翌日、朝の5時に起きてジョンを散歩に連れて行った。今日は、念の為に健は連れて行かなかった。今は家でぐっすりと寝ていることだろう。

 ジョンは反省しているのか、それとも狭いケージに押し込まれて疲れたのか、とても元気が無かった。

 ジョンが家に来て5年が経つ。元々は犬を飼う予定はなかったが、知り合いのゴールデンレトリバーが生まれた。その時に、健を連れて遊びに言った時に、真っ先に健に甘えてきたのがジョンだった。その光景を見てジョンを買うことに決めたのだ。

 当時、マンションで暮らしていたが幸いにもペット可だった。雅人は最初突然子犬を連れてきた時に良い顔をしなかったが、その可愛さからか、彼もジョンを買うことに賛成してくれた。

 ジョンが生まれて5年になる。こんなに可愛くても、人間に換算すると40代らしい。そろそろ元気が無くなってきても、おかしくはない年頃だ。きっと、昨日のことでつかれていたのだろう。

 散歩を終えると、ジョンは終始なぜだか私にまとわりついた。何か言いたげな雰囲気を漂わせているが、犬の考えていることなどわからない。

 7時になった。今日はフレンチトーストとスパムを焼いた物だ。2階に行き、健を起こした。

「朝ごはんよ」

「もう少し寝かせて?」

「体調が悪いの?」

「ううん。眠いだけ」

「本当に大丈夫なの?」と私は、健のひたいに触れた。特に熱はなさそうだ。「ねえ、心配だから後1時間したら下に来てね」

「うん、わかった」

 確か薬の副作用で「眠気」と書かれていたのを思い出した。きっと、薬の副作用のせいだろう。

 ダイニングに戻ると雅人がダイニングチェアに座って、フレンチトーストを食べていた。

「おはよう。健はどうした?」

「眠いて」

「大丈夫なのか?」

「大丈夫でしょう。多分。薬の副作用よ」

「そうか、なら良いんだが」

「今日も仕事遅いの?」

「ああ、昨日は途中で早退したからね。遅くなるかもしれない」

「そう」

「ジョンの方はどうだ?散歩している時に何か変わったことは?」

「特には。でもなんだか元気がないのよ」

「そうか、犬も反省するんだな」

「かもしれないね」


   *


 リビングのソファーに座ってMacBookProを開いて仕事していた。ジョンは相変わらず私から離れようとしない。まるで、何かに怯えている子供のようだ。

 今日の仕事は割と簡単だ。この前送ったアプリのバグを修正するだけだ。バグは思っていたより少なく早く終わりそうだ。終わったら健と一緒に、ゲームでもしようと思っている。

 キーボードを叩き続ける。ふと、画面の右上に表示されている時間を見ると14時半になっていた。お昼ご飯を作るのを忘れていた。ウーバーイーツで健が好きなケンタッキーでも取るか。メニューは何にしよう。

 私は、2階に行き健の部屋の前に立った。すると、また何やら会話をしている。試しにドアに耳を近づけた。

「ねえ、青木くん。それを取って」と聞こえた。青木くんとは誰だろう?そんな友達、前の学校にもいなかった。もしかして今度はiPadを使ってZoomで新しく転校した学校でできた友達と話しているのかもしれない。

 ドアを開けた。健はレゴブロックで作ったビルをゴジラの人形を使って壊しているところだった。ぱっと見部屋にはiPadは無かった。また、誰もいない相手に話しかけていた。

