1週間後。

「だいぶよくなったみたいですね。健くん今も痒いかい?」

「うんうん。痒くない」

「そうか、それはよかった。奥様、健くんに変わった様子はありましたか?」

「はい、この子も痒いと云わなくなりました」

 健は、この1週間、薬の効果で不思議なくらい健の痒みがなくなった。

「それで、先生。血液検査の結果はどうでしたか?」

「至って健康です。なんのアレルギーもありませんでした」

「では、原因はなんだったのでしょうか?」

「恐らく、汗疹か急激に環境が変わった事へのストレスでしょう」

「なるほど」それを聞いて私は安心した。もっと酷い病気だったらどうしようかと寝る間に考えてしまって、ろくに睡眠が取れなかったからだ。

「一応、念のために1週間分の塗り薬と飲み薬を出しておきます。それと来週もきてください。多分大丈夫だと思いますが、念のために」

「はい、わかりました」


   *


 病院帰りに二子玉川の駅ビルにあるレストランに寄って、健の好きなパンケーキを食べた。健はとても喜んで食べていた。食事を済ませると、1階にあるスーパーで挽肉とチーズを買った。夕飯は健のリクエストでチーズ・イン・ハンバーグになった。

 家に着いたのは16時の事だった。玄関を開けるとジョンが走ってきた。だが、いつもと様子がおかしい。ジョンの顔つきが、どう見ても威嚇していた。

「ねえ、ママ、ジョンが変だよ。どうしたのかな?」

「わからない。もしかして、お腹を空かせているのかもしれない」

 だが、おかしい。病院に行く前に餌はトレイに入れたはずだ。すると、ジョンが吠え出した。

「ねえ、ジョン。どうしたの?」と健がジョンの頭を掌で撫でた。すると、ジョンは健の掌を振り払い、健の掌を噛んだ。叫ぶ健。

「ジョン、何やっているの!」と私はジョンの頭を殴った。すると、ジョンは廊下を走っていて奥の部屋へと消えた。

 泣き喚く健。

「健、大丈夫?掌を見せて」と私は健の右の掌を見た。傷は深いらしく、大量に血が出て、玄関の床に血が流れ落ちていく。

「健。右手を持ち上げていてね。すぐに戻ってくるから」

「行かないでママ」

「すぐに戻ってくるから安心して」

 私は救急箱があるリビングへと向かった。パニックのあまりにどの棚に救急箱を入れたか分からなくなった。一瞬、冷静に考えた。棚の一番下だ。棚を開けると中に救急箱が入っていた。救急箱を右手に取り玄関へ走って行った。

 健は壁に背中を預けて右手を上げながらぐったりとしていた。

 私は、救急箱から消毒液を出した。

「少し痛いけど我慢して」というと消毒液を傷口に流し込むかのようにかけた。

「痛いよ、ママ」

「我慢して」

 ガーゼを出して消毒液をかけてから、ガーゼを傷口に押し付けて包帯でグルグル巻きにした。真っ白な包帯がゆっくりと真っ赤に染まっていく。

「大丈夫だからね」と健に言うと、ポケットからiPhoneを取り出して119番に電話をかけた。

『もしもし、緊急ですか?』

「息子が犬に噛まれました」


   *


 雅人が病院に着いたのは18時ごろだった。彼は走って病室へ来た。

「健、大丈夫か?」

「パパ。大丈夫だよ」

「何があった?」

「健がジョンに掌を噛まれた」と私は言った。

「それで、容態は?」

「掌を噛まれて、一針縫ったわ。もう、帰って大丈夫だって」

「そうか、健、本当に大丈夫なのか?」

「うん、大丈夫だよ。少し痛いけど」

「そうか、もっと酷い怪我だと思っていたよ」

「だから、大丈夫だって。ねえ、お腹空いた。早くハンバーグを食べたい」

「そうか、お腹が減っているのは元気な証拠だ。よかった」と雅人は安心した表情になった。


   *


 家に帰ると、玄関の床に健の血の跡が茶色く変色して固まっていた。

「これは酷い」と雅人は驚いた様子で云った。

 玄関の掃除を雅人に頼んで、私は、ジョンの元へ行った。ジョンは脱衣所で隠れるかのように座っていた。どことなく元気がなかった。もしかすると自分がしでかした事をわかっているのかもしれないと思った。

 私はジョンの首輪を引っ張って、物置部屋にあるジョンが子犬だった時に使っていたケージに入れた。子犬用なので小さかったがどうにか入った。仕方ない。しばらくはこうしておくしかない。

