第2話 侍、転生する
自分が転生したと理解した瞬間、俺はまず腹を切る事を考えた。
切腹して死に損なうなど生き恥もいいところだ。言行一致は武士道の基本中の基本。一度死ぬと決めた以上は、俺は絶対に死なねばならない。侍として当然のことだ。
しかし、思いとどまった。
この世界のクロウの母であるヴァレリア、母上が健在であるからだ。
子が親より先に死ぬのは究極の親不孝だ。
親孝行の
前世ではロクに親孝行もできなかった不出来な俺だが、それでも、実の両親や育ての親であるおじいちゃんより後に死ぬことはできた。その一線を覆して死んだのでは、生き恥ならぬ死に恥だ。挽回できない分より質が悪い。
それに生を全うせずに自分勝手な理由で腹を切っても武士道に殉じたことにならないし、望みも容易くは叶わないということは誰よりも理解している。
今世ではどんな形でも己の生を全うする。それが俺が前世での切腹から得た一番の学びだ。
ということで、俺は今世で腹を切っていない。どれだけ苦しくとも生きると決めた。
この世界『エンデランド』の文明は地球でいう17世紀相当。様式はその時代のヨーロッパに近いと思われる。
社会体制は封建制であり、現代日本と違い、戦に出る機会もあり、前世で磨いた武術の腕も価値を持つ。
それだけ見れば、この世界は俺が今わの際にのぞんだ二度目の機会にも思えるが…………実はそうでもない。
この世界とのかつての世界『地球』との大きな違いは二つ。
一つは『
これはまあ、良い。平安時代の俵藤太や源頼光と四天王の伝説のように怪物退治は侍の仕事だ。怪物の首には敵将の首と同じほどの価値がある。
問題はもう一つの違い。男女比の極端な偏りとそれに付随した男女間での役割の逆転だ。
簡単に言えば、希少な男は館に引きこもり、軍を率い
これには弱った。
俺が戦場に出るか出ないかは俺の意思次第でどうとでもなるが、武士道に準ずれば女の首は手柄にならない。名誉に反する。
この世界での
男のくせにと後ろ指さされようが構いはしないが、せっかく敵を討ち取っても手柄にならないのでは殺生の意味がない。
無益な殺生は武士道も固く戒めるところ。侍として恥となることはできない。つまり、戦場で功を立てて、成り上がることはこの世界でも難しい。
……端的に言えば、絶望だ。戦場で手柄を立て、立身出世を遂げるのは武士の本分。それが果たせないのであれば、生きている意味がない。
さりとて、死ぬわけにもいかない。武士に二言はない以上、再び自分勝手な理由で自死するつもりはない。
だが、一体、どうすればいい……俺は何のためにこの世界に転生したんだ……?
事件が起きたのは俺が転生してから一月後、そんな迷いの
◇
「…………やんぬるかな」
朝、ロンダイン侯爵邸にある自室のベッドで目を覚ます。
洋風の子供部屋。目の前には大分見慣れ始めた
ゆっくりと起き上がって、さっさと寝巻から着替えを済ませる。これも洋装。絶対に着物の方がいいが仕方がない、と自分に言い聞かせる。
姿見の前へ。そうして、鏡に映る顔に再び失望した。
黒い髪に、蒼い瞳。顔立ちは整っているが、子供とはいえ可愛らしすぎる。美男子だったというフィリップ、父上の影響だ。
会ったことのない父上には不敬だが、気が滅入る。
この顔のせいで、館の廊下や領内を歩いているだけで侍女たちや領民たちから「かわいすぎる」だの「愛らしさ天井知らず」だの実に不名誉なことを言われる。利発や勇ましいなら侍として誇れるが、見た目の美醜など侍にとってはよけいなものでしかない。
可愛さなどどうでもいいから、
着替えを済ませたら、一階の食堂へ。
心がいかに沈んでいても腹は減る。それに『食事は必ず家族で』というのはロンダイン家の家訓だった。
「起きたか、私の天使! 寝起きだよりいっそう愛らしいな、お前は! 来なさい、母上におはようの接吻をしておくれ!」
食堂では母上と今年三歳になる妹のネーナがすでに席についていた。
しかし、来なさいと言っておきながら、母上は自ら席を立って素早い動きで近づいてくる。そうしてそのまま、すばやい身のこなしで、俺を抱きしめると頬に接吻をしてきた。それも、一度ではなく二度、三度としてくる。