「ママ、いきなり入って来ないでよって何回も言っているじゃないか」

「ごめん。ついノックするのを忘れちゃった。ところで、青木くんって誰?」

「だから、勝手に入ってくるなよ!」と急に怒り出す健。

「ごめんね。次からはちゃんとノックするから。許して。今日のお昼ご飯はケンタッキーよ。だから許して」

「わかった」と言うと、ゴジラの人形を置いた。

 ウーバーイーツが届くのに20分もかからなかった。フライドチキンを8ピースにポテトのLサイズが届いた。

 健はフライドチキンを、お腹の空かせた狼が獲物をむさぼる様に食べていた。その光景を見て安心した。

「ねえ、健。怪我の具合はどう?」

「今は大丈夫。でも、傷口が痒い」

「かいちゃダメよ。きっと、包帯ガーゼが蒸れているのね。食べ終わったら交換してあげる」

「わかった」と言うと、再びフライドチキンを、むさぼるように食べた。

 私は、ずっと気になっていた。青木とは誰なのか?私の視界にiPadが入らなかっただけで、Zoomで青木という人物と会話をしていたのかもしれない。

「ねえ、健。さっき、iPadでZoomを使って誰かと話していたの?」

「違うよ。それにiPadはあそこにあるじゃないか」と健はソファーのローテーブルに置いてあるiPadを指差した。

「じゃあ、青木くんって誰?」

「内緒」

「なんで、教えてくれないの?」

「なんで、ママはそんなに知りたがっているの?」

 質問を質問で返された。若干イラッとしたが、ノックもせずに盗み聞きした自分が悪いのも事実だ。

「青木くんって、どんな子なの?」

「内緒」

「なんで、内緒なの?」

「内緒だから、内緒なんだよ」と健は若干態度が悪くなった。

 私はそれ以上、青木くんについて聞くのをやめた。きっと空想上の友達だろう。イマジナリーフレンドと言うやつかもしれない。小さい時に空想上の友達を作ると、何かの本で読んだことがある。きっと、それだ。

「ねえ、食べ終わったらゲームしていい?」

「いいわよ。私もそろそろ仕事が終わりそうだから、終わったら一緒にゲームしよう」

「うん、わかった」


   *


 雅人が帰って来たのは22時半のことだった。取引先の接待でアルコールが入っていて若干酔っ払っていた。微かにタバコとアルコールのにおいがした。

 雅人は、カップヌードルの醤油味を食べていた。

「ところで、健の怪我は大丈夫なの?」

「うん、今のところ膿んでないし、出血もたいしたこともない」

「そうなんだ。よかった。ジョンの様子は?」

「それが、なんて言うか、いつもとおかしい」

「おかしいと云うと?」

「元気もないし、何かに怯えているみたいに見える」

「そうなのか、不思議だな。きっとジョンは健を噛んだことで後悔しているんだろう」

「だといいけど。もしかして、何かの病気だったらどうする?」

「病気?」

「うん、もう、5歳。人間で言ったら40歳くらいよ。病気になっても不思議じゃない年頃でしょ?」

「でも、今年の2月に病院に行った時は、なんともなかったじゃないか」

「確かに。でも、病気で気が立っていて健の事を襲ったのかもしれない」

「あれは、事故だったんだよ。気にすることないさ」

「だといいけど。そういえば、最近、健が変なの」

「変って、何が?」

「部屋で一人にいる時に、誰かと会話しているみたいに独り言を言っているのよ」

「何かのひとり遊びだろ?」

「だといいけど。今日もドア越しに聞こえたの。明らかに誰かと会話しているみたいだった。相手の名前も言っていた。青木くんって」

「青木?」雅人は一瞬、顔が凍りついたのがわかった。

「ねえ、青木くんって友達、前の学校にいたっけ?」

「さあね。よくある名前だからな。もしかしたら、新しい学校の友達の名前かもしれない。iPadでZoomを使って遊んでいたんじゃないのか?」

「いいや。iPadはソファーのローテーブルに置いてあった。あの子大丈夫かしら?」

「まだ、7歳だ。きっと、イマジナリーフレンドって奴じゃないかな?」

「うん、私もそう思う。でも、何か引っかかるのよね。なんで、『青木』って名前をつけたのか、それに、iPadを使えば友達と話せるのに、夏休みに入ってから一度も使った形跡が無いのよ」

