面目で、よく思い詰める、まだ十六歳の少女。ベスは自分が十六の時、ちょうどこの研究所にやってきたその時を思い出す。


「ベスも昔、ボクが持ってきたレベルにそぐわない本を一生懸命読もうとして寝落ちていたな」


 ゲネシス語を習得していた時の話だ。今思えば遠回しな表現だが、アルカは休息を取れという意味だったのだ。

 ベスは眠るソニアのそばにしゃがみこんだ。アルカは察して図書室を去る。


「ソニア、ただいま」


 うっすらと目を開いたソニアはぼけまなこでベスを捉えた。









ここまで読んでいただきありがとうございます。


こんな世界観が好き!

キャラが魅力的!

case.2が楽しみ!


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次回:case.2 人形の森─クインヘイム─ 帰郷のご提案

明日22:00~投稿予定




【新作長編始めました】

後宮の斑姫~次代巫女継承譚~

https://kakuyomu.jp/works/16818093081114362080

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