さすが女だてらに『獅子侯爵』の異名をとる女騎士だけのことはある。これほどのみのこなしを見たのは前世での俺の師匠であるおじいちゃん以来だ。
……毎朝この調子だ。
一年前に父上、夫のフィリップを亡くしたばかりで、一人息子が可愛いのは理解できる。正直勘弁してほしいが、これも親への孝行だと思って我慢している。
それに前世の両親は物心がつく頃には死んでしまっていたので、母上に対して孝行できることには感謝している。
母上は俺と同じ黒髪に、蒼い瞳をしている。
戦で失われた左目は黒い眼帯で覆われているが、その傷、戦場で正面から負った向こう傷は敵から逃げなかったという証。まさしく名誉の負傷だ。
それゆえ傷の存在は彼女の凛々しさを際立たせている。今年で三十歳になられるがその美貌は衰えるどころか、ますます盛んだと侍女たちが噂していた。
実際、息子である俺のひいき目を抜きにしても、母上は前世で見たどんな女性よりも綺麗だ。
顔立ちもそうだが、何より立ち姿が素晴らしい。服の上からでも鍛え込んだ肢体が見て取れる。いつか本気で手合わせしたいところだ。
「あ、おはよー、にいさま」
ニーナも母上に接吻されている俺を見つけると挨拶してくれる。頬にはパンケーキの欠片が付いていて実に愛らしい。
妹のニーナも母上に似ていてかなりの美人さんだ。現在三歳。このまま長ずれば城も国も傾かせる美少女になるに違いない。
……前世では一人っ子だったせいだろうか。こう、妹というものが新鮮でどうにもかわいがってしまう。
俺同様ニーナも母上に猫かわいがりされている。母上は自分の子供がかわいくて仕方ないらしい。
ちなみに、ロンダイン家の食卓には常に空席が一つある。
俺の三歳年上の姉、ロザリンドことローズの席だ。長女である彼女は王都にある『花嫁学校』に寄宿しており、帰ってくるのは年に数度。それでも母上は姉上がいつ帰ってきてもいいように席をあけている。
前世での俺の母親もそういう優しい人だったとおじいちゃんから聞いている。だから、そんな母上の行動が俺にはとても暖かいものに思えて、どうにも、母上には逆らえないでいた。
ちなみに、姉上の通っている花嫁学校は名前こそ花嫁修業のための学校のようだが、実際には
「なんとうらやま――ごほん、閣下、それくらいにしておきませんと、せっかくの朝食が冷めてしまいます。ニーナお嬢様、頬にお弁当が」
「む、そうだな。名残惜しいが、クロウに冷えた朝食を食べさせるわけにはいかない」
俺が母上の涎まみれになっていると、側に控えていた
三つ編みに結んだ茶髪を肩から垂らし、メイド服に身を包んだこの少女の名前はコーデと言う。知的そうな顔立ちを際立たせるように眼鏡をかけて、すらっとした立ち姿をしている。
彼女は現在のロンダイン家の家令ソネッタことソネッタ婆やの養子で、母上付きの侍女でもある。なので、母上に見劣りしない程度にはこの少女も美しい。本人は目立ちたがらないようだが、ドレスを着せればいっぱしの令嬢として通用するだろう。
そんなコーデの性格だが、丁寧かつ穏やか、その一方で養母譲りの鉄面皮の持ち主でもある。にわとりを絞める時も、母上を叱る時も眉一つ動かさぬ徹底ぶりで、怒らせると家中の誰よりも怖い。
一度、母上が公務のパーティーをさぼった時など足音だけで館が揺れるようだった、と記憶している。十二歳の子供の貫禄ではない。
ちなみに、ある書物を一人木陰で読んでいるときだけは表情が崩れるらしい。確か題名は『
「おはようございます、母上。おはよう、コーデ。おはよう、ニーナ」
三人に挨拶をして席に着く。目の前にはあぶった豚の塩漬け肉と葉野菜のスープ、切り分けたパンが並べられていた。
……味噌汁と白米と焼き魚がいい、という本音は胸の奥に沈めておこう。
「今日の糧を女神に感謝し、我らの祈りを捧げます」
「かんしゃしまーす」
「……感謝します」
母上が祈りを唱え、少し遅れてニーナと俺が続く。
クロウの記憶の中には祈りの聖句は刻まれていたが、この世界の宗教についての知識やそれに対する信仰心はない。