 用事を済ませると健の望み通りにチーズ・イン・ハンバーグを作った。健は自分が考えていたより元気だった。

「傷は大丈夫なの?」

「うん、大丈夫。少し痛いだけだよ」

「流石男の子だな。健は強い子だ」と雅人。

 それから、食事を済ませて健を寝かしつけてから、リビングに行き雅人が座っているダイニングチェアの向かい側のダイニングチェアに座った。

「今日は大変だったね」

「ええ、大変だったわ」

「それでなんだが、ジョンはどうする?」

「どうするってどういうこと?」

「決まっているじゃないか。一針も縫ったんだぞ」

「まさか、あなた」

「そうだよ。保健所だよ」

「ちょっと待って、そこまでする事ある?これまで、ジョンが噛んだことなんてなかったのに」

「次に噛んだ時には手遅れになるかもしれない」

 私は、まさか雅人がそんな冷徹な人間だとは思っても見なかった。そのことに驚きを感じた。

「でも、一回だけよ。普段はおとなしいし、健にとても懐いている。それに、ペットを飼うのにはリスクがつきものよ」

「そのリスクがデカすぎたんだよ。また、ジョンが同じことをしない保証はあるのか?」

「でも、」

 確かに雅人の言うことにも一理ある。しかし、ジョンも家族の一部だ。健とジョンの関係は兄弟と言っても過言ではない。兄弟で喧嘩して怪我をさせたからといって殺す必要はない。

「ねえ、ジョンを保健所に連れて行って殺すの?」と背後から健の声が聞こえた。振り向くと健が泣きそうな表情をしながら立っていた。

「話をきいていたのかい?」と雅人は驚いた表情をして言った。

「ジョンが鳴いている時に触った僕のせいだ。ジョンは悪くない。お願い。殺さないで」と云うと健は泣き始めた。

 私は、膝をつき、健の目線を合わせて云った。「大丈夫だからね。ジョンは保健所に連れて行かないから」

「だって、パパはさっき、ジョンを保健所に連れて行くって云っていたよ」

「あれは、パパの冗談よ。そうでしょ、パパ」と私は睨みつけるかのように雅人を見た。

 雅人は困惑した顔をしていたが、急に笑顔になった。「そうだよ。ブラックジョークだよ」

「ブラックジョークって何?」

「ブラックジョークっていうのは、ワザと悪いことを云って人を笑わせることだよ」

「本当にジョークなの?」

「ああ、ジョークだよ」

「じゃあ、ジョンを保健所に連れて行かないって約束してくれる?」

「ああ、もちろんだよ。だから、今日は寝なさい」

「本当にジョーク?」

「ああ、そうだよ」

「じゃあ、ジョンを早くケージから出してあげて。あんな狭いところに閉じ込めておくのは可哀想だよ」

「それは・・・」

 雅人が私を見た。困った表情をしていた。私も同じだった。まだ、ジョンは興奮しているかもしれない。

「ねえ、今すぐに出してあげて。ジョンが可哀想だよ」

 しばらく、考えた。ジョンの姿を見せるくらいならいいだろうと。

「じゃあ、明日はジョンをケージから出すから。今日はケージ越しにジョンの様子を見てねましょう。まだ、ジョンが興奮しているかもしれないし」

「うん、わかった」

 健は一直線に走って物置部屋に行く。私と雅人は後ろに着いていく。

 健は物置部屋のドアを開けて、電気をつけた。ジョンが目を覚ました。元気がなさそうだ。自分が何をしたか分かっているかのようだった。

「ねえ、ジョンが元気ないよ。やっぱり外に出そうよ」

「健。それはダメだよ。今日は様子を見なくちゃ」

「そうだ健。また興奮するかもしれない」

「さあ、ジョンも見たことだから寝なさい」と私が云った時だった。健がケージの鍵を開けて扉が開いた。

「健!そんなことしちゃダメだろうが」

「ブラックジョークだよ。さあ、ジョンこっちにおいで怒ってないから」と健が言うと、ジョンは静かにケージから出てきた。

「ジョン!」と言うと健はジョンを抱きしめた。ジョンはおとなしかった。

「ほら、大丈夫でしょ。パパ」

「ああ、確かに」

「ほら、ジョン今日はごめんね」というと健はジョンの頭を撫でた。

「ママ、餌はあげたの?」

「これからあげるつもりよ」

「わかった。僕が用意するよ」と言うと健はジョンを引き連れてリビングへと向かった。

「ねえ、雅人。これでも保健所に連れていくつもり?」

「いや、考えが変わったよ。でも本当に大丈夫か?」

「わからない。でも、多分大丈夫よ」

 私は、あることに気づいた。健がジョンを抱きしめた時に、ジョンが怯えている表情をしていた。

 以前、散歩中に土佐犬に出くわした時がある。その時の表情にとても似ていた。

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