15

 彼女の名前は田中恭子。菊川によると日本一の霊媒師である。

 年齢は若く、28歳だが、彼女の能力は凄まじく、12歳の時から除霊を行なっており、彼女の活動は国内に留まらず、韓国、台湾、アメリカ、イギリス、ドイツ、と世界中で国や宗教に関わらず除霊をしてきたスペシャリストらしい。菊川曰く、「彼女が無理なら、おそらく無理だろう」と言われた。

 菊川が電話をした時、彼女はちょうど自宅のある三軒茶屋で休暇を取っていたそうだ。菊川の話を聞くなり、興味を持ち「直ぐに行く」と答えた。

 菊川が電話してから1時間後、チャイムが鳴った。インターフォンのモニターに映し出されたのは髪の長い上はTシャツに、下はデニムの若い女性だった。

「もしもし」

「もしもし?ここが、三上さんの家ですか?」

「はい、お入りください」

 私と雅人と菊川は、玄関へ向かった。私が玄関を扉を開けると、田中が入ってきた。柑橘系の香水の匂いがした。

「こんにちは。私が田中です。お久しぶり、菊川さん」

「お久しぶりです。田中様。お待ちしておりました。こちらが、三上夫妻です」

「三上雅人です。よろしくお願いします」というと、頭を下げた。

「妻の明美です。よろしくお願いします」というと私も頭を下げた。

「ここは、かなり危険ね」と笑みを浮かべながら田中は云った。「駅に着いた瞬間から地図アプリなしで家が分かるくらい危険」

「そんなに、危険ですか?」と雅人。

「うん、これはかなりの物に息子さんが取り憑かれているわね」

「そうですか」

「まあ、私ならどうにかできると思うけど」

「是非、お願いします」

「じゃあ、早速息子さんに会わせて。それとみんなの力が必要だから儀式の時には一緒にいるように。儀式中に何かあっても、絶対に部屋からは出ないように。絶対にね」

「わかりました」

「じゃあ、行きますか。菊川さんは補助に回って。三上さんたちは、息子さんが良くなるように力一杯祈って。できますよね?」

「はい」と私と雅人は同時に云った。

「じゃあ、始めますか」

 田中は、デニムのポケットからクリアブラックの数珠を出した。私は、除霊するのだからもっと仰々しい道具を持ってくるのだと思っていたが違うみたいだ。

 田中を先頭に私たちは健の部屋へ向かった。扉の前で彼女が止まると「寝ているわね。チャンスよ。起こさない物音を立てないで。いいわね?」

 私たちは頷いた。

 田中は、扉のノブをゆっくり回して、音を立てずに開けた。

 中で、変わり果てた健は犬が寝ているような格好で寝ていた。

 田中は目で私たちに合図をすると部屋に入った。田中を先頭に、次に菊川、雅人、私の順に健に近づいた。そして、ゆっくりと腰を下ろして、正座した。私たちも同じく正座した。

 田中は数珠を両手に巻くと、小さな声で呪文のようなものを唱え始めた。その言葉は小さく聞き取りにくかったが、全く聞いた事のないような言語に聞こえた。いわゆる、お経の、それとは違うと感じた。それに、続いて菊川が小声でお経を唱え始めた。

 私は、田中に云われたように健が良くなるように祈った。


   *


 私は祈り続けた。ふと、腕時計を見ると、1時間が経過していた。隣を見ると、雅人が目を閉じながら祈っているのがわかった。田中は相変わらず呪文を唱えて、菊川はお経を唱えていた。健は相変わらず寝ていた。

 いつになったら、この儀式が終わるのだろう?田中は時間までは教えてくれなかった。急に、足が痺れていることに気づいた。無理もない1時間も正座しているのだから。私は再び瞳を閉じて、健が良くなるように強く祈った。変身する前の、元気一杯の健に戻ってほしいと。そして、戻った際にはいつも通りの生活を送る事が出来ますようにと祈り続けた。

 突然、何かが床を擦る音が聞こえた。私は、目を開いた。すると、健が、立っていた。

 体毛が全て逆立ち、ワニのような歯を剥き出しにして、目は赤色に輝いていた。

「やばい」と田中がいうと小さくつぶやくと、呪文を叫ぶように唱え始めた。菊川もそれに続いて大きな声で御経を叫ぶようにして唱えた。

 私は、更に強く祈った。歯を食いしばり、奥歯が割れそうなくらい全身に力を入れた。

「やばい。罠だ」と田中が叫んだ。すると、健は田中に飛びかかり、ワニのような口で、田中の頭に噛みつき、頭が潰れた。脳髄が飛び出て、飛び散る肉片、真っ白な骨、血液は真っ白な壁や床に飛び散った。

 愕然とする、私と健と菊川。

 菊川は、お経を唱えるのをやめて、立ち上がり逃げようとした。健は、菊川に飛びかかり、彼の体に馬乗りになり鉤爪のような指で彼のお腹を裂いた。痙攣する菊川の身体。健は、ワニのような体で菊川の頭に噛み付いて、食べ始めた。床には死体から流れ出た血で真っ赤に染まっていた。

 私と、健はあまりの衝撃的な光景に立ち尽くすしかなかった。

「美味しい」と健は独り言のように云った。

「健、お前、何をしているんだ」と抑揚ない言葉で雅人が云った。

「生きている生肉が欲しかった。パパ、ママ。ありがとう」

「もしかして、この事を狙っていたの?」

「ああ、作戦だよ。だけど、こんなに早く、上手くいくなって思ってもみなかったよ。ありがとう」

 健は、田中と、菊川の死体を食べている。その光景はとても恐ろしく、ライオンが獲物を食べているように思えた。

 私は、目の前に広がる光景をみて、何も考えられなくなった。

「ねえ、人間が一番美味しい。もっと、食べたい」と無邪気な声で健は云った。

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