この点については好都合だった。
俺が信じ、奉ずる道は武士道のみ。クロウ少年には悪いが、こればかりは譲れない。
それに問題はない。
古今東西、いや、ありとあらゆる並行世界を探したとしても武士道以上にすばらしい生き方など存在しない。何を信じるかはそれぞれの自由だとしても、もともと信じるものがないのなら、武士道を信じればいい。それが最善だ。
一方、その生き方を実行に移すことはこの世界でもできそうにない。そんな風に考えると気持ちが果てしなく落ち込んでいくが、まだすべての希望が潰えたわけではない。そう俺は日々自分に言い聞かせている。
賢いと言っても
それこそか細い希望ではあるが、武士たるもの最期の一瞬まで諦めてはならない。『葉隠れ』にもそう書いてある。
「そういえば、クロウ、お前、私の書斎に入りたいのか? おませさんめ!」
食事を終えると、母上が言った。
どうやらここ二、三日、母上の書斎の前をうろついていたのが功を奏したか。自室にあるのは絵物語、手習いの本ばかりで参考にはなるが、知りたいことは載っていなかった。
そこであるいはと思って、母上の書斎にどうにかして入れないかと思っていたのだが……、
「はい。部屋にある本はすべて読み終えてしまったので」
「そうかそうか! 手習いを始めてまだ半年だというに、まっこと我が息子は聡明だ! 母は嬉しいぞ! これはあれだな! 賢君ゴトランド公の再来かもしれないな!」
嬉しそうに大笑いする母上。
ゴトランド公というのは伝説の君主で、男でありながら王国の国難を救った英雄だ。なんでも六歳で兵法書を読みつくし、政務にも関わっていたという。
凄い人だとは思うが、侍でないならあまりうれしくない。どうせなら『武田信玄』公や名君として知られる『
「それで次は私の書斎の本を読みたいというわけか。いいぞ、今日は執務もないから後で来なさい。我が家の蔵書はなかなかのものだぞ」
「いえ、一件面会の予定がございます」
すんでのところで、コーデが割り込む。眼鏡の奥で鋭い眼光が輝いた。
主が相手でも臆さずに物を言う、その態度は臣下の鏡。幼くして家政の一部を任されているのは伊達ではない。
「誰だ? 覚えがないぞ」
「女神教会の司教様です。おそらくはお布施の陳情かと」
「なら、無視だ」
「わかりました。わたくしの方で処理しておきましょう」
しかし、母上もさるもの。ただただ強権を振るっているように見えても、複雑な職務の優先順位を事細かに把握している。それが間違っていないからこそ、コーデもあっさりと引き下がったのだ。
「ふふ、クロウ、楽しみにしていろよ」
「ありがとうございます、母上」
よし、助かった。
部屋の大きさからいってもロンダイン侯爵家の蔵書はかなりのもの。欲しい知識が得られる可能性は高い。
「何が読みたい? 軍記か? 恋物語……はちいとお前には早いか! どう思う、コーデ」
「はい。ですが、閣下が新年の席で若様のご性別を明かされて以来、方々から婚姻の申し出の書状がもう十通以上届いております。ですので、若様にはぜひ、
ハイテンションな母上に、コーデが冷静に答える。こっそり自分のおすすめを推しているコーデは微笑ましいが、会話の内容はそうでもない。
六才の子供に、十件もの婚姻の申し込みがある。これもこの世界の男女比率の偏りゆえのことだ。
それに侯爵と言えば、貴族の爵位でもかなり上の方だったはず。それに屋敷が三階建でこの国では珍しく大浴場まで備えているんだ。身分だけではなく財政的にもしっかりした家であることは間違いない。俺と娘を縁付けることで権勢を得ようとするものが多くとも不思議はない。
日本の大名家ならばもっと幼い段階で婚姻ということもよくある。それこそ、生まれた時から結婚相手が決まっているような例も珍しくない。例えば徳川家康の孫娘『千姫』は七歳で豊臣秀吉の子の『秀頼』のもとに嫁いでいる。
……ならば、俺に婚姻の手紙が届くのも武家のならいと言えなくもない。そう考えると、ふむ、悪い気はしないな、侍らしい。
いや、この場合、俺の立ち位置は姫の方なのか……? おのれ……天め、俺をおちょくってるのか……!
「お、おお、もうそんなにか……むむ、やはり我慢できずに息子語りをしたのは失敗だったか……女イタチどもめ! 男日照りの小娘なんぞにクロウはやらんぞ!」
「気が早すぎます、閣下。落ち着いでください。だいたい、社交の場で男子が生まれたとあれだけ大声で自慢されたらどうなるかはわかっていましたでしょう」
「何を言うコーデ! こんなにかわいい息子を自慢せぬなど親失格! いや、人間失格だ! それに食いついて浅ましさむき出しの首都のぼんくら共が間違っているのだ! 見ろ、このモリモリ食べる頬を! ほおずりしたくなる!」
「………お気持ちはわかりますが、ご自重なさってください、閣下」
そんなことを考えながら食事を進めていると、母上が親心を暴走させ、コーデが突っ込む。いつも通りの朝ではあるが、気分が晴れた。
しかし、婚姻。婚姻か……前世ではその機会がなかったが、そうか、今世では侯爵家のためにも結婚せぬというわけにはいくまい。
となると、大事なのは相手だ。
俺は派手な女は好かん。いや、男でも女でも髪の毛をわけのわからん色に染めているやつは侍ではないと常々思っていた。自然かつ、ひそやかな黒色こそが至上だ。
しかし、侍の妻たるもの、三歩下がって影踏まず、というだけでは駄目だ。時には夫になり替わって、家をまとめ上げることのできる気丈さと器量を持ち合わせていなければならない。
具体的に言えば、教養と武芸はあればあるほどよい。まあ、ここは武家の娘たるものの基礎。その上で気品も必要だ。いかに強くて美人でもそれがないのでは台無しだ。
見た目に関して注文を付けるとすれば、黒髪でしとやかな顔立ち。着物が似合えば言うことがないんだが、この世界でそれは望み薄か。例を出すなら『源義経』の愛人だったという『静御前』とか、密かに憧れている。
それに前世と違い、この世界での俺は貴族だ。相手が一人とは限らない。側室を持つということもありうるか。
……いや、先のことは今はいい。重要なのはこの世界について知ること。まだ見ぬ嫁については後回しだ。
母上の書斎には多くの書物があるはずだ。目当ての知識があるとは限らないが、それに触れられるというだけでも心が少しだけ潤う。
読書はいい。
俺の前世での名前『新九郎』の由来となった『
◇
母上の書斎は俺の期待通りの空間だった。
広い部屋には侯爵家の当主たるに相応しい威厳に満ちた家具が置かれ、左右の壁には見上げるほど大きな書棚がぎっしりと並んでいる。
「どれ、この母が見繕ってやろう。まずは恋物語だな。ランスローの若妻物語がそこら辺にあったはずなんだが……」
「お任せします」
母上の気持ちはありがたいが、そのコーデの愛読書でもある若妻物語に全く興味がない。今は他に優先事項がある。このタイトルで実は中身が戦記物ということもないだろうしな。
俺が探すべきは歴史書や地理書の類だ。それらであれば、この世界について効率よく知ることができるだろう。ありそうなのは書棚の上の方――え?
書棚の上部、子供の俺の背丈では探さなければ見つからない場所にそれはあった。
刀だ。
黒塗りの鞘に円形の
打ち刀と小太刀。大小一揃えのその姿はまさしく日本刀、それ以外の何ものでもない。
侍の象徴。俺の愛する、侍の魂がこの世界にも存在していたのだ……!
――
あとがき
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