「よ、よく、ある名前じゃないか。そんなに、不思議なことには、思えないけどな」と少々雅人は歯切れの悪い感じで答えた。

 私は雅人が何か知っているのではないかと、一瞬思った。

「ところで、一周忌の準備はできている?」

「うん、喪服もクリーニングに出したし、仕事も休みを申請した。それにレンタカーの予約もとっておいた」

「そうか、ありがとう」

 そろそろ、雅人の両親が亡くなって1年が経つ。運がいいと言うと不謹慎だが、本来ならその日に帰省するはずだった。しかし、台風が近づいていたので台風が過ぎ去ってから行くつもりだった。もし、あの時に無理やり帰省していたら、みんな死んでいただろう。


   *


 寝室で寝ている時のことだった。大きな音で目が覚めた。それは、ガラスが割れるような音だった。雅人も目を覚ました。

「いったい、何事だ?」と雅人がリモコンを使って電気をつけた。すると、スタンド・ミラーが割れて、鏡の破片が床に散らばっていた。

「なんだ?いったい?」

「わからない」

「もしかして、不良品か?」

「でも、引っ越しの時に買ったばかりよ」

「きっと、湿度か温度のせいだろう」

 すると、隣の健の部屋からもガラスの割れる音が聞こえた。

 私はビックリして、雅人と一緒に健の部屋へと向かった。部屋に入ると、同じくスタンド・ミラーが割れていた。

 ベッドを見る。健は寝ていた。

「おい、いったい何が起こっているんだ?」

 すると今度は、一階からガラスの割れる音が聞こえた。

 健が目を覚ました。

「ねえ、なんかあったの?」

「なんでも無い。鏡が割れただけよ。危ないからベッドから出ないで」

「うん」

 もう一度、一階から鏡が割れる音がした。

 私は誰かが侵入したのではないかと思った。

「ねえ、雅人。誰かいる」

「そうみたいだ。お前はここで待っていろ。俺が、ゴルフクラブを持って調べてくるから」と言うと雅人は部屋を出た。

「ねえ、ママ怖いよ」

「大丈夫よ。ママがついているから」と、私は云ったものの怖くてたまらなかった。誰か、この家に侵入したに違いない。


   *


 警察に通報してから10分も経たない内に警官が来た。

「鏡が全部破られていたんです」と雅人は警官に説明した。

 警官はメモ帳にメモを書いた。

「それで、他に被害はありましたか?何か盗まれた物は?」

「確認しましたが、今のところ何もありません」と私は云った。

「人影は見ましたか?」

「見ていません」

「戸締まりはどうでしたか?」

「ドアは二つ鍵が付いているし、チェーンもかけていました。それに、窓の鍵も全部かけていました」

「なるほど。不思議な事件ですね。入られた形跡もないし。息子さんは寝ていましたか?」

「はい、寝ていました。まさか、息子がやったと言いたいのですか?」

「いいえ、あまりに不思議な事件なもので息子さんの悪戯かと思いました。一応形式的な質問なので気にしないでください」

 確かに不思議だ。泥棒、強盗、なら説明がつく。しかし、わざわざ侵入して来て、家にある全ての鏡、おまけに私の手が鏡まで割るなんて理由がわからない。しかも侵入経路が不明だ。仮に、健がやったとしよう。だが、一階で鏡が割れた時には私と一緒にいた。とても不気味だ。

「わかりました。これからしばらく周囲のパトロールを強化しますので安心してください」

「それだけですか?」

「なにせ、侵入経路がわかりません。それに、今は猛暑が続いています。自然に割れた可能性も捨てきれません」

「ですが、新築ですよ。鏡が一つ割れたのであれば、その説明もつきます。でも、全ての鏡を割るなんて異常です」

「重々承知しています。これから鑑識が来ますので、その時に侵入経路もわかるはずです」と警官が言った